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2019. 10. 15  
昨日は、私の友人である石川ヨナさんのライブで、ぜいたくな一時間を過ごしました。

台風19号の大きな被害に苦しむ人たちがいる中で、今自分たちに与えられた命の意味を問い、神からの「生きろ」との声を明確に覚えた時間でした。

ヨナさんは、クリスチャンロックミュージシャンとして、改革派信仰に基づく独特の言語世界をもって、この萎えた時代にどこまでも希望のメッセージを発し続けようと、戦っている人です。

命の水の水源は、もうすぐそこにあるから、だから信じて井戸を掘れ!!、などと歌うのです。

それは、歌という仕方での説教であり、叫びという仕方での祈りであり、私は彼女と共にまぎれもなく礼拝体験をしたと感じています。


「流れ星ひとつ願うなら、御心がなるようにと祈れますように。弱き私のそばにいて、思いと言葉とすべてを支えておくれ。

こぼれ落ちそうな想いを御手にゆだねて、星空にこの祈りよ、届けーーー!!・・・・」

細身の体をしぼりあげるようにして叫ぶ彼女の祈りと共に、私の魂は天の高みへと引き上げられました。

そのとき、祈りを聞いて下さる主イエスが、確かに私たちのそばにいてくださいました。

イエス・キリストとの神秘的結合。

私の言葉が貧しすぎて、言葉にするたびに、あの喜びがひとつひとつこぼれていくのが残念でなりません。

永遠に触れたとしか言いようがない。いや、触れられたのです。

渇いた魂に命の水が注がれて、それでも私は牧師をしたいと、もう一度、自分の声を聞きました。


「声」というものの大切さということも、改めて考えさせられました。

声は空気をふるわせながら、発する者の命を届けます。

命を削るようにして届けられた声と響き合って、私の体の中の水がゆらめき、よどみが流され、忘れかけていた情熱が沸騰します。

神は、土くれから創造なさった人間に、命の息を吹き入れて、「生きる者」としてくださいました。

今も、歌をとおし、礼拝説教を通し、神は小さな存在の「声」を用いながら、命を吹き入れてくださっているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、あなたの御心がなりますように。今、憔悴しきっている方を慰めてください。それができるのはあなただけです。主よ、助けてください。自分の無力を知った人間を救ってください。


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2019. 10. 03  
昨日、高知から無事に帰ってきました。お祈りに感謝します。

徳島教会では、にぎやかなオープンチャーチで30人ほどの方と喜びの礼拝をささげました。

その後、月曜の朝から、車で6時間かけて、高知県の宿毛教会に向かい、四国中会の教師会にお招きいただきました。

二日にわたる講演で、みなさん大変熱心に聞いて下さり、私自身が励まされました。

その後、車で3時間の高知の安芸市にある芸陽教会で宿泊させていただき、昨日帰宅した次第です。

四国は、私にとって後輩にあたる若い先生方が多く、連日深夜まで、本当にたくさんのことを彼らと語り合い、互いに励まし合いました。

首都圏とはまったく異なる状況で、奮闘している彼らの姿に、多くの事を学ばされもしました。

おかげで睡眠不足で、今日は寝坊して頭が回らず、御言葉の取次ができずにすみません。

体はへとへとに疲れましたが、心の疲れや痛みは癒されました。

楽しい旅をゆるしてくださった主と勝田台教会の皆さんに、心から感謝します。


共に祈りましょう。

主よ、今週の後半の歩みに豊かな祝福がありますように。主よ、あなたこそ、世々限りなく、われらの神。死を越えて私たちを導いて下さるあなたに、今日もすべてをおゆだねします。(詩編48:15より)


2019. 09. 04  
昨日の信仰告白の学び会の中で、おもしろいたとえが浮かびましたので、忘れないうちにメモしておきます。

「子どもと親のカテキズム」の問18を学びました。

問;神さまのかたちに似せて造られた人間は、どのように歩むのですか。

答:神さまを礼拝し、神さまを喜び、家族や友だちを愛し、神さまがお造りになったものを大切にして、神さまに仕えて歩みます。


人間は、「神のかたちに似せて」創造された特別な被造物であります。

神と心を通わせることができて、神がうれしいと思われることを実現する、そういう期待を背負って創造されました。

そして、その神の期待に応える時にこそ、人間という存在は最高に輝くのです。

カテキズム問18に示されているのは、その神の期待です。

このように歩む者として期待され、このように歩む時にこそ命が輝きだす、そういう本来の姿が書かれています。

人間の「取扱い説明書」、あるいは「操縦マニュアル」と言ってもいいと思います。

例えば飛行機なら、この飛行機にはどんな機能があるのか、どんなことができるのか、最高のパフォーマンスを発揮するためにはどういう風に動かすべきなのか・・そういう基本を教えてくれる道しるべです。

ところが、残念ながら人間は罪人に堕落してしまって、この問18に示されているような生き方から遠く離れてしまいました。

操縦マニュアルをすっかり失ってしまって、みんなで好き勝手に運転しています。

それどころか、飛行機なのに、飛ぶことを忘れてしまって、いや、自分が空を飛べるのだということを知らないで、車輪を引っ込めることもなく、ひたすらに地上を走り続けているようなものです。

飛行機なのに、自分は自動車だと思いこんでいたら、おかしいですね。

何のために羽がついてるのか知らずに、「飾りだよ、かっこいいだろ」なんて、ジェットエンジンをまったく生かしきれないで、ひたすら低速でノロノロ運転。

そんなので一般車道を走るのですから、周りの車からは「なんだよ、無駄にでっかいなあ」と邪魔者扱い・・。

いや、そうやって車道を走ってる飛行機ばっかりなのですから、お互い羽がよくぶつかって、いつも接触事故が絶えずにケンカばかり・・。

「神のかたち」としての本来の姿を見失ってしまった人間とは、そういうものかもしれません。

イエス様は、そうやって「失われた者」を、「探して救う」ために来てくださいました(ルカ19:10)。

それは、その人間本来の輝きを回復させるため、ということなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も一人一人の歩みを祝福して下さって、あなたの喜びを自分の喜びとすることができますように導いて下さい。
2019. 08. 09  
次の主日は、ウェストミンスター信仰告白23章にある「合法的な戦争」という言葉をよく吟味し、聖書にある平和の教えを改めて受け取り直したいと願っています。

今日でもキリスト者が主流を形成する国、例えば韓国などではウ告白23章に基づく理解において、キリスト者が兵役に就くことがなされています。

非戦論・絶対平和主義というのは、キリスト教世界にあって、極めて少数派であると言うのが現実です。

ただ私は、日本という特殊な歴史を与えられた国のキリスト者として、またこの国にあって極めてマイノリティーな存在として、ナイーブなまでの平和主義にこだわり、声を上げ続けることの意味を大切に思っています。


問題は、「合法的な戦争」という言葉が独り歩きして、正戦論さらには聖戦論がまかりとおることです。

P.C.クレイギが「聖書と戦争 旧約聖書における戦争の問題」という本の中で言っていますが、

『正義の戦い(Just War)』という言葉は本来、ある戦いが「正義」にもとづいて行われるということをそれほど強く主張しているわけではなく、むしろその戦いが「正当化される」可能性があるというていどのことを主張しているにすぎないものです。

このあたりの微妙な違いを、よく考えたいと思います。

平和の君であるキリストが到来された後の、新約時代を生きる私たちは、

「この戦いは正義だ!」と主張する者の怪しさを、いつでも鋭く見抜かねばなりません。


共に祈りましょう。

主よ、この罪の世にあって戦いが避けられないものなのかもしれません。そこにこそ、私たちの罪が現れているのかもしれません。主よ、この罪を赦し、きよめてください。あなたにしか、人間をきよめることはできません。

2019. 08. 08  
次の主日には「正しい戦争はあるのか」という題で語らせていただきます。

特にウェストミンスター信仰告白第23章2節の「合法的な戦争」という言葉を取り上げて、これをどう理解すればいいのかを、皆さんと一緒に考えたいと思っています。

ウ告白23章は「国家的為政者について」です。

ウ告白が表されたイギリスをはじめとした西欧社会では、キリスト教国家が成立しており、為政者もまたキリスト者でありました。今日でも、このことはある程度あてはまります。

23章の1節では、神が為政者を任命され、秩序を維持するための「剣の権能」をお与えになると言われます。

以下の通りです。

「全世界の至上の主また王である神は、御自身の栄光と公共の益のために、神の支配のもと、彼らの上に立つ者として、国家的為政者を任命された。

そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行う者を擁護奨励し、また悪を行う者に罰を与えさせておられるのである。」

これに続くのが、問題の2節です。

「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果すことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、

この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる。」


このような「合法的戦争」という考えは、正戦論・正義の戦争論(just war theory)に立つ人たちに神学的根拠を与えています。

それゆえに、大変悪名高い信仰告白でもあります。非戦絶対平和主義に立つ方々からは、「改革派教会は戦争を肯定するのか」と批判されるのです。

さて、実際はどうなのでしょうか。もっと丁寧に考えていくことが必要だと思います。


共に祈りましょう。

主よ、私たち日本のキリスト者にとって、この8月は特別な時です。人間の恐るべき悪魔性があらわされ、罪の悲惨が極まったあの74年前の悲劇を、私たちは決して忘れません。主よ、どうぞ今こそ私たちの国に、戦争を憎む心を備えてください。


プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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