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2020. 04. 07  
緊急事態宣言が出されるということで、ウイルスの猛威に気持ちもふさぎがちな日々です。でも、まもなくイースター、命が勝利した日です。

十字架の悲しみの中で太陽を覆った闇も、やがて光に凌駕されて、復活の希望の朝にいたります。

4月より、このブログ・配信を「日々の祈り」と名前を変えて、再開したいと思います。

まだ本格的な再開は、来週以降にお待ちください。今週は今日だけ、予告コマーシャルのような感じで(笑)。


湘南では、先の主日は30名を超える出席で、4年の無牧の時を耐え忍んだ皆さんの喜びにあふれていました。

残念ながら、次の主日のイースター礼拝からは、「礼拝に集まる」のをやめることを忍耐し、牧師と長老以外は自宅で礼拝を守っていただくことになりました。

本当はこのような時こそ、神の家族が集まって励まし合い(ヘブライ10:24-25)、「一人の人」のようになる一致をもって(ネヘミヤ8:1)、この試練を乗り越えたいのです。

しかし、今は忍耐の時です。

でも、聖書の言葉遣いにおいて「忍耐」とは、やがて必ず訪れる希望の時の到来を待ち望んで、今の時を迎え撃つという積極的な信仰の姿勢をいいます。

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:4-6)」

皆さんそれぞれに、教会においても、日常の生活においても、忍耐の時を過ごしておられることでしょう。

しかし、今の時は、特別な意味のある試練の時です。今こそ、主に信頼して、地上の生命よりもはるかに大きな希望を見上げましょう。
神の愛は、確かに私たちに注がれています。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの時代に与えられたこの試練の意味を、どうかはっきりと悟らせてください。あなたは生きておられます。今この時に、私たちがあなたに立ち帰り、なすべきことを忠実になすことができますように。どうぞこの忍耐の時が、かえってひとりひとりの霊性を高めますように。
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2020. 03. 20  
今週は、私自身が日ごとに与えられ続けている御言葉の励ましを、お裾分けさせていただいてきました。

昨日、神戸改革派神学校の吉田隆校長から、文書が届きました。

現在の状況下において、各個教会が事柄を神学的視座をもって考察することができるように、それに資するための文書を書いてくださいと、大会常任書記長として神学校校長にお願いしていたのです。

それが、届いたのです。すばらしい文書でした。心を深く燃やされました。

皆さんには、一足早く、そのさわりのところだけお伝えします。

主なる神は、愛する者たちを「暗黒の中を行く疫病」や「真昼に襲う病魔」からもお守りくださる御方です(詩編91章)。しかし、たといそうでなかったとしても、病に侵された者を深く憐れんで触れてくださるのが、私たちの主イエス・キリストです(マルコ1:41)。

・聖書の神は、疫病をもたらすことも止めることもできる全能の神です。しかし、それ以上に、病に倒れようが人々から遠ざけられようが、ただ一人どこまでも関わってくださる愛の神です。病を支配する方であると同時に、病の如何にかかわらず、私たち人間を愛してくださる御方なのです。

・このような神の愛を信じ、この神の愛によって救われたキリスト者もまた、この世の病を恐怖の的のように見る必要はありません。剣であろうと飢えであろうと、キリストの愛から引き離すことができるものなどないからです(ローマ8:35)。


共に祈りましょう。

主よ、愛の主よ、あなたの愛を私は疑いません。あなたは私の人生に、なにひとつ悪いことをなさいませんでした。これからもそうなのでしょう。主よ、私が愛されているのと同じように、今、病に苦しみ、不安の中におののくすべての人のことをも、あなたは愛しておられることをも知っております。主よ、あなたの御心がなりますように。
2020. 03. 13  
次の主日のために、早めに説教原稿を準備しましたので、原稿をお送りすることができます。

後ほどメールや郵送でお送りしようと思っていますが、ご希望の方はお伝えください。

今この時、大事をとって、集いたくても礼拝に集えない方々がいることを、痛切に覚えています。私もまた、皆さんで共に礼拝したいですが、今は耐える時です。

カトリック東京教区では3月8日まで公開ミサを中止され、大司教より「礼拝の義務を免除する」という声明も出されました。

そのことを先の礼拝後に皆さんにお伝えしたら、笑い声が起きました。

確かにプロテスタント教会では、びっくりしてしまうようなことですね。

首をかしげておられる方もいました。それは、私が思うに、「義務で礼拝に来ているわけではない」という思いがあったのではないかと勝手に想像しました。

わたしたちは、礼拝がしたいのです。礼拝がしたくて礼拝をしているのだということが、今、とてもよく分かるようになりました。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ8:10)」

本当にそうだと思います。主を礼拝することが、私たちの命です。

たとえ共に集えなくても、ひとつの御言葉に共にあずかり、主を見上げて命を得たいと思います。

繰り返しますが、原稿送付をご希望の方は、ぜひお伝えください。


共に祈りましょう。

主よ、今の不自由な日々から解放してくださって、私たちが共にあなたの御前に相集う喜びを回復してください。今日もおひとりおひとりの心身の健康を守ってくださり、経済的な混乱からも守ってくださいますように。
2020. 03. 04  
昨日、緊急の大会常任書記団会議を開催して、新型コロナウィルス感染拡大防止のための、今後の対応について協議しました。

特別なことはできませんが、幅広い情報収集を行い、適切にみなさんに発信し、教会のお一人お一人の霊肉の健康のために仕えたいと願っています。

改革派教会の内外で、さまざまな対応がなされています。

カトリックの東京教区では、3月1日と8日の主日ミサを原則中止としました。これは、大変苦渋の選択であったようです。「判断に至った状況の深刻さをご理解ください」とありました。

その大司教のメッセージの中で、このように言われていました。

「もちろんわたしたちは祈りの力を信じています。病気が蔓延したからといって祈りを止めることはありません。感染に対応する様々な手段を講じる中に霊的な戦いをも含めていなければ、この世界に教会として存在する意味がありません。

「私の記念としてこれを行え」と命じられた主の言葉を思い起こすとき、ミサを中止にすると言うことは、霊的な敗北のように見えてしまいます。だからこそ、この危機に直面している時代には、通常以上に様々な祈りを捧げなければなりません。

ミサの中止は敗北ではなく、祈りの持つ力を改めて認識し、祈りによって霊的に深めるための機会でもあること、また祈りの力を改めて認識する機会でもあることを心にとめたいと思います。」


私たち勝田台教会も、今日、水曜日の祈り会を中止にする決断をしました。それは本当につらいことです。

しかし、集まることはできなくても、私たちの祈りは止むことはありません。むしろ、ひとりの主のもとで祈りにおいてつながる私たちが、今置かれているその場その場で祈るとき、そこに無限の神の国が立ち現れます。

私たちそれぞれの内に生きていてくださる聖霊の導きによって、キリストにおいて選ばれた神の子として、「祝福の源(創世記12:2)」となるべく召された者として、全世界の癒しのために祈りましょう。

この危機の時は必ず過ぎ去ります。世界を覆う雲は、やがて必ず聖霊の風に払われて、永遠の太陽が昇ります。


共に祈りましょう。

「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。(詩編107:19-21)」

そうです、主よ。あなたは救いの神。どうかこの世界を危機から守ってください。どうか愛する勝田台教会のお一人お一人の、体と魂を守ってください。主よ、大いなる主よ。私たちは祈ります。
2020. 02. 28  
今日は娘の用事で朝から出かけますので、短くメールいたします。

新型コロナウィルスの騒動が続きますが、落ち着いて、手洗いうがいに努め、主にあってそれぞれのなすべきことに忠実でありたいと願います。

次の主日は、創世記12章のアブラハムの旅立ちです。

ローマ4:16-18にも、「信仰の父アブラハム」の信仰が示されています。

「彼はわたしたちすべての父です。・・・死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」

なおも望みを抱いて、信じるという信仰。

主よ、私たちにも、この信仰を与えてくださいと、共に祈りましょう。みなさんの今日一日が、主の憐れみによって、平安でありますように。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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