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2019. 12. 04  
昨日まで、三浦海岸での牧師研修会に行っておりました。

牧田吉和先生をお迎えして、「神の国の前衛としての説教と説教者―三位一体論的説教を求めて―」という主題で、学ばせていただきました。

無理を承知で、その要点だけをお伝えします。

牧田先生の神学の屋台骨は、「救いの歴史」という概念です。

天地の創造から終末の新天新地にいたる、宇宙論的な神の国の展開に思いをはせる、スケールの大きな神学です。それは、「改革派神学」の本流に沿うものです。

その「救いの歴史」は、三位一体の神の「語りの歴史」でもあります。

すなわち、「救いの歴史」とはいつでも、神の言葉が語りかけられることによって展開していく、そういう歴史であるということです。

その神の「語り」のひとつのクライマックスは、「神の言が受肉した(ヨハネ1章)」方であるイエス・キリストの到来でした。

あのキリストの到来とその生涯・教え、そして十字架と復活、これこそが「救いの歴史」の中心点です。

神はあの主イエスの言葉と行いを通して、この世界へのメッセージを語り尽くされました。

そして今や、キリストのからだとしての教会に、そのメッセージ=福音が託されました。

今や、キリストは、聖書を通して、教会が立てる説教者を用いて、聖霊において語られます。

これが、「説教」という営みです。

それは、「救いの歴史」を進展させ、神の国を完成へと向かわせるという、大いなる目的をもった神の「語り」です。

「説教」がなされる。それは、最新の神からの語りかけであり、「救いの歴史」の最新の1ページが開かれる時です。

それは、終末の新天新地を望み見させ、神の国を力強く形成していくことへと人間を突き動かす、そういう語りかけであるはずなのです。


共に祈りましょう。

主よ、アドベントのこの時、イエス・キリストが私たちのところに来てくださったことの喜びが胸に広がります。今、心身の弱っている者もいますから、王なるキリストの恵みの支配の下で安らわせてください。
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2019. 10. 23  
昨日は教師会の一泊研修会に出かけていて、配信をお休みしました。

折しも、新天皇の即位の日ということで、厳戒態勢が敷かれたり、巷では異様なムードだったようですね。

神道儀式の一番ディープなところは一般公開されないので分かりにくいですが、天皇という存在が極めて宗教的な存在だということが明らかになったと思います。

そのようなものを「国家統合の象徴」として持つという点が、日本という国の際立った特殊性です。

先日、サウジアラビアに駐在された方から、かの国におけるイスラム原理主義による国家統治の徹底という特殊性を教えていただきましたが、日本という国もまた特殊な宗教国家なのです。

今日の日本で、そういうことを意識しているのは、国家神道体制の復興を願う人たちくらいかもしれませんが、その怨念にも似た願望が、今また、この国のかたちを歪めつつあります。

それは、まさしく、この国に働いている悪霊の力です。

私たちはキリスト者として、日本という国の特殊性をよく認識し、天皇という存在の偶像性を見抜き、まことの崇拝の対象である主イエス・キリストをまっすぐに見上げたいと思います。

エフェソ書2:1-6を分ち合って、共に祈りましょう。

ここにあるように、私たちはかつてはこの国にあって、無自覚のうちにも悪霊的な支配の中にいて「死んでいた」のですが、今は、キリストと共に生きる者とされたのです。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」


神よ、あなたに背き続けてきたこの異教の国を憐れみ、悔い改めへと導いて下さい。このあまりに特殊な国に、あなたを知る知識が満ち、キリストと共に生きる喜びをみなが知り、信仰と希望と愛に生きる人が増し加えられますように。
2019. 10. 15  
昨日は、私の友人である石川ヨナさんのライブで、ぜいたくな一時間を過ごしました。

台風19号の大きな被害に苦しむ人たちがいる中で、今自分たちに与えられた命の意味を問い、神からの「生きろ」との声を明確に覚えた時間でした。

ヨナさんは、クリスチャンロックミュージシャンとして、改革派信仰に基づく独特の言語世界をもって、この萎えた時代にどこまでも希望のメッセージを発し続けようと、戦っている人です。

