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2017. 02. 24  
日本では古くから「イワシの頭も信心から」という言葉がありまして、どんなくだらないものでも「信じる」者には尊いものになる、と。

これは、大きな皮肉でもあるのでしょうが、とにかくこんな具合に、「何を信じるか」よりも、「私が信じるか否か」ということに重きが置かれてきたのだと思います。

そうