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2021. 10. 19  
湘南恩寵教会では、先の主日、一組のご夫妻の転入式がなされ、礼拝後に歓迎会の喜びがありました。

15人ほどで弁当を持ち寄って、感染に注意してディスタンスを取り、声を抑えつつ、一緒に食事をすることができました。

これは、私が赴任してからようやく初めて実現した、ささやかなささやかな愛餐会です。

みなで一緒に食事をする、ただそれだけのことがこんなにもうれしく、大切なことであったことに改めて気付かされる思いです。

礼拝で分かち合った使徒言行録2:43-47の御言葉には、原始教会の麗しい一致の姿が示されていました。

そこには、聖霊において臨在される主イエスの愛の下で、主が約束してくださった天国の宴の喜びを先取りするかのように、みなで一つのパンを分かち合う、豊かな食卓の様子が記されています。

「・・そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(46-47節)」

喜びと真心をもって、一つになって食事をする。

そこに主イエスの愛と命が満たされ、教会は動き始めていくと信じています。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私の仕える湘南恩寵教会の一人一人を聖霊によって導いてくださって、みんなで一つとなってあなたを喜ぶことができますように。また、私の愛する勝田台教会や熊本教会、その他のすべてのキリストの教会に、霊の一致を与え、この困難な時を恵みのうちに乗り切ることができますように。
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2021. 10. 15  
昨日の朝日新聞で「親ガチャという不平等」というテーマで有識者が語っていました。

「親ガチャ」という言葉は最近よく聞きますが、「親を選べず、親次第で人生が決まってしまう」という、あきらめにも似た人生観を表す言葉のようです。

ガチャガチャくじのように、自分では選べないものを受け入れるしかないということなのでしょう。

個人的には好きではない言葉なのですが、そのように言いたくなる気持ちは、理解したいと願います。

実際、私たちにはそれぞれ、与えられるものに違いがあります。私たちキリスト者は、人生の全ては創造者である神によって与えられると信じますが、神が与えて下さるものには違いがあるのです。


神は言われました、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。(ローマ9:15)」

すべては神の自由なのだということが、この言葉には強烈に示されています。

でも、だから人間はあきらめるしかない、わがまま勝手な神様の言いなりになるしかないということなのでしょうか。

そのようにしか感じられない人もいるでしょう。特に、つらい境遇に置かれている人はそうかもしれない。でもキリスト者の信仰は、そんな寂しい信仰ではないのです。

聖書を通して示されるのは、そして私たちの生涯において証しされるのは、神は決して悪いようにはなさらないということです。

自分に与えられたこれまでの人生と、今の現実がどうであれ、「私は神に絶対に愛されている」と信じることができます。信じることから、これからの道が始まります。開かれていきます。

そこにあるのは、イエス・キリストを与えて下さった神に対する信頼です。あきらめではなく、神への信頼です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も何が与えられるのか分からなくて、不安になります。でもあなたを信頼し、おゆだねします。これまでに与えられたすべてのことに、あなたが与えて下さっている意味があると信じます。すべては、これからの歩みのために必要でした。私に用意してくださっている平和の計画に感謝します。
2021. 10. 14  
ローマ9:6-18を振り返っています。いつもより画質は悪いですが、説教録画はこちらです。


14節に、パウロはクレームを想定するかのように、こう言います。「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。」

「不義」、これは不正とも不公平とも訳されます。「神様は不公平じゃないか」ということなら分かりやすいでしょうか。人間的にはそうも言いたくもなります。

でも、ここで「不義」と訳されているのは大切です。「神は不義ではないか」というクレームは、大変重大です。


なぜなら「不義」という言葉は、ローマ書が一貫して大切に伝えてきた「神の義」ということを否定する言葉だからです。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です(3:21)」と言われていた「神の義」です。

