FC2ブログ
2019. 05. 21  
今日から神戸に向かい、神学校のリトリートで奉仕をさせていただきます。

「説教と牧会 ~説教使信の具体性を求めて~」という講演をさせていただきます。

そういうわけで、今週は配信はお休みになりますが、それぞれに聖霊と聖書とのゆたかな交わりがありますように。

先の主日にはヘブライ12:1-3より、「自分に定められている道を忍耐強く走り抜こうではありませんか」という御言葉に聴き入りました。

信仰の歩みは長いマラソンのようなもので、苦しい坂道やでこぼこ道が、それぞれに用意されています。

でもどんな時も、永遠の命の希望を見上げて、地上のあれやこれやに揺さぶられないで、最後まで走り抜きたいと、切実に願います。


「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」ともいわれました。

私は、「信仰の道の先駆者(あるいは開拓者)であり、またその道を走り抜いた完走者であるイエス様から目を離さないで」と解釈しました。

イエス様は神でありますが、わたしたちと同じ弱さを抱える人間として、生きてくださいました。

そして、わたしたちに先立って、ひとりの信仰者として、信仰の道を走り抜き、神のもとにある永遠の命への道を切り開いてくださいました。

その道には、たくさんの試練がありました。しかし、十字架という最大の試練さえも忍耐され、復活の命の栄光へと到達されました。

わたしたちは、このイエス様の後に続いていくのです。

わたしたちが通る苦しみの道は、すでにイエス様が通られた道です。

讃美歌532番の2節の歌詞を思い出します。

主の受けぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、うつしよにあらじかし、いずこにもみあと見ゆ

(主イエスのお受けにならなかった苦しみも、主のご存じない悲しみも、この世にはありません。どこにいっても、その足跡を見るのです。)

昼となく、夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ、世にはなき、まじわりよ・・・


共に祈りましょう。

主よ、今週もあなたが通られた信仰の道を歩んでいきたいと願います。どうか、今日用意されている道を、走り抜かせてください。私の生涯に、揺るがぬ信仰の軸を通してくださって、いつも、どんな時も賛美と喜びに満たしてください。
スポンサーサイト



2019. 05. 17  
ヘブライ12:1を思い巡らし、次主日の説教に備えましょう。今日は「忍耐」ということを覚えます。

「自分に定められている競走を『忍耐』強く走り抜こうではありませんか」と、熱く励まされています。

これは、10:36に対応しています。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、『忍耐』が必要なのです。」

そして、後の12:2,3を見ますと、イエス様もまた「忍耐」されたと書かれています。

「十字架の死を耐え忍び」「罪人たちの反抗を忍耐された」とあるのがそうです。

この主のお姿にならい、あなたたちも忍耐しなさいというのが、12:1-3の教えの主旨です。

「忍耐する(ヒポメノー)」それは、「~の下に(ヒポ)」と「とどまる(メノー)」という組み合わせによる言葉です。

どこに踏みとどまるのでしょう?

それは、永遠の命の希望の下にでしょう。天の都に導くという神の約束の下にでしょう。そして、神は必ずすべてをよく備えて下さるという信頼の下にでしょう。

聖書の言葉遣いにおいて「忍耐」とはそのように、まだ見ぬ希望の未来を「信じる」ことと、神への人格的「信頼」と表裏一体です。

だからヘブライ11章では、そういう「信仰」に生きた偉大な先人たちの歴史を振り返るのです。

それは、彼らの信仰を守りつづけ、希望に踏みとどまらせてくださった、神の恵みによる導きの歴史でもあります。

私たちは、彼らのような激しい信仰の生涯ではないかもしれない。でも負い目を覚えなくていい。私たちには、「私たちに定められた競走」があります。

それを、最後まで走り抜くこと。どんなに時間がかかってもいい。休憩したっていい。途中で倒れたり、道を外れることがあるかもしれない。

でも最後まで、みんなで最後まで、走り抜きたい。今は見えないけど、ゴールには果てしない喜びがあるからです。

神は必ず、そこまで「忍耐」させてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もでこぼこ道を走っていきます。どうか、くじけてしまわないように、どんな時も、希望に踏みとどまる力をください。主よどうか、信仰を失ってしまうほどの試練にあわせず、むしろ、苦悩の中で、あなたを近くに覚えることができますように。


2019. 05. 16  
次の主日にはヘブライ12:1-3を分かち合いますが、特に1節を中心に解き明かします。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」


