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2019. 02. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日から、4:9-12に取り組んでいます。

(<私訳>は繰り返しませんので、昨日の配信をご確認ください。)


ここで問題になっているのは、「割礼」ということです。

「割礼」は男性性器の包皮を切り取る儀式で、成人になる通過儀礼として、古代オリエント世界で広く行われていました。ですから、ユダヤ人だけの独自の慣習ではありません。

しかしユダヤ人の場合は、「主なる神様との契約を結んだということのしるし」として、割礼を理解している点が独特です。

割礼を受けた者は、神との契約に入った神の民であり、「義とみなされる」と考えていたのです。

女性は割礼を受けることができませんが、家長である男性のゆえに契約に入れていただくという理解です。

女性はまるで付属物のような扱いです。こういうことからも、いかに男性中心の社会であったかということが分かります。

今日の私たちにとって、それは決して正しいあり方ではないでしょう。

話は戻りますが、そういう「割礼」というしるしを、ユダヤ人たちは非常に大切にしていました。

たとえはよくないですが、任侠の世界で、体に墨を入れることによって自分を異質な者として誇るように、ユダヤ人たちも、異教社会でつっぱって生きる神の民としての自らのオリジナリティーを、割礼というしるしで確認しました。

でも本当に、割礼を受けたユダヤ人でなければ、「義とみなされる」ことはないのかと、パウロは問うています。

一番ルーツに戻ってみて、アブラハムの場合はどうだったか?

アブラハムが割礼を受けたのは99歳の時で(創世記17章)、神様の約束を信じて旅をはじめてから、ずいぶん後のことでした。

だから、大事なのは「信仰」、より正確には、救い主イエス・キリストを信じて受け入れることなのだと、言っているのです。

私たちには誇るべきなにものもないのです。信じさせていただくだけです。


共に祈りましょう。

主よ、何も持たないものが、義とされ、神の子、神の民としていただいたことを感謝します。外見ではなく、私たちの中身が変えられて、神の民としての証しがなされますように。




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2019. 02. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:9-12を一気に読みます。

今日は、翻訳だけしてみて、明日また味わい直してみましょう。

<私訳>「では、その『幸いだ』という祝福は、割礼を受けたユダヤ人だけに向けられているのでしょうか。それとも、割礼のないすべての人にも向けられているのでしょうか。

私は繰り返して言いますが、『アブラハムに対しては、彼の信仰が義とみなされた』のです。

それではどんな状況の時に、そのようにみなされたのでしょうか。すでに割礼を受けた後でしょうか。それとも、割礼を受ける前でしょうか。

割礼を受けた後ではないですね。まだ割礼を受ける前だったじゃないですか。

まだ割礼は無くともすでに「信仰によって義とされている」ということの、認め印のようなものとして、後から、割礼という象徴的なしるしをいただいたのです。

こうしてアブラハムは、割礼は無くとも信仰をもっているすべての人々の父となったのです。それは、そういう人たちもまた義とみなされるようになるためです。

同時に彼は、まことの割礼のある者たちの父でもあります。

すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、私たちの父アブラハムがまだ割礼を受けていなかった時からの、信仰の足跡に従って歩もうとする者たちにとって、彼は父なのです。」


共に祈りましょう。

あなたによって義としていただいて、愛され、子とされて生きるこの身の幸いを感謝します。今日も、義とされた私たちが、平安と喜びに生かされ、互いに愛し合うことができますように。悲しみや痛みを覚える方々に、イエス・キリストの憐れみがありますように。
2019. 02. 16  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介いたします。

先週に続いて、シリアのアンティオキアの主教、イグナティオスの言葉です。


・・・イエスの言葉を真に自分の中にもつ人は、イエスの沈黙さえも聴くことができます。

それは、完全な者となるためであり、語ることを行い、その沈黙によって理解されるためです。

主に隠されていることなど何もなく、わたしたちの秘密も主の前に置かれています。

ですから、主がわたしたちの内におられることを思って、すべてを行いましょう。

わたしたちが主の神殿となり、わたしたちの中で主がわたしたちの神となられるために。

そして実際、主はその通りわたしたちの内におられ、わたしたちが主を正しく愛するとき、主はわたしたちの面前に顕現なさるでしょう。


2019. 02. 15  
先の主日には、ルカ12:13-21から、「愚かな金持ちのたとえ」を学びました。

ある金持ちが、大豊作で、蔵に入りきらないほどの財産を得ました。蔵がいっぱいになったのですから、もう十分です。有り余っているということです。

だったら貧しい人にあげるとかいう発想があるといいのですが、そうはいきません。

全部、自分のものとして確保するために、蔵を大きくしようと考えました。

そうやって、自分で、自分のものを、自分のために確保することで、彼は安心をするのです。

でも、悲しいかな、そうして安心したその夜に、彼の人生は終わりを迎える・・・。

こういうたとえ話によって、イエス様は、何を教えようとしてくださっているのでしょうか。


地上の財産を蓄えることに執着するのは空しいことだ。どうせ誰もが死ぬ。裸で土に帰っていく。だから、「貪欲=欲しがる罪」に気をつけなさい。

そういう教えだと理解されることもあります。そういうことも当然含んでいるでしょう。

でも、より丁寧に考えれば、お金や持ち物、財産を「すべては自分のものだ!!」と考えることの間違いが、教えられているのだと思います。

すべては神様のものであって、私たちのものではない。これがポイントです。

私たちは、この地上で生きる間、いうなればレンタルをさせていただいるのであって、決して自分のものではない。

そして、それは神様のご都合で、ある時突然終わるのであって、残念ながら、私たちの計画通りには進まないのです。

私たちのお金や持ち物、さらには生命そのものさえも、すべては神様のものであって、取り去られる時があるのです。

このたとえ話の中心は、そういうところです。

そうであればこそ、自分のために富を積むということでなく、「神の前に豊かになる(ルカ12:21)」ということを考えてごらんと、示されています。


共に祈りましょう。

主よ、今日与えられている生命、時間、仕事、出会い・・・。今、私たちが用いることがゆるされている間に、これらのものを、存分に喜び楽しませてくださいますように。そして、あなたの前に豊かになるとはどういうことか、それぞれに考えさせてください。

2019. 02. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日に続いて4:6-8です。

<私訳>「ダビデもまた、行いと無関係に義とみなされる人の幸いについて、こう言っている通りです。『幸いだ、その不法を赦され、罪を覆われた人々は。幸いだ、その罪を、主から罪とみなされない人は。』」

最後の「幸いだ、その罪を、主から罪と見なされない人は」。

原文は、「幸いだ、主が、罪を、けっして勘定に入れ給わないところの、人は」という感じです。

あくまでも主体は「主なる神」のほうにあって、「人」のほうにはありません。

「人」のほうでは、罪のおのれをさらけ出すしかないのですが、「主」が、それを「勘定に入れない」でいてくださる。

すなわち、「罪があるのに、罪だと見なさない」でいてくださる、ということです。

また、「けっして!!」と強調しました。文法的に、ここには「未来への強い否定」が込められているようです(参考書の受け売りです)。

私たちは、そういう「主」の側の、強い決意によって、ようやく救っていただけるような者たちです。


共に祈りましょう。

主よ、行いと無関係に義としていただく私たちですから、今、感謝とおそれをもって、自らの行いをもきよめたいと願います。また主よ、罪の深い自覚こそ、なによりも罪人にとって困難なことですから、それぞれにふさわしい聖霊の導きがありますように。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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