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2024. 04. 17  
今週は詩編の祈りに心を合わせてのシリーズで、今日は詩編84篇です。この詩編は有名な詩編で、礼拝大好き、神殿大好きな人の歌った賛歌です。

有名なフレーズがあります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にもまさる恵みです。(11節)」

あなたの庭っていうのは、神様を礼拝する神殿のことです。今で言えば、教会の会堂と言ってもいいかもしれません。教会で日曜日、朝から晩まで祈りと礼拝に没頭して過ごす、ああなんて濃密で幸せな一日なんだ。それは千日にまさる恵みだと言うのです。

なんだか、うらやましいです。こんな風に、神を礼拝する喜びと平安に満たされているなら、そういう人は本当に幸せだろうなあと思います。

そして6-7節には、こんな言葉もあります。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」

神様から勇気を与えられ、心に広い道を見ることができている人、そういう人は本当に幸いだ、すばらしい。たとえ嘆きの谷を通る時があっても、命の泉を見出して、渇き果てることなく歩んでいくことができると歌うのです。

本当に、そういう人になれたらいいなと思います。

一緒に祈りましょう。

神様、私の心にも広い広い道を通してくださって、喜びと平安で満たしてください。
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2024. 04. 16  
詩編の祈りに心を合わせてのシリーズで、今日は詩編76篇です。難しい詩編なのですが、でもその中で、皆さんにどうしても耳を傾けていただきたい言葉があるのです。私の翻訳でお伝えします。

「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。あなたの御前に、あなたの烈しい怒りの前に、誰が立つことができるでしょう。天から、あなたが裁きを聞かせ、大地はおそれて静まり返ります。神は、裁きのために立ち上がられ、地の貧しい人をすべて救われる。(私訳、詩編76:8-10)」

いかがでしょう。「神よ、あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。あなたの烈しい怒りの前に、だれも立つことはできません」と、深いおそれが表されています。

神の烈しい怒りということを、思ったことはあるでしょうか。

神は、この罪深い私たちの時代に対しても、怒っておられます。傲慢に繰り返される不正や腐敗や、非人道的で残酷な仕打ちのひとつひとつをも、決してそのままにはしておかれません。

神の怒り、それはまことに恐るべきことです。

しかし、その神の怒りを、私たちの身代わりに引き受けてくださったのが、イエス・キリストの十字架の死です。

今、あの十字架を想い起し、おそれをもって、神の御前に静まりましょう。

2024. 04. 12  
今週は詩編の祈りに心を合わせてシリーズです。今日は詩編73篇ですが、これはなかなか難しい詩編です。

ひと言でいうと、悪人がこの地上で繁栄を享受しているという理不尽に対する信仰者の葛藤が表されている歌です。
こんな風にあります。「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。(3-5節)」
こんな風に、神に逆らう悪人であるにもかかわらず、懲らしめを受けずに平安な人生を送って、財を成しているという現実があるのです。

他方で自分はといえば、神様を大切に、心清くありたいと願いながら生きているのに、病与えられ、労苦を強いられている。

これは本当につらいですよね。今実際にそういう理不尽さに苦しんでおられる方もいるかもしれない。一体これはどういうことなのかと神に問い詰めたい、そんな思いにもなると思います。

でも聖書が教えているのは、神は必ずすべてをよーく見ておられて、それぞれにふさわしい報いを与えられるということです。

だから決して道を踏み外すことないように、共に祈りましょう。


神様、思えば私もまた、あなたに逆らう悪人でありますが、あなたに近くあらせてください。どうぞ願わくは、私が心を清く保つことができますように。
2024. 04. 10  

RCJメディアミニストリーの看板番組「あさのことば」は毎日更新されていますhttps://www.jesus-web.org/radioprg/prg_asa.htm。茨城放送でもラジオ放送されています。

私の当番が近づいてきていますので、今週と来週は、その原稿書きにお付き合いください。

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私の当番の時は、詩編の祈りに心を合わせてというシリーズで、旧約聖書に記された詩編の御言葉をひとつひとつ味わっています。今日は詩編72篇です。

私はこの詩編を歌った人というのは、本当に神様を信頼しているんだな、こういう風に神様とお付き合いできるのは素晴らしいなあと感動する思いになります。

こういう言葉が印象的です。「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときから、あなたに依りすがってきました。(5,6節)」

すごいですね、母の胎にあるときから、ずっとあなたを信じてきました、愛してきましたと言っちゃうなんて、どれほどの情熱でしょう。

そして、そういう私のことをどうか見捨てないでと訴えます。「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください(18節)」。

こんなこと言うと怒られそうですが、昔、森高千里さんが歌っていた「私がおばさんになっても」という歌にも似てますね。おばさんになっても、白髪になっても、神様、わたしを愛してくださいよ、見捨てないでくださいと迫っている。

でもそれは疑っているのではないのです。

むしろ、必ず見捨てないでいてくださると、強く信じているから、こういう風に祈るのです。

共に祈りましょう。

神様、あなたはわたしの希望です。どうかわたしが老いて白髪になっても、私を見捨てないでいてください。
2024. 04. 05  
イースターから始まったこの一週間も、はや金曜日です。次の主日もOpen Church Daysとして「キリスト者にとっての死ぬことの意味」をテーマに御言葉を分かち合います。ぜひ、お集まりください。

今日はⅠコリント15:19-21の御言葉に心をとどめます。新改訳2017の翻訳が分かりやすいでしょう。

「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。(Ⅰコリント15:19-21)」

私たちが五感をもって味わうことのできるこの地上の現実は、この時間世界は、やがて神によって終わりがもたらされます。しかし、その向こうにある神の世界のことを、聖書は教えてくれます。それが永遠の命の世界です。

聖書によれば、すべてが終わるその向こうに、死者の復活ということがあるのだと示されています。イエス様が復活したように、イエスを信じる者たちもみんな復活して、永遠の神の国に入ります。

復活というのは、単なる生き返りではありません。元のわたしに戻るということではありません。この劣等感に満ちた存在にただ生き返り、延々と罪深く生き続ける・・・それは、かえって地獄です。そんなことなら、私は復活なんてしたくありません。

そうじゃない。復活というのは、そういうことじゃないのです。新しい命に生まれ変わるのです。

・・・そうは言いましても、それがどういうことなのか。私にも想像がつきません。復活したことないですから。

分かっているのは、あのイエス様の復活がどれほど栄光に満ちたものだったかということだけです。そのイエス様と同じ栄光の体をいただいて、完全な平安の中で、イエス様と共に生きる・・・。それが私たちに約束された究極のゴールなのです。


共に祈りましょう。

主よ、どうぞ私たちがこの地上のいのちのことだけに心縛られず、自分の狭い世界を超えて、あなたにある永遠の命の世界の喜びを少しでも垣間見ることができますように。見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に残ります。わたしたちは見えないものに目を注ぎます。だから、わたしたちは落胆しません・・・。この言葉を、わたしの言葉にさせてください。
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プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
茅ヶ崎にある改革派教会、湘南恩寵教会の牧師です。
茅ヶ崎駅南口から徒歩8分の教会です。
御茶ノ水聖書学院の聖書科講師をしています。
ネット番組「がっつりコミュニケーション」のパーソナリティーです。

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