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2020. 01. 17  
今週は創世記2:7の人間創造についての御言葉を、思い巡らしてきました。

神によって命の息を吹き入れられて、「人は生きる者となった」とありました。

これは、肉体的生命という意味も、またもっと深く霊的な意味も、両方のことが言われていると思います。

聖書の教える人間理解によれば、人は、体は生きていても、魂が死んでいるということがあります。

「体は殺せしても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ10:28)」とイエス様も言われました。

あるいは、「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか。(ヨハネ11:25)」とも言われました。

主イエスが私たちに注いでくださる霊的命は、疲れた体をも癒し、試練の時にも強く雄々しくあらせてくださいます。

ひとつ皆さんにもおすすめします。

深い呼吸をともなう祈りのかたちです。まず、息を吐ききってください。もう何も出てこないというところまで、すべてを吐き切ってください。

そうして自分に死なせていただくのです。

そして、息を吸います。その時に、「主よ、命の息を吹き入れてください」と願いながら、思い切り吸い、みずみずしい神の命をいただくのです。


共に祈りましょう。

主よ、この渇いた土くれに、命の息を吹き入れてください。今日の日が輝きだしますように。
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2020. 01. 16  
昨日の祈祷会では、ルカ福音書のクリスマス物語の中にある、母マリアの信仰の姿勢に目を留めました。

あのイエス様がお生まれになった夜、天使のお告げを聞いた羊飼いたちが駆け付け、証しをします。

「おれたちのための救い主がお生まれになったと聞いたんだ!」と、高揚して伝えたことでしょう。

それを聞いた周囲の人々は、みんな、羊飼いたちの話を不思議に思ったといいます。

しかし、マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」というのです(ルカ2:19)。

特に、「心に納めて」という言葉に注目します。

これは、いろいろな影響から守るために、不用意に外に出して発散してしまわないで、じっくりと心の中にとどめることだと、書かれていました。

同じようなマリアの姿勢は、2:51にもあります。

この時は、少年イエスが神殿にあって「ここが自分の父の家だ」とおっしゃる言葉に面食らい、「イエスの言葉の意味が分からなかった」といいます。

その前には、もう数年前の記録として、老シメオンの預言としてイエス様の十字架の死も予告されます(ルカ2:25-35)。

一連の出来事は、驚くべきことばかりで、当惑するよりなかったと思います。

でも、「母マリアはこれらのことをすべて心に納めていた」とあるのです。


自分にはまだ受け止めきれないようなこと、今は意味が分からないこと・・・でもそれを安易に意味づけて受容しようとしないで、ただ「心に納めて」、神様の導きをしずかに待った・・・。そういうことではないでしょうか。

そうして心に納められたことを、ゆっくり思い巡らす中で、やがて、すべての意味が明らかにされる時がくるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今倒れている方、臥せっている方、弱っている方、慌てふためている方、納得できなくて苦しんでいる方・・・いろんな思いを、どうか受け止めてくださって、その魂に平安をお与えください。やがてすべての出来事の意味が、恵みの中で明らかにされますように。
2020. 01. 15  
創世記2:7には、塵から造られた人間創造の奇跡が記されています。

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

命の息を吹き入れられた・・・。これはまるで口づけをするかのような親密さを表していると、解説している人がいました。

そして、まるでご自身の命を分け与えるかのようだと、言います。

そして、ここには、あのヨハネ福音書3:16の御言葉が響いているとまで言うのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この御言葉に示される、全人類に対する神の愛の熱情は、すでに人間創造のはじめより明らかに示されていたのです。

神ははじめから変わることなく、私たちが真実に「生きる」ことを望んでくださって、そのためにすべてを与えようとしていてくださいます。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが望んでくださって与えてくださった今日の一日を大事に生きさせてください。あなたにすべてを信頼し、それゆえにどこまでも自由に、ほがらかに・・。たとえ体は弱く衰えても、この魂を「生きる」喜びに満たしてください。
2020. 01. 14  
主日の礼拝には、創世記2章から人間創造の神秘を分かち合いました。

7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

人は、塵からつくられ、やがては塵にかえるにすぎない、はかない者です。

でも、そのような者が神によって命の息を吹き入れられ、生かされている。

このことをわきまえる、その感謝と謙遜ということを、聖書は教えているようです。

私たちの人生は、それぞれにまったく違う道を歩みます。ひとつとして同じ人生はありません。

その人生にはいろんな差が出てきます。神様から与えられるものも様々に違いがある。

でも、塵からつくられ、やがては塵に帰る。この点についてだけは、恐ろしいほどに同じです。

みんな塵に過ぎないものです。それゆえに、神の前でまったく取るに足りない、無価値なものです。

でも、そのような者が、人知を超えた神の愛によって、命与えられ、生かされている。

ここに、すべての人間の尊厳があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに生かされている。今日もまた、この感謝と喜びをもって、自分を愛し、隣人を愛し、与えられる出会いに丁寧に取り組むことができますように。

2020. 01. 10  
次の主日は創世記の2章全体を分かち合う予定でしたが、内容が豊かすぎるので、18節以下は断念します。

18-25節は、人に合う「助ける者」として女が創造されるという、感動的な場面です。

「助ける者」とは、僕のようにサポートする助手のことではありません。

「助け(エゼル)」は通常、私たちに神様が与えてくださる特別な助けで、それほどの助け手、つまりこの人抜きには自分の存在が成り立たないほどの「助け」ということです。

ですから、結婚の準備をされる方々には、私はしばしばこう申し上げます。

あなたがたはそれぞれ、お前はひとりでは生きていけないのだと、神様から宣言されたに等しいのですよ。

結婚をしないで生きていくという道を、神様から示される方もいます。

でも結婚という道が示されたということは、神があなたがたそれぞれに、「助け」が必要だと判断されたからです。

ですから、これ以降、決して傲慢であってはなりません。

パートナーの存在を、決して軽んじてはなりません。

この「助け」抜きには生きられない。そういう存在として、互いに尊敬しあってください。そういう存在にふさわしくなるべく、互いに努めてください。


共に祈りましょう。

主よ、結婚の祝福をいただいたすべての者たちが、今日の日に、互いを重んじ、共にあなたの素晴らしさを映し出すことができますように。結婚の願いを持つ者たちに、ふさわしい備えがありますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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