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2020. 04. 22  
先の主日に分かち合ったザアカイの回心の物語(ルカ19:1-10)。私たちは「必死さ」ということをキーワードにして読み解こうとしました。

イエス様を見たいと望んだザアカイの「必死さ」。そして、ザアカイを救おうとしたイエス様の「必死さ」です。

鍵になる語は「捜す(ゼーテオー)」です。

最後の言葉でイエス様が言われます。10節「人の子は、失われたものを“捜して”救うために来たのである。」

これと同じ言葉が、ザアカイの行動にも用いられます。3節「イエスがどんな人か見ようとしたが・・・」

隠れているので分かりにくいですが、実はこれは、「見ようと“捜した”が・・・」という言葉です。

ザアカイはイエス様を“捜した”のです。そして、通り過ぎようとするイエス様を何としても見たいと、いちじく桑の大木(※イチジクではない)に、短い手足で必死によじのぼったのです。

この必死さというのは、彼が何か満ち足りない思いをもっていたことの裏返しです。

私の人生は、このままでいいとは思えない、私はこのような私になりたかったわけではないという思いです。

何かが足りない。

でも、その何かが分からない。それでも、その何かを求めずにはいられない・・・。今、まさにその渦中にある方も、いらっしゃるかもしれません。

そんなわけで、ザアカイは必死になってイエス様を見たいと捜したのでした。でも、それ以上に必死だったのが、イエス様なのです。


共に祈りましょう。

十字架で死んでくださったほどの、主イエス・キリストの必死の愛を覚えています。その愛に追いかけられて、今日も生きる私たちは幸いです。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う・・・(詩編23:6)」。主よ、迷い、惑い、移ろいやすい私たちの魂を、どうかいつも捜して、あなたのもとにつなぎとめていてください。私と、私の愛する方々の今日一日を、どうぞ大きな腕で抱きとめてください。

2020. 04. 21  
早いもので、茅ケ崎に引っ越して一か月になろうとしています。

ご存じの通りのウィルス禍の状況で、思いもよらないスロースタートとなりました。

皆さんと集まって礼拝することもできず、祈祷会や読書会などもまだ開かれていません。

でも、その分だけ、祈りに集中する時間がゆっくり確保できています。

会堂のひとつひとつの椅子に手を置きながら、会員お一人お一人や子どもたち、その未信のご家族などを思い、みながここに集まる日を願いつつ、一日の平安を祈ります。

一度お見掛けしただけの方や、まだお会いしたことのない方もいますが、お一人お一人の名を想い起して祈ります。

会堂の座席は64席ありますが、そうやって一人一人の名を覚えていくと、ちょうど会堂一杯くらいになります。

名を覚え、名を愛する。それは、その人の存在そのものを、人生のすべてを慈しむことです。

先の主日、「あなたの名を呼ぶイエス」との視点から、ルカ19章のザアカイの物語を学びました。

イエス様は、「正しい人」という意味を持つ、ザアカイの名前を覚え、名を愛し、名を呼んでくださいました。

ここにお前の本当の姿がある。お前は神からあふれる期待を受けて生まれてきた、神の民、神の家族の一員なのだ。

私はお前を知っている。お前の名の輝きを知っている・・・そんなイエス様の思いが込められているようです。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ43:1)」

神は、この世界が創造される前から、わたしを知り、わたしに名を与え、命を育み、この人生を愛してくださっているのです。


共に祈りましょう。

主よ、私だけに与えられたたった一つの名前・・、私だけに与えられたたった一つの人生・・。主よ、昨日までの道を共に歩んでくださってありがとうございます。今日も、あなたが共にいてくださる。だから、火の中も恐れずに歩みます。今は、だれもが命の危険にさらされている時です。いつもと同じように明日が来るのは、特別な恵みであったと知りました。主よ、私のこの今日の日をあなたにおゆだねします。私の人生を、私以上に愛してくださる、あなたに・・。
2020. 04. 17  
「日々の祈り」を共に積み重ねてきたこの一週間です。

この祈りの日々が、御言葉の恵みをあますところなく受け取るための、私たちの霊的感受性を高めてくれます。

次の主日のための備えをしましょう。ルカ19:1-10のザアカイの物語を分かち合います。

皆様ご存じのように、ザアカイは背が低かったと言われます。

しかし考えてみると、聖書においては登場人物の身体的特徴が言われることは稀です。(サウロが背が高かった、とか)

「背が低かった」とわざわざ書かれるのは、よっぽどのことです。

もしかしたら、小人症のようなハンディを抱え、幼い日から劣等感をもって生きてきた人かもしれない・・・そういう解釈に出会って、私はハッとさせられました。

その劣等感のゆえに、成り上りたい、力を握りたいという思いが、人一倍強かった人かもしれない。

劣等感は、生きるエネルギーになりえます。ただ、そのエネルギーが、よい形で使われればいいのですが・・・。私たち自身はどうでしょうか?

そういう小さなザアカイが、町を訪れたイエス様に会ってみたいと、必死に木に登ったというのです。

この物語を読み解く鍵は、「必死さ」です。

ハンディを抱えていたかもしれないザアカイが、大木にしがみつく、その光景の必死さを想像してみてください。

・・・どうして、彼はそんなに必死だったのでしょうね?

日曜日までゆっくり考えてみてください。私たち自身の心が、響き合い始めるまで。


共に祈りましょう。

主よ、ザアカイは何を求めていたのでしょうか。生活は裕福であったはずなのに、でも彼は、何を求めたのでしょうか。私たちは、何を求めているのでしょうか。今日の日をはじめるにあたり、私は何を求めればいいのでしょうか・・・。それさえも分からないような、霊的な貧しさを覚えています。主よ、憐れんでください。聖霊の導きを与えてください。今日も、恐れと不安にのみこまれてしまわないように。

2020. 02. 27  
新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐための動きが、にわかに大きくなってきました。私も様々な責任に追われ、あたふたする日々です。

教会関係では、カトリック教会の東京・千葉地区は公開のミサを中止したようです。

韓国では、集会を回避し、ネット配信を用いて各自自宅で礼拝をささげるようにした教会もあります。

勝田台教会のみなさんも、ご自分の健康への配慮と、感染拡大を防ぐための細心の注意をもって、それぞれに最善の判断をなさってください。

先のメールで、「なんとしても礼拝を守っていきたい」と書きましたのは、教会全体の営みとして、主日礼拝を絶やさないことの願いです。

皆さんに会堂に集うことを強要するものではありませんから、どうぞ無理をなさらずに。


本当に騒がしくなり、不安を覚える日々ですが、その反面、生けるまことの神への信頼が日ごとに増し加えられているこの頃です。

昨日、信仰の友と、この騒動を巡ってメールを交わし合いました。

彼は小さな会社を経営しているため、海外との取引などに深刻な影響が出ていることを心配して、連絡をしたのです。

しかし、彼はこのように返信してくれました。

「ただ一言もて ガリラヤの あらぶる波風 たちまちに 鎮めし主イエスの みちからは ときわに絶えせず 変わりなし

天地(あめつち)跡なく 崩るとも、 主イエスぞときわに 変わりなし・・・」

先主日に、この讃美歌497番をもって主を賛美したそうです。

そして、「コロナの脅威と不安を前に、しかし、永遠に変わることない主の憐れみを祈り、今日も託された務めをなしましょう!」との言葉に、私は大いに励まされたのです。

「・・・・弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上って、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪(なぎ)になった。イエスは『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。・・・(ルカ8:24-25)」


共に祈りましょう。

主よ、憐れんでください。国と力と栄えとは、かぎりなく汝のものなればなり。そうです主よ、すべてはあなたの手の中にあります。私たちは、あなたに信頼します。嵐の中でも、どうか平安を与えてください。様々な困難の中にある者に、必要なすべてを備えてください。

2020. 01. 16  
昨日の祈祷会では、ルカ福音書のクリスマス物語の中にある、母マリアの信仰の姿勢に目を留めました。

あのイエス様がお生まれになった夜、天使のお告げを聞いた羊飼いたちが駆け付け、証しをします。

「おれたちのための救い主がお生まれになったと聞いたんだ!」と、高揚して伝えたことでしょう。

それを聞いた周囲の人々は、みんな、羊飼いたちの話を不思議に思ったといいます。

しかし、マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」というのです(ルカ2:19)。

特に、「心に納めて」という言葉に注目します。

これは、いろいろな影響から守るために、不用意に外に出して発散してしまわないで、じっくりと心の中にとどめることだと、書かれていました。

同じようなマリアの姿勢は、2:51にもあります。

この時は、少年イエスが神殿にあって「ここが自分の父の家だ」とおっしゃる言葉に面食らい、「イエスの言葉の意味が分からなかった」といいます。

その前には、もう数年前の記録として、老シメオンの預言としてイエス様の十字架の死も予告されます(ルカ2:25-35)。

一連の出来事は、驚くべきことばかりで、当惑するよりなかったと思います。

でも、「母マリアはこれらのことをすべて心に納めていた」とあるのです。


自分にはまだ受け止めきれないようなこと、今は意味が分からないこと・・・でもそれを安易に意味づけて受容しようとしないで、ただ「心に納めて」、神様の導きをしずかに待った・・・。そういうことではないでしょうか。

そうして心に納められたことを、ゆっくり思い巡らす中で、やがて、すべての意味が明らかにされる時がくるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今倒れている方、臥せっている方、弱っている方、慌てふためている方、納得できなくて苦しんでいる方・・・いろんな思いを、どうか受け止めてくださって、その魂に平安をお与えください。やがてすべての出来事の意味が、恵みの中で明らかにされますように。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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