ただ「信仰のみ=恩恵のみ」で、罪人を無償で義と認めてくださるという「神の義」です。

もし私たちが、自分の価値基準でもって神の自由な選びということにクレームをつけ、「不義だ、不正だ、不公平だ」とジャッジするのならば、それは結局、「神の義」を否定するのと同じになるのです。


共に祈りましょう。
主よ、あなたの思いは私たちの思いを高く超えていて、納得できないこともたくさんありますが、今日もあなたのみこころがなりますように。私の今日までの歩みが、すべてあなたの恵みによって導かれてきたことを信じます。今日もあなたの手におゆだねします。

2021. 10. 13  
先主日はローマ9:6-18より分かち合いました。

ローマ9-11章のテーマは、「なぜ神は救いを異邦人世界へと広げられ、ユダヤ人をかたくなに離れさせてしまわれたのか」ということです。

とても特殊な問題ですが、示される答えは普遍的であり、神を神としてあがめるということの根本に関わります。鍵は、神の自由と憐れみです。

私たちが神の民として選ばれるのは、行いの差によらず、ただ神のほうで自由に選んでくださった結果です。

そのことを、エサウとヤコブの双子の例を引きながら、論証しています。

「その子どもたちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が、人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。(ローマ9:11-12)」

これは、創世記25:22-23を背景にしています。

「人の行いにはよらず」というのは、このローマ書で繰り返し確認される、福音の神髄です。

行為義認ではなく、ただ神の恵みによる救い「信仰義認=恩恵義認」ということと、神の自由な選びということは通じています。

改革派教会では「予定論」を大切にします。それは誤解されることしばしばですが、その本質は、「ただ恵みによる」ということの徹底的な追及です。

どうして私は救われて、今日も信仰と希望と愛をいただいているのだろう・・・。それは、すべて神の恵みによるのであって、神がそのように、生まれる前から私のために備えていてくださるからです。


共に祈りましょう。

主よ、今日一日も、わたしのすべては、ただあなたの恵みによって計画され、配慮され、愛されていることを、この朝確信いたします。あなたの大きな手の中で、みこころの中で、心安らかに歩ませてください。
2021. 10. 08  
先主日に分かち合ったローマ9:1-5の最後は、「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」という頌栄の言葉になっていました。

キリストのことを語ろうとした時に、賛美の言葉が思わずあふれ出したという感じです。

まさにキリストは永遠にほめたたえられるべき神です。

その神が人となってくださり、死んでくださった、だから十字架の愛は重いのです。それは、投げ捨てられた栄光の分の重みです(ヘブライ語で「栄光カボード」は「重さ」をも意味します)。

ユダヤ人は、そのキリストの秘儀、十字架の秘儀を受け入れられないでいます。

私たちの周りの人たちも同じでしょう。漠然と神一般を拝む思いを持っている人は多い。信仰をもって生きるということ自体には、実は憧れを持っている人も少なくない。

でも、イエス・キリストという神を受け入れられない。

イエスを主と信じ、従うことはしたくない。神である方が人となられ、死んでくださった、そのことの重大さが分からない。それはつまり、自分の罪を認めたくない。見つめたくない。

そんな人にたくさん出会いました。本気でキリストを受け入れる人は、いつの時代も決して多くありません。私自身、どこまで自分が「キリスト者」なのか心もとないものです。

でも、知ってほしいと願います。イエス・キリストという神を信じ、キリストと共に生きる喜びを、多くの人に知ってほしい。

共に祈りましょう。

主よ、あなたの御名はほむべきかな。永遠にほめたたえられる神、キリストよ、今日も大いなる救いの御手をもって、この悲しみの世界に、十字架の慈しみを注いでください。あなたの恵みに気付き、あなたの道を歩み始める者が今日もひとりでも多く起こされますように。そうして世界が変えられていきますように。

プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
茅ヶ崎にある改革派教会、湘南恩寵教会の牧師です。茅ヶ崎駅北口から徒歩8分の教会です。御茶ノ水聖書学院の聖書科講師をしています。ネット番組「がっつりコミュニケーション」のパーソナリティーです。

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