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2018. 12. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日からの3:21ー26のところは、ローマ書の教えの要約とも言われ、いよいよ本題というところです。

ここを読み進めていくのには時間をかけたいものです。今日は、勉強しているうちに時間が過ぎてしまいました。

とりあえず、21節を私訳しておきます。

<私訳>「しかし今や、『律法による行い』ということとはまったく離れて、神の義が明らかにされました。それは実は、モーセ五書や預言者たちの書、すなわち『聖書』において証言されているものなのです。」

神様の御前では、全人類が罪人であって、だれひとり正しい者はいない。

「律法を行う」ということを求められる限り、だれひとり合格点はとれない。まじめに取り組むほどに、罪の自覚が深まっていく。

そういう具合に、ここのところずっと、罪、罪、罪と、追い詰められてきました。

「しかし今や」と、ここでまったく新しいことが始まります。

人間の努力ではもうどうにもできない罪の袋小路で、神が乗り出してくださって、救いの世界を開いてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、クリスマスを待つこの時、我らの「罪を救う」ために生れてきてくださった主イエスを思います。そのようにして、あなたが、この暗い世界に光を与えてくださったこと、手を差し伸べてくださったことを感謝します。

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2018. 12. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:20です。

<私訳>「なぜなら、『聖書』の教える律法を行うことによっては、すべての人間は、神の前に合格とされないからです。律法によっては、むしろ罪の自覚が生じるからです。」

正しい人はひとりもいないという『聖書』の真理は、『聖書』の律法(道・教え)を一番よく知っている敬虔なユダヤ人にもあてはまるのだと、前回言われました。

なぜなら、どれほどに道徳的に高潔な人であっても、神の前では、合格ではない(=義とされない)からです。

それは、神の前では、というのが効いてます。

人の前では、立派な人はたくさんいる。私たちの周囲でも、信仰篤い道徳家で、まじめな生活をなさっている人がいるかもしれない。

しかし、神の前ではだれひとり、合格には満たない。この点において、人間は恐ろしく平等です。

だから、どんな人であれ、自分を誇ることができません。

むしろ、『聖書』を学び、律法を知れば知るほど、「罪の自覚」が生じてきます。

自分が罪人であるという認識が、どんどん深まっていきます。

それは、見ていて何か卑屈に思えるほどかもしれません。

でも、すべてを見透かしておられる神の前で、自分をありのままに見つめるならば、やはりそうせざるをえないのです。

その自覚が与えられること、そして、神の前でひざまずくこと・・・、そこから新しい命が始まります。


共に祈りましょう。

主よ、今日も寒い朝です。体調を崩している者、病と向き合う者たちに、憐れみと平安をお与えください。御前に、罪深い私たちです。どうか、今日の日、互いに傷つけ合うことのないように、むしろ励まし合い、高めあうことができますように。



2018. 12. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:19です。私の解釈を反映して、大胆に意訳してみます。

<私訳>「さて、私たちは知っています。こうして『聖書』に書かれていることは何事でも、『聖書』をよく知っている人たちに向けて言われているのです。そうである以上、すべての口はふさがれており、全世界が神の裁きを免れません。」


