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2019. 08. 10  
長く祈りに覚えてきたエレベーターの改修工事が、昨日無事に終了しました。

主がこのエレベーターを豊かに用いて下さって、ご高齢の方も、体の不自由な方も、御自身のもとにありとあらゆる人々を集めて、慰めを満たしてくださいますようにと、祈りました。


さて土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介しています。

今は、リヨンのエイレナイオスの言葉を紹介しています。150~200年頃まで活躍し、初期教会に影響力をもった偉大な教父です。

**************
救い主であるみことばが、見失われた人間と同じ状態になられました。

そうして、ご自分の方から、人間とご自分との交わり(コミュニオン)を実現し、人間の救いを成し遂げられたのです。

さて、見失われた人間は肉と血をもっていました。それは、神が地上の泥土を取って人を形づくられたからです。

それゆえ主もまた、この人間のために肉と血をもたれました。

こうして、主の到来によって神の御計画が実現したのです。

みことばは、ご自分で何か新しい業を始めるのではなく、はじめに御父によって企てられた業を繰り返し行い、

見失われた人を捜し出すために、そうなさったのです。
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2019. 08. 09  
次の主日は、ウェストミンスター信仰告白23章にある「合法的な戦争」という言葉をよく吟味し、聖書にある平和の教えを改めて受け取り直したいと願っています。

今日でもキリスト者が主流を形成する国、例えば韓国などではウ告白23章に基づく理解において、キリスト者が兵役に就くことがなされています。

非戦論・絶対平和主義というのは、キリスト教世界にあって、極めて少数派であると言うのが現実です。

ただ私は、日本という特殊な歴史を与えられた国のキリスト者として、またこの国にあって極めてマイノリティーな存在として、ナイーブなまでの平和主義にこだわり、声を上げ続けることの意味を大切に思っています。


問題は、「合法的な戦争」という言葉が独り歩きして、正戦論さらには聖戦論がまかりとおることです。

P.C.クレイギが「聖書と戦争 旧約聖書における戦争の問題」という本の中で言っていますが、

『正義の戦い(Just War)』という言葉は本来、ある戦いが「正義」にもとづいて行われるということをそれほど強く主張しているわけではなく、むしろその戦いが「正当化される」可能性があるというていどのことを主張しているにすぎないものです。

このあたりの微妙な違いを、よく考えたいと思います。

平和の君であるキリストが到来された後の、新約時代を生きる私たちは、

「この戦いは正義だ!」と主張する者の怪しさを、いつでも鋭く見抜かねばなりません。


共に祈りましょう。

主よ、この罪の世にあって戦いが避けられないものなのかもしれません。そこにこそ、私たちの罪が現れているのかもしれません。主よ、この罪を赦し、きよめてください。あなたにしか、人間をきよめることはできません。

2019. 08. 08  
次の主日には「正しい戦争はあるのか」という題で語らせていただきます。

特にウェストミンスター信仰告白第23章2節の「合法的な戦争」という言葉を取り上げて、これをどう理解すればいいのかを、皆さんと一緒に考えたいと思っています。

ウ告白23章は「国家的為政者について」です。

ウ告白が表されたイギリスをはじめとした西欧社会では、キリスト教国家が成立しており、為政者もまたキリスト者でありました。今日でも、このことはある程度あてはまります。

23章の1節では、神が為政者を任命され、秩序を維持するための「剣の権能」をお与えになると言われます。

以下の通りです。

「全世界の至上の主また王である神は、御自身の栄光と公共の益のために、神の支配のもと、彼らの上に立つ者として、国家的為政者を任命された。

そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行う者を擁護奨励し、また悪を行う者に罰を与えさせておられるのである。」

これに続くのが、問題の2節です。

「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果すことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、

この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる。」


このような「合法的戦争」という考えは、正戦論・正義の戦争論(just war theory)に立つ人たちに神学的根拠を与えています。

それゆえに、大変悪名高い信仰告白でもあります。非戦絶対平和主義に立つ方々からは、「改革派教会は戦争を肯定するのか」と批判されるのです。

さて、実際はどうなのでしょうか。もっと丁寧に考えていくことが必要だと思います。


共に祈りましょう。

主よ、私たち日本のキリスト者にとって、この8月は特別な時です。人間の恐るべき悪魔性があらわされ、罪の悲惨が極まったあの74年前の悲劇を、私たちは決して忘れません。主よ、どうぞ今こそ私たちの国に、戦争を憎む心を備えてください。