命の水の水源は、もうすぐそこにあるから、だから信じて井戸を掘れ!!、などと歌うのです。

それは、歌という仕方での説教であり、叫びという仕方での祈りであり、私は彼女と共にまぎれもなく礼拝体験をしたと感じています。


「流れ星ひとつ願うなら、御心がなるようにと祈れますように。弱き私のそばにいて、思いと言葉とすべてを支えておくれ。

こぼれ落ちそうな想いを御手にゆだねて、星空にこの祈りよ、届けーーー!!・・・・」

細身の体をしぼりあげるようにして叫ぶ彼女の祈りと共に、私の魂は天の高みへと引き上げられました。

そのとき、祈りを聞いて下さる主イエスが、確かに私たちのそばにいてくださいました。

イエス・キリストとの神秘的結合。

私の言葉が貧しすぎて、言葉にするたびに、あの喜びがひとつひとつこぼれていくのが残念でなりません。

永遠に触れたとしか言いようがない。いや、触れられたのです。

渇いた魂に命の水が注がれて、それでも私は牧師をしたいと、もう一度、自分の声を聞きました。


「声」というものの大切さということも、改めて考えさせられました。

声は空気をふるわせながら、発する者の命を届けます。

命を削るようにして届けられた声と響き合って、私の体の中の水がゆらめき、よどみが流され、忘れかけていた情熱が沸騰します。

神は、土くれから創造なさった人間に、命の息を吹き入れて、「生きる者」としてくださいました。

今も、歌をとおし、礼拝説教を通し、神は小さな存在の「声」を用いながら、命を吹き入れてくださっているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、あなたの御心がなりますように。今、憔悴しきっている方を慰めてください。それができるのはあなただけです。主よ、助けてください。自分の無力を知った人間を救ってください。


2019. 10. 03  
昨日、高知から無事に帰ってきました。お祈りに感謝します。

徳島教会では、にぎやかなオープンチャーチで30人ほどの方と喜びの礼拝をささげました。

その後、月曜の朝から、車で6時間かけて、高知県の宿毛教会に向かい、四国中会の教師会にお招きいただきました。

二日にわたる講演で、みなさん大変熱心に聞いて下さり、私自身が励まされました。

その後、車で3時間の高知の安芸市にある芸陽教会で宿泊させていただき、昨日帰宅した次第です。

四国は、私にとって後輩にあたる若い先生方が多く、連日深夜まで、本当にたくさんのことを彼らと語り合い、互いに励まし合いました。

首都圏とはまったく異なる状況で、奮闘している彼らの姿に、多くの事を学ばされもしました。

おかげで睡眠不足で、今日は寝坊して頭が回らず、御言葉の取次ができずにすみません。

体はへとへとに疲れましたが、心の疲れや痛みは癒されました。

楽しい旅をゆるしてくださった主と勝田台教会の皆さんに、心から感謝します。


共に祈りましょう。

主よ、今週の後半の歩みに豊かな祝福がありますように。主よ、あなたこそ、世々限りなく、われらの神。死を越えて私たちを導いて下さるあなたに、今日もすべてをおゆだねします。(詩編48:15より)


2019. 09. 04  
昨日の信仰告白の学び会の中で、おもしろいたとえが浮かびましたので、忘れないうちにメモしておきます。

「子どもと親のカテキズム」の問18を学びました。

問;神さまのかたちに似せて造られた人間は、どのように歩むのですか。

答:神さまを礼拝し、神さまを喜び、家族や友だちを愛し、神さまがお造りになったものを大切にして、神さまに仕えて歩みます。


人間は、「神のかたちに似せて」創造された特別な被造物であります。

神と心を通わせることができて、神がうれしいと思われることを実現する、そういう期待を背負って創造されました。

そして、その神の期待に応える時にこそ、人間という存在は最高に輝くのです。

カテキズム問18に示されているのは、その神の期待です。

このように歩む者として期待され、このように歩む時にこそ命が輝きだす、そういう本来の姿が書かれています。

人間の「取扱い説明書」、あるいは「操縦マニュアル」と言ってもいいと思います。

例えば飛行機なら、この飛行機にはどんな機能があるのか、どんなことができるのか、最高のパフォーマンスを発揮するためにはどういう風に動かすべきなのか・・そういう基本を教えてくれる道しるべです。

ところが、残念ながら人間は罪人に堕落してしまって、この問18に示されているような生き方から遠く離れてしまいました。

操縦マニュアルをすっかり失ってしまって、みんなで好き勝手に運転しています。

それどころか、飛行機なのに、飛ぶことを忘れてしまって、いや、自分が空を飛べるのだということを知らないで、車輪を引っ込めることもなく、ひたすらに地上を走り続けているようなものです。

飛行機なのに、自分は自動車だと思いこんでいたら、おかしいですね。

何のために羽がついてるのか知らずに、「飾りだよ、かっこいいだろ」なんて、ジェットエンジンをまったく生かしきれないで、ひたすら低速でノロノロ運転。

そんなので一般車道を走るのですから、周りの車からは「なんだよ、無駄にでっかいなあ」と邪魔者扱い・・。

いや、そうやって車道を走ってる飛行機ばっかりなのですから、お互い羽がよくぶつかって、いつも接触事故が絶えずにケンカばかり・・。

「神のかたち」としての本来の姿を見失ってしまった人間とは、そういうものかもしれません。

イエス様は、そうやって「失われた者」を、「探して救う」ために来てくださいました(ルカ19:10)。

それは、その人間本来の輝きを回復させるため、ということなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も一人一人の歩みを祝福して下さって、あなたの喜びを自分の喜びとすることができますように導いて下さい。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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