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2018. 02. 20  
先の日曜日は、私は朝から「御言葉を聴く」ことに集中することがゆるされ、大変恵み深い一日でした。

礼拝ではジョン・ゴー宣教師が大胆に語ってくださり、ドキドキするような思いで、御言葉のスリルと言ってもいいでしょうか・・、神の御前での緊張を感じながら、上から、まったく自分の外から、御言葉がわたしを射抜いてくるという感覚を覚えていました。

そのことは、また明日分かち合います。

今日は、その礼拝の前になされた子どもたちの教会学校で、TCUの林茉莉神学生がなしてくださった証しの言葉を分かち合いましょう。

林さんは、クリスチャンホームで、お母さんのおなかの中にいたころから教会に通っていたわけですが、ずっと神様のことを遠くに感じていたようです。

でも、ご自分にとってつらい試練のときに、「(地上のどんなものであっても)わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:39)」という御言葉を与えられ、神様が近くにいらっしゃることが分かったそうです。

それからは、神様が共にいてくださると思うと、毎日はとてもうれしいと、子どもたちに伝えてくださいました。

それは、ディズニーランドに行くのの何倍も、くらべものにならないくらい、うれしいよと。

林さんはもうひとつ、御言葉を伝えてくれました。Ⅰペトロ5:7です。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

神様が、小さなわたしのことを心にかけていてくださる。だから大丈夫。すべてお任せしなさい・・・。

なんだかとてもストレートにこの御言葉が迫ってきて、涙が出そうになりました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたがこの小さな一日を与えてくださいました。生きよと、命じてくださいました。そして、すべてを心にかけていてくださることを感謝します。主よ、すべてをお任せします。今日もすべてのことを通して、あなたのご栄光があらわされますように。

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2017. 05. 02  

わたしは明日から、全国青年リトリートで岐阜に出かけますので、配信はお休みいたします。

今日はちょっと、聖書を読みましょうというおすすめをさせてください。

最近、わたしにはものすごくうれしいことですが、一生懸命、聖書を読もうと取り組んでいる若い方々が増えてきました。

みんな決して、本を読むのが得意じゃない人たちです。

でも、「聖書を読む習慣」を身に着けようねと励まし続けて、みんなそれぞれの仕方でがんばってます。



新共同訳の翻訳が分かりにくい人には、リビングバイブルなどもおすすめしています。

リビングバイブルは、いのちのことば社から出版されていますが、かなり大胆な意訳が施されていて、私の学んできた解釈とは違う時もあります。

でも、とにかく分かりやすい。読みやすい。

難しくて読めないと挫折してしまうよりは、こういうものを用いて、まずは「聖書を読む習慣」を身に着けていただくほうがはるかに望ましいと、私は思っています。

無料で読めるサイトもありますので、利用してみてください。⇒www.bible.com/ja/bible/83/GEN.1.JLB

他にも、分かりやすい翻訳というと、塚本虎二先生の個人訳もおすすめです。

新約聖書しか出版されていないのは残念ですが、私は大変重宝しています。



何度も通読しておられる聖書通の方もいらっしゃるでしょう。いろんな翻訳を読み比べてみられるといいと思います。

新共同訳、新改訳、口語訳、フランシスコ会訳、岩波訳などは、すぐに手に入ります。

ユニークなのは、「神」とあるところをすべて「創造主」と訳している「創造主訳聖書」というものもあり、分かりやすいと評判です。

今、また新しい翻訳聖書を出版するべく、準備も進められています。時代とともに、聖書の解釈がどんどん深化していますから、翻訳も変わってくるのです。

願わくは、いつか私自身が聖書全編をわかりやすく個人訳できればいいなあと、夢見ています。


そういうわけで、この連休、いつもよりもゆっくりと、聖書に親しんでみてください。

「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らせられた言葉なのです。(Ⅰペトロ1:23-25)」


共に祈りましょう。

主よ、聖書を与えて下さってありがとうございます。どうか、このかたくなな心をひらいてくださって、あなたの言葉を届けてください。そして、今まで知らなかった信仰と愛と希望の世界をひらいてください。

2017. 04. 25  
おはようございます。今日は朝寝坊してしまいましたので、短く祈りを分かち合いましょう。

日曜日にはⅠペトロ5:1-4の御言葉をいただきました。

「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」

教会のリーダーであるペトロが、同じ労苦を負うリーダーたちに勧めています。

主を三度も否んでしまった私のようなダメな者をも、主は召してくださり、群れをゆだねてくださり、用いてくださった。

だから、あなたたちも、自分の貧しさを恥じる必要はない。

そんなことは、イエス様はよくご存知だから・・・。

よくご存じの上で、そのダメなあなたを召してくださったのだから。ゆだねてくださり、用いてくださるのだから・・。

だから私たちは、ただ忠実であろう。主の御心に忠実でありたいと、祈り求めよう。

そういう説教でした。


ひとりの長老が、説教の恵みを分ち合ってくださいました。

自分はどこかで劣等感があって、あの人やあの人のようにできないという思いに縛られていたのかもしれない。

説教を通して、そういうものがほどけていくような思いでした。そして、ただ主に忠実でありたいと、心から思いました、と分かち合ってくださいました。

私にとって何よりもうれしいプレゼントでした。ああ、主は、私を用いて語りかけてくださったのだと、思いました。

そういう感想ばかりではないでしょう。主からのチャレンジに戸惑いを覚えたりなさった方もいたかもしれません。みなさんそれぞれの、主との語らいがありますようにと祈ってます。

明日からは、また創世記の分ち合いをしたいと思ってます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたが生きておられる、そのことに私は平安を覚えます。わたしたちに、必要なすべてを備えてください。あなたを信じる喜びも、希望も、あるいは、戸惑いも、苦悩も・・、すべてのタイミングを用いてくださって、ひとりひとりの心を、キリストとひとつになるように整えていってください。
2017. 02. 22  
全的堕落・・・ということを考えることからスタートしましょう。

私たちは罪人であり、よいものを一切持っていません。だから、自分で自分を、神様の合格ラインに導くことは絶対にできません。

神様を知ることもできません。信じることもできません。従うことなんて、できるわけもありません。

しかし、そんな私が、今、神様を知っているとしたら・・。信じているとしたら・・。そして、従いたいと願っているとしたら・・。

それはなぜか?と考えるなら、ただ、神の恵みによってそうしていただいたから、としか考えることはできません。


Ⅰペトロ1:2にこういう言葉があります。

「あなたがたは、父である神があらかじめ建てられたご計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」

「あらかじめ建てられたご計画に基づいて」とは、神が前もって知っておられたという言葉です。

私が神を知るよりも、ずっと前から神の方が私を知っていてくださって、選んでくださっていたというのです。

ある女性は、教会に通い始めるずっと前から、自分はいつか洗礼を受けることになるのではないかと感じていたそうです。

皆さんお一人一人にも、振り返ってみればずっと前から、導きがあったということがあるのではないでしょうか。

あの時、あの人からの電話がなければ・・。学校前で配られた、あの聖書・・。幼いころに通っていた日曜学校のあたたかい思い出・・。

神は私たちのことをずっと前からよく知って、「聖なる者」とするための計画を立てておられたから、それぞれに不思議な導きがあるのです。

私たちは誰も、神の恵みによって選ばれたからこそ、今の自分があるのです。

そして、私たちの今日までを守り導いてくださった神は、決して裏切ることなく、見捨てることなく、永遠の命にいたるまで支え励ましてくださいます。

だからこそ、今日という日を、この恵みへの感謝の応答として、誠実に生きたいと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちには未来は見えません。しかし、過去に与えられたあなたの恵みが見えます。そして、今、あなたが共にいてくださることが分かります。主よ、私に見える、この今を、精一杯歩ませてください。あなたが見ておられる、私の未来に向かって、私を力強く導いてください。
2017. 02. 21  
ある方が今問うておられることに対するヒントになればという思いで、しばらく考えてみます。

聖書には、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ24:13)」とか、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい(Ⅰペトロ5:9)」などの教えがあります。

この地上世界には、信仰者を揺さぶり、つまづかせる誘惑や試練に満ちています。迫害もあります。

そういう中で、イエス・キリストへの信仰を保持するには、自分の意志であり決断が必要です。

何にもしないでイエス様から離れたままで、あるいは極端の話、神をまったく否定し背教しても大丈夫とは、聖書には教えられていないと思います。

ただし、「自力」では決して私たちは、救いに至ることはできません。

全面的に堕落しているからです。人間には、自分を自分で救う力がないのです。それが罪人というものです。

私たちの決断や意志が100%必要なのと同時に、聖霊による救いの導き・守り・支えという「神の力」が100%必要です。

いやむしろ、その「神の力」によって支えられる中で、私たちの「自力」が引き出されてくるというほうが正確です。

耐え忍ぶ信仰も、意志も、決断も、すべては「神の力」によって、私たちの内から引き出されてくるのです。



Ⅰペトロ1:5にはこうあります。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」

「神の力」による手厚い守りの中で、わたしの「信仰」が引き出され、終わりの時に救いを受けるようにと確実に守られていると書かれています。

この「神の力」と「守り」に信頼して、わたしはただ今の瞬間を、信仰者として懸命に生きる。明日のことなど思い煩ず。

それでいいのだと思います。その「今」の積み重ねが、信仰の成熟に通じます。続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちを守って下さり、信仰を保たせてください。希望を保たせてください。愛を保たせてください。私たちの罪が、あなたの御業を邪魔することがありませんように。






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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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