2019. 08. 07  
創世記28章の「ヤコブのはしご」の物語は、ヤコブが挫折の夜に夢を見て、主なる神が共にいることを悟って立ち上がるというものです。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」とヤコブは言いました(28:13)

これは、まさかこんなところで神とお会いできるとは思わなかった、という驚きの言葉です。

それはつまり、彼にとっての挫折と孤独の地であるこの場所で、石を枕にして眠ったこの場所で、神が共におられると知ることができた、その驚きであります。

「まさかこんなところに神がおられるとは思わなかった」という、そんなところに、神がおられたのです。

むしろ、そんなところでこそ、はじめて神と出会えるというべきかもしれない。

私たちが倒れ、力尽き、涙を流しているような、そんなところ。

しかしその低い低い極みのところまで、神のまなざしは届いていて、そこに天からの階段を伸ばして下さるのです。

そしてそこに神は降りてきてくださるのです。ヤコブはそれに気付いたのです。

私たちもまた、挫折の夜に思うかもしれません。もうダメだ。もうこんなところには、神は共におられない・・・。

しかし、神が我らと共にいまさない場所は、この地上にも天上にも、どこにも存在しません。

それが、インマヌエル(神我らと共にいます)と呼ばれるイエス・キリストの到来によって、完全に明らかにされた、神の真実です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も、いつでもどこでも、あなたが私と共にいてくださる。それが私の慰めであり、力です。主よ、今日もあなたと共に歩ませてください。
2019. 08. 06  
先の主日は、創世記28章の「ヤコブのはしご」の記事から御言葉をいただきました。

兄をだましたがゆえに、命の危険を覚え、追われるように故郷を旅立ったヤコブです。

そうして歩き疲れ、かたい石を枕にして、初めての荒れ野の夜を過ごすことになりました。

それはヤコブが味わう、初めての孤独と挫折の夜でした。

切なく胸に迫る夕焼です。そして日が沈み、闇の支配が始まることの恐怖・・。

闇の深さに呑み込まれていくような、未体験の不安と恐怖の中で彼は横たわったのです。かたい石を枕にして。

しかしそういう時に、彼は夢を通して、神からの語りかけを聞きました。

12節。彼が見た夢は、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というものです。

おもしろいですね、「地に向かって」伸びてきているのです。

最新の翻訳だと、ちょっと傾向が違って、「地に立てられ・据えられ」と訳していますから、何か文法上の発見があったのかもしれません。

不勉強をお許しください。私の今のヘブライ語知識では、ここは「地に向かって」と、方向性を示す言葉遣いになっています。

続く13節も、新共同訳では「見よ、主が傍らに立って言われた」とありますが、新改訳2017では、「主が(はしごの)上に立って言われた」とあります。

これも、どちらも可能だと思います。

ただ文脈からすると、神のほうから、天より「地に向かって」階段を下り、孤独と失意のヤコブをたずねてくださったと言う風に、私は理解します。

後日、解釈が変更する可能性もありますが、ご容赦ください。

でも、旧約の預言書、ホセア書12:5にも「神はベテルで彼(ヤコブ)を見いだし、そこで彼と語られた」とあります。

「見出す」という言葉は、「見つけ出す」という含みの語です。

ヤコブは神を探していなかったのに、神の方から探して見つけてくださり、近づいてくださった。あのザアカイの時と同じように!

それが、福音のパターンだと思います。聖なるワンパターンです。

不安と恐怖に震える、迷子の羊を探し出すように、ダメなヤコブを見つけて、語り合ってくださった。

それが、神の民イスラエルの原点にあるストーリーなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたの恵みを、地に向かって、このダメな私たちに向かって注いでください。今、挫折と失意にある者たちが、あなたとの出会いによって立ち上がる力を得ますように。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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