『聖書』と訳したのは、ふつう「律法」と訳されるノモスです。

ここの場合は、10-18節でパウロが引用した、詩編やイザヤ書などの言葉のことが具体的には考えられています。

「『聖書』をよく知っている人たち」としたのは、ふつう「律法の下にある」と訳される語です。

ここの場合、具体的には、敬虔と自称しているユダヤ人のことです。

私たちに当てはめるなら、『聖書』を大切に読んで、神様の御心を求め、理解しようとしているまじめな信仰者たちと言ってもいいと思います。

そういう人たちは、ある意味で、人間の中で一番、神様に近い人。近くあろうと願っている人かもしれません。

でも、その彼らの中に「正しい者はいない。善を行う者は一人もいない」という、聖書の言葉が当てはまるというのです。

そうだとすれば、その他の全人類は、神の裁きに耐えることなどできません。


「すべての人の口がふさがれる」、これはそういう具合に、ぐうの音も出ないほどに追い詰められる様を言います。

でも、聖書の中にはもうひとつ、違うニュアンスで「口がふさがれる」と言われるところがあります。エゼキエル16:63です。

「こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる。」

ここに示されているのは、神の圧倒的な赦しを味わったゆえに、もう言葉にできない思いで悔い改めに向かう人の姿です。


私たち全人類は、神の前で、ぐうの音も出ないほどに罪人です。でも、そういう者が、十字架の主の血潮によって赦される。

その赦しの感動に魂が打ち震える時こそが、私の口が、本当に「ふさがれる」時なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの聖い目を悲しませる私たちでしょう。あなたの聖い耳をわずらわせる私たちの身勝手な祈りでしょう。でも、主よ、どうか赦してください。あなたの赦しがなければ、生きられません。我らの罪を赦してください。私たちも、隣人の過ちを赦します。
2018. 12. 13  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:18です。

<私訳>「彼らの目の前には、神へのおそれがない。」

これは、詩編36:2の引用です。(ちょうど今日のリジョイスの個所です)

詩編36:2-3「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。」

10年くらい前に、私訳したものも紹介します。

「悪しき者への『悪』のささやき、わが心の内に響く。神へのおののきは、その目の前にない。まことに彼は、おもねる目で自分を見つめ、おのが咎と向き合わず、それを憎むこともしない。」

私は、この詩編の言葉は、聖書が言っているところの「罪」とはどういうことかを考えるのに、最善のテキストのひとつだと思っています。

ぜひ、繰り返し読んで、考えてみてください。


神への「おそれ」あるいは「おののき」。

それは、悪いことをしたらバチがあたるという「恐れ」の感覚だけでなく、神は確かに生きておられて、宇宙のすべてを導き、私たちを見ておられるという「畏れ(畏怖)」の感覚です。

それが、いつも「目の前」にあるかどうかが問題です。

どんな時も私たちを見ておられる神を、私たちもまた、どんな時も目を逸らさずに見ているかどうか。

いや、そんなことは誰にもできません。私たちは、神の目が気になりつつも、知らないふりをして逃げてしまっている・・・。

だから、「正しい者は一人もいない」と言われてしまうのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたへのおそれを知らぬ社会に生きております。だれよりも私自身が、あなたを甘く見ているかもしれません・・。主よ、お赦しください。


2018. 12. 12  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:15-17です。

<私訳>「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道にあっては破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」

これはイザヤ59:7-8の引用です。

「足(=歩み)」や「道」という言葉で、その人の生き方ということを示しています。

キリスト教というよりもキリスト道というほうがふさわしいところがあると、しばしば申し上げていますが、キリストの教えてくださる新しい生き方が問題なのです。

それと反対の古い人のままの生き方というのが、今日示された聖句には象徴されています。

平和を求めず、血を流すことを求めるという生き方です。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」とのイエス様の教えを思い出します。

私たちは、だれ一人正しい者はいない罪人ですから、互いに血を流し合っています。

いじめのない世界などはどこにもないし、醜い争いのない集団というのもありません。

平和という完全な状態は、この地上のどこにもない。

人はいつも、それを壊すように動くことしかできない生き物です。人間が罪人であるとはそういうことです。

そのことを、イエス様は誰よりも良く知っておられます。イエス様は人間を良く知っておられます。

私たちが罪人であることをよく知っておられます。

でも、それを痛いほどご存知の上で、言われるのです。「あなたがたが平和を作り出すのです。平和のない世界に、平和を作り出すのです。」


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちが直面するあらゆる場面で、平和を求めることができますように、この心にあなたの教えを書き込んでください。今、心から血を流すような思いで、人間の攻撃に苦しんでいる人がいましたら、主よどうか憐れみ助けてください。その心に平安を満たしてください。 
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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