「おびただしい証人の群れ」とは、「雲のような証人たち」という言葉です。「証人」とは「殉教者」でもあります。

もくもくとどこまでも広がっていく入道雲のような、圧倒的に多数の証し人たちの歴史の積み重ねが、教会にはあります。

そのような証しの雲に「囲まれている、取り巻かれている」というのは、どういうことでしょう。

プレッシャーを覚えますね。でも、先人たちのたくさんの祈りと励ましによって守られていると受け取ることもできるはずです。

「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜く」ということが言われています。

いつも言いますが、信仰の歩みというのはマラソンに似ています。最後まで「走り抜く」ことが大切です。

先人たちは、先人たちに与えられたコースを走り抜きました。

私たちには、私たちに与えられている「競争・戦い」があります。

21世紀の日本社会という、ふまじめで不敬虔で混沌とした時代にあって、キリスト者として歩むことへと召された私たちです。

途中で嫌になって、信仰を投げ出してしまいたくなる時もあるでしょう。

でも、たくさんの信仰の先輩たちが、まるで伴走するようにして、ランナーを励ましていてくれるのです。

今こそ、踏ん張り時なのだよ、と。


共に祈りましょう。

主よ、幼子から高齢者まで、今日もそれぞれの戦いがあることでしょう。私たちのそれぞれのマラソンを、励まし、走り抜かせてください。先人たちが、走り抜かせていただいたように。
2019. 05. 15  
先の主日に分かち合った御言葉の最後は、「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい(Ⅱテモテ1:13)」でした。

「ゆだねられている良いもの」とは、不滅の命の福音か、健全なキリスト教教理か、はたまたテモテの純真な信仰のことか・・それら全部と言っていいでしょう。

それを保存し、受け継ぎ、伝え広めていくために、主がパウロにゆだね、パウロがテモテにゆだねた大切なもの。

それを守りなさい。たとえ伝道が行き詰り、世界が混乱しても、主イエスの守りの中で、守っていきなさいと言われました。


次の主日に分かち合うヘブライ12:1-3も、根底にあるのは同じメッセージです。

初期教会の時代は、教会の存在は風前の灯火のようで、貧しく小さく。

しかし、その希望の灯火を決して消してはならないという、純真な信仰者たちの確信と決意に満ちていました。

私たち日本の教会はどうでしょう。私たちは今こそ、初期教会の姿にならうべきだとしばしば言われます。


説教テキストにしたのは12:1-3だけですが、ヘブライ書10:19からの一連の流れの中で読まねばなりません。

パウロがテモテを励ましたように、迫害に苦しむ教会に向けて、希望の言葉を送って励まします。

「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。(10:23)」

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(10:35-36)」

「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。(10:39)」


共に祈りましょう。

主よ、世が混乱し、人々があなたをますます見失っていく中で、私たちが与えられた確信を手放してしまうことがないように、どうか主の力でお守りください。今、信仰萎えてしまった者たちのことを思い、切実に祈ります。彼らを滅びに引き渡さず、命を確保できるように再び導いて下さい。

2017. 05. 31  
今日はちょっと閑話休題で、昨日出会った印象深い言葉を紹介します。

古賀茂明さんの「日本中枢の狂謀」という本がまもなく出版されますが、その本の紹介の中で古賀さんがこんなことを言っていました。

「性善説でも性悪説でもなく、私は『性弱説』にのっとって物事を考えています。たいていの人は悪い人ではなくて良い人だし、ほとんどの場合、良いことをしているのです。でも、いざ自分の損得が関わってくるとなったら、『(悪いことだけど)やっちゃってもいいかな・・』となってしまう。つまり、弱いのです。」

これは、見事な人間理解だなとうならされました。弱さゆえに、悪へ流されていく。のみこまれていく。


古賀さんは、1万円札が落ちていた場合というたとえもしていました。

だれも見ていなかったら、自分のものにしてしまおうかと思ってしまう、私たちの弱さ。

だって、1万円はうれしいし、なにより、届けに行くのはめんどくさい。良いことって、正しいことって、だいたいいつもめんどくさいのですよね。

イエス様は、人の目を意識して善行をなす「弱さ」を、「偽善者」だと徹底的に批判されました。

だれも見ていなくても、神が見ておられる。または、見ていてくださる。

ここに、信仰が問われる思いがするのです。


あるいは古賀さんは、こんなガンジーの言葉を紹介していました。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」

世界によって、自分が変えられないようにするために・・。流されず、のみこまれないようにするために・・。

私が毎日聖書に向き合うことも、こうして配信することも、自分が変えられないようにするためかもしれません。そして、変えられないようにと願う方々を、サポートするためかもしれません。

ヘブライ書の御言葉を思い出していました。

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。わたしたちは最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。(ヘブライ3:13,14)」


共に祈りましょう。

主よ、悪へと流されていく私たちの「弱さ」という罪深さを覚えます。どうか、強くあらせてください。イエス・キリストの強さにあずかることができますように。そして、互いに励まし合い、主の御心をねばりづよく追い求めていくことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR