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2019. 10. 18  
次主日はローマ2:1-16を分かち合いますが、ここのポイントとなるのは「裁く」ということです。

裁く、ジャッジする。私たちは、他者の振る舞いを見て、「よい、よくない」とふるいわけることしばしばです。

しかし、そうやって他者をジャッジしているあなた自身が、神によってジャッジされていると、パウロは教えてくれます。

神様からすれば、「何様のつもりだ」ということでしょう。

あなたも同じことをしているではないか・・・、そう問われているのです。


私たちは同じことをしているのでしょうか?

クリスチャンの方は自分が罪人だと言っているけど、この乱れ切った社会にあって、品行方正ないい人たちばかりではないですか。それなのに、毎週毎週、罪の告白をして・・。自分にはまだそれが受け入れられないと、伝えて下さった方がいました。

そう感じるのももっともでしょう。そういう方にとっては、「自分も同じことをしている」とは、まだとても思えないのだと思います。

でも不思議なことに、信仰の理解が増して、人格的にも成熟し、倫理的・道徳的にも高められていくほどに、罪の自覚が深まって、「同じことをしている」と思わざるを得なくなっていく。

それが、キリスト者としての成熟というものであるようです。

それは、誰であれ、真実を見通される永遠の神の裁きの前では、みんな「同じ」ということを悟るからでもあります。

みんな同じです。だれも、その裁きには耐えられない。

しかし、その私たちのために、イエス・キリストという救い主が与えられました。

キリストを信じるなら、ただそれだけで、義とされる。このことも、みんな同じです。そこには何の差別もありません。

これが、福音というものです。


共に祈りましょう。

主よ、どんぐりの背比べのような私たちです。だれかを見下すことで、自分の正しさを確かめようとするような、愚かな心から、私を解放してください。私たちが、みんなで同じ罪を犯してしまうのではなく、成熟の道をいっしょに歩んでいくことができますように。



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2019. 10. 17  
次の主日はローマ2:1-16を分かち合います。

その初めはこうです。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」

「弁解の余地はない」、すなわち、言い訳は立たない。

この言葉は珍しくて、こことローマ1:20の二回しか用いられていません。

1:20は、「・・神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」とあります。

これは、神に背くような乱れ切った異邦人社会を糾弾する言葉です。

ギリシア人であれ、日本人であれ、聖書の神を知らずに生きている異邦人ですが、たとえ聖書を読まずとも、神についてある程度知り得るほどのことが、この被造世界には示されています。

大自然に圧倒されることで、なんとなく「神々しさ」を覚えて祈ったりするのです。

だから、「神様がいるなんて知らなかったから・・」などとの言い訳は立たない、というのです。

ひるがえって2:1からは、「人を裁く者」たちへの呼びかけです。

それは、神の民と自認しておごっているユダヤ人のことを指すと言われます。

1:20では異邦人たちに言われたように、今度はユダヤ人に対しても「言い訳はできない」と言うのです。

自分のことは棚に上げて、神から遠く離れた愚かな世界よ、滅びてしまえなどと言ってる場合じゃない。

あなた自身が問われているのですよ。

「いや、わたしはずっと神様のことを知っているのだから・・」との言い訳は立たない。

大事なのは、あなたが神の御心に生きるかどうかだと、この後迫られていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちそれぞれに、他人を裁きながら、自分を棚に上げているような愚かな者です。主よ、言い訳さえもできないものです。キリストのゆえに、あなたの恵みによって今日もきよめてください。
2019. 10. 16  
次の主日はローマ2:1-16を分かち合います。その前の段落である1:18-32には、人類の罪に対する神様の「怒り」について記されています。

「怒り」というのは、愛情の裏返しであります。

自分にまったく興味のない芸能界のスキャンダルには、あきれはしても、怒りは感じません。

神は、私たちの間違った振る舞いに怒りを覚えられます。それは、関係者だからです。責任があるのです。


私たち人類の罪は、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」と、1:21にあります。

教会に来たことがなくても、神様のことをまったく知らない人などいないのです。

でも、うすうす知っていながらも、ちゃんと神様と向き合うことから逃げ回っていたり、神様をふさわしくお取り扱いせず、勝手な神々を自分勝手にこしらえて、宗教的欲求を手軽に満たしているのです。

そこでは、神様の下に自分を置くのではなく、自分の下に神を置くという、根源的な倒錯状態があります。

そこがサカサマだから、生き方もサカサマになります。

そうして、24-32節では、サカサマな人間たちの、倫理も道徳もひっくりかえってしまった社会の問題が描かれます。

これは、古代のローマ社会を糾弾する言葉ですが、現代にもそのまま通用します。

そういう社会を見つめながら、「神は、お怒りになってしまわれて、ほったらかしにされているのだと・・」とパウロは悟っていたのです。

24節、26節、28節に、「神が彼らを罪深い思いに、引き渡された」という表現が繰り返されます。

くだらない心のままに、落ちるところまで落ちていけと、ほったらかしておられるということです。

そうして落ちていく人間に、静かな怒りを覚えながら、神はじっと忍耐し、見守っておられます。

それは、放蕩息子の悔い改めをじっと待っている、父親の愛情と、表裏一体です。

落ちるところまで落ちねば、人は、悔い改めることができないからです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの怒りに気付きもせず、あるいはそれを知らないふりをしながら、過ちを重ね続ける私たちの時代を赦してください。まずは、私が、あなたとのサカサマな関係をただすことができますように、聖霊の助けをください。
2019. 10. 15  
昨日は、私の友人である石川ヨナさんのライブで、ぜいたくな一時間を過ごしました。

台風19号の大きな被害に苦しむ人たちがいる中で、今自分たちに与えられた命の意味を問い、神からの「生きろ」との声を明確に覚えた時間でした。

ヨナさんは、クリスチャンロックミュージシャンとして、改革派信仰に基づく独特の言語世界をもって、この萎えた時代にどこまでも希望のメッセージを発し続けようと、戦っている人です。

命の水の水源は、もうすぐそこにあるから、だから信じて井戸を掘れ!!、などと歌うのです。

それは、歌という仕方での説教であり、叫びという仕方での祈りであり、私は彼女と共にまぎれもなく礼拝体験をしたと感じています。


「流れ星ひとつ願うなら、御心がなるようにと祈れますように。弱き私のそばにいて、思いと言葉とすべてを支えておくれ。

こぼれ落ちそうな想いを御手にゆだねて、星空にこの祈りよ、届けーーー!!・・・・」

細身の体をしぼりあげるようにして叫ぶ彼女の祈りと共に、私の魂は天の高みへと引き上げられました。

そのとき、祈りを聞いて下さる主イエスが、確かに私たちのそばにいてくださいました。

イエス・キリストとの神秘的結合。

私の言葉が貧しすぎて、言葉にするたびに、あの喜びがひとつひとつこぼれていくのが残念でなりません。

永遠に触れたとしか言いようがない。いや、触れられたのです。

渇いた魂に命の水が注がれて、それでも私は牧師をしたいと、もう一度、自分の声を聞きました。


「声」というものの大切さということも、改めて考えさせられました。

声は空気をふるわせながら、発する者の命を届けます。

命を削るようにして届けられた声と響き合って、私の体の中の水がゆらめき、よどみが流され、忘れかけていた情熱が沸騰します。

神は、土くれから創造なさった人間に、命の息を吹き入れて、「生きる者」としてくださいました。

今も、歌をとおし、礼拝説教を通し、神は小さな存在の「声」を用いながら、命を吹き入れてくださっているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、あなたの御心がなりますように。今、憔悴しきっている方を慰めてください。それができるのはあなただけです。主よ、助けてください。自分の無力を知った人間を救ってください。


2019. 10. 11  
昨日から「神の義」について考えています。ヒントとなるのは、旧約聖書イザヤ51:4-5です。

「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。

教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。

わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。

島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」


ここで「“わたしの正義”は近く」とあるのが、ローマ1:17の「神の義」というのと同じ言葉遣いです。

ここでは「救い」という言葉や、神がさしのべられる救いの「腕」という言葉と、並行的・同義的に使われています。

「裁き」という言葉もありますが、これは「支配、秩序、取り仕切り」というニュアンスが強いので、イエス様が「神の国が近づいた!!」と言われたのと同じことが言われていると、わたしは考えます。

それらのことを考えあわせますと、このイザヤ書の言葉は、イエス・キリストの到来の預言に他なりません。

「“教え”はわたしのもとから出る」と言われます。

この「教え」は、トーラーという語であり、神の民にとって命よりも大切な「神の御言葉」のことです。

その神の言葉が、人間となってきてくださった方が、イエス・キリストでした(ヨハネ1:1)。

神のもとから出て、私たち罪人に神の御心のすべてを明らかにしてくださった、神の「教え」そのものである方、イエス様。

その方が到来するその時、それが「神の義」が現われ、「救い」が現われ、全世界に神の救いの「腕」が差し伸べられる・・・。

そういう預言なのです。そういう預言が成就したと、新約聖書は伝えているのです。


共に祈りましょう。

主よ、大変に大きな台風が近づいています。しかしこのような災害を、あなたの怒りと呪いとして考える必要のないことを、今や私たちは知っていますから感謝します。あなたはイエス・キリストを与えてくださり、大いなる慈しみを明らかにしてくださいました。ですから、どんな時も、私たちを愛によって導いてくださるあなたの御腕に信頼します。しかし主よ、わたしたちは本当に無力な者です。どうか憐れみ助けてください。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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