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2019. 06. 05  
主イエスは、弟子たちを祝福しながら天に上られたと、先の主日に教えられました。

祝福しながら上られ、今も、祝福し続けて下さっている。

そのことに今まで気づかなかったと、伝えて下さった方もいました。私自身、今回の説教の大きな発見でした。

今週は、祝福の両手をあげてくださっている主イエスを想いながら、平安の中で、祈ることがゆるされています。


さて、そのようにして天に上られたイエス様は、その至高の場から「聖霊」を遣わしてくださいます。

ルカ24:49では、イエス様が聖霊様のことを、「高い所からの力」と呼んでいます。

聖霊はミステリアスなお方で、風のように自由ですから、とらえどころがないように感じます。

でも、自分の思いを超えた不思議な「力」に満たされて、確かにこの方の実在を悟るということが、信仰生活にはしばしばあります。


そして面白いのですが、その「力」に「覆われる」という言葉遣いがされています。

「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

「覆われる」は「(服を)着せる、身にまとわせる」という言葉です。

エフェソ6:11「悪魔の策略に対抗して、神の武具を身に着けなさい」というのと、同じ言葉です。

そしてルカ福音書で言うと、15章の放蕩息子のたとえの記事で、お父さんが帰って来た息子に「服を着せてやれ」という、あれが同じ言葉です(ルカ15:22)。

私たちは誰も、聖霊の力をまとわせていただかねば何もできない、無力で愚かな、放蕩息子なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの赦しと恵みによって、天よりの力をまとわせてくださって、悩み多い世の旅路を、今日も歩み切らせてください。安心して行きなさいとの、あなたの祝福が聞こえます・・。

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2019. 06. 04  
先の主日には、ルカ福音書の最後に記された「イエス様の昇天」の記事を分かち合いました。

天に上っていかれたというのが、実際にはどういう出来事だったのか、想像を絶します。

でも、それに立ち会った弟子たちは「伏し拝んで、大喜びしてエルサレムに帰った(ルカ24:52)」とありますから、

イエス様の偉大な神的権威を目の当たりにして、人知を超えた平安と心強さを覚えさせられたのでしょう。

それは、「天」に触れた瞬間と言ってもいいと思います。

天に触れるその時、地上に生きるわたしたちの、悲しみや不安のすべては、大きな喜びでおおわれます。

天とは、宇宙の果ての果てにある遠いところではありません。

イエス様は、遠い所に離れていってしまわれたのではありません。

天は、じつは私たちのすぐそばにあるのです。

天は、時間も空間も超えた、神の世界です。(聖書の言葉遣いでは、それを「永遠」とも言います)

礼拝後に、一人の方がこのように伝えてくれました。

私たちは、時間と空間の中でしか生きることができないから、それを超えた世界のことが分からないのだ、ということが分かりましたと。

とても大切な気づきだと思います。

ともすると私たちは、「自分たちには分からないのだ」ことを分からないまま、自分たちの分かる範囲で、神様について、天について、考えてしまいます。

天が、すぐ近くにあるということも、よく分からないかもしれません。

でも弟子たちは、イエス様が天に上られたことで、前よりもいっそう近くに主を覚えているように思います。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御心がこの地上世界においてもことごとく実現し、この地が、天に変えられていきますように。天におられるあなたをあがめます。私たちの心を、天に引きつけてくださって、いつも喜びに満たしてください。

2019. 05. 31  
次の主日に分かち合うルカ24:36-50の最後は、イエス様の昇天について伝えてくれる貴重な記事です。

「イエスは・・手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」


「手を上げて祝福する」これは、レビ記9:22「アロンは手を上げて民を祝福した」とあるように、旧約の昔に由来します。

今、私たちのささげる礼拝でも、最後に牧師が手を上げて祝福の宣言をいたします。

牧師は、あの祝福の宣言に、アロン以来の神の民の礼拝の歴史を背負っています。

そして、イエス様が地上において最後に残してくださった思い出を、強くイメージしています。

みなさんも、そういう思いで、明後日の礼拝の「祝福の宣言」を受けていただけましたら、恵みはいっそう豊かです。


イエス様は、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」というのが、どういう光景だったのか、想像を絶します。

「上げられた」という言葉は、「上に登る」という意味だけでなく、「いけにえをささげる」という時に使われることが多い言葉です。

あるいはここでも、そういう意味が込められているのか?興味深いところです。これから調べます。

いずれにしろ、ただ単に物理的な上昇ということだけではないようです。

そして、なにより大事なのは、「祝福しながら」ということではないかと思います。

イエス様は、地上を呪って去るのではなく、祝福して天へと去っていかれました。今や、地上のすべては、この主の祝福の中にあると言う事さえ、ゆるされるかもしれません。


この祝福を受けて、弟子たちは「大喜び」しました。疑い沈んでいた者が、大喜びに変えられました。

主イエスの祝福には、そういう力があります。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに祝福をいただいて歩みだしたこの一週間も、金曜日まできました。疲れを覚えている者もいるでしょう。主よ、どうぞ、心の曇りを除いてくださって、大喜びを与えてください。
2019. 05. 30  
今日は聖書とにらめっこしているうちに、配信の時間が近づいてしまいました。

今週は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」の御言葉に励まされて過ごしています。

イエス様がまさしく「世に勝っている」お方であると明らかにされたのが、復活の出来事でした。

世はその悪しき力を総動員して主イエスに襲い掛かりましたが、彼を滅ぼすことはできませんでした。

だから、背く者たちよ、この方のもとで悔い改めよ・・・、これが最初期の教会のメッセージでした。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させられ、主とし、メシアとなさった。この方のもとに救いがある。悔い改めて、罪を赦していただきなさい。」

使徒言行録2章に示されているのは、そういうメッセージです。

次の主日に分かち合うルカ24:36-53は、教会がそのように語り出しはじめる前夜を描いた記事ですね。

復活されたイエス様が、いよいよすべての弟子たちの前に登場されるところです。

いろいろと面白いことがあるのですが、特に印象深いのは、弟子たちが最初「恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思った(ルカ24:37)」とあるところです。

イエス様の復活に際して、「亡霊」だと思ったとあるのは、ルカだけのおもしろいエピソードです。

いつの時代も、またユダヤ人であっても、おばけはこわいのですね。

「亡霊、死者の霊」というのは、死の世界と通じていると思うからこそ、恐いのでしょう。

しかし、主イエスの復活というのは、死の世界に属している者が、ひょっこりと現世に顔を出したというようなこととは全然違います。

彼は死の世界に属していません。まだ誰も知らなかった、新しい命の世界を開いてくださったのです。

主イエスはまったく光と希望のうちに生きておられます。新しい肉体をもって生きておられます。

でも、それは弟子たちにはまだ新しすぎて、よく呑み込めないがゆえに、恐れおののいてしまった。

復活というのは、そういう驚くべきことなのですね。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはまだ、主が復活されたということの希望を十分に知らないのだと思います。どうか、心の目を開いてくださって、今日の日に、賛美と喜びを満たしてください。わたしたちのすべての恐れや不安がなくなるほどに・・。

2019. 04. 26  
昨日に続き、ルカ24章の「エマオ途上」の物語から思い巡らします。みんなで共に、明後日の説教の準備をしましょう。

この物語のクライマックスは、二人の弟子の目が開かれて、主イエスだと分かるという31節です。

この「開かれる」という言葉は、ルカさんの好きな言葉遣いです。

ルカ2:23「母の胎を『開く』男子(新共同訳:初めて生まれる男子)」

同じくルカが作者である使徒言行録の7:56では、「天が『開いて』、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とステファノが言います。

新しい生命の誕生、そして、神の永遠の世界との邂逅が、「開かれる」という言葉で表されます。


「目を開かれる」ということは、当然そういうことと関係することでしょう。

同じルカ24章の、この後の45節には、弟子たちに聖書を悟らせるために、主イエスが彼らの「心の目を開いた」とあります。

使徒言行録16:14にも、主がリディアという婦人の「心を開かれた」ので、彼女は使徒パウロの言葉を注意深く聞くようになった、とあります。

おやおや?この2箇所には、共通項がありますね。

どちらも、「聖書」や「使徒の言葉」に込められた福音を理解することとつながっているようです。

そして、大変面白いのが、もう1箇所。ルカ24章32節。

二人の弟子が、「あの時、心が燃えていたじゃないか」と回想するところ。

そこで「聖書を説明してくださったとき」とあります。この「説明する」が、「開く」という言葉なのです。

これは、どういうことなのでしょう?皆さんそれぞれに思い巡らし、主日礼拝に臨んでください。私もまだ、語るべき言葉を待っているところです。


共に祈りましょう。

主よ、今朝は曇っています。でも、私の目を開いてくださって、あなたから注がれている命の光を悟らせてください。今日の日を、賛美と感謝と喜びをもって、朗らかに歩ませてください。この心が、無限に広やかになりますように。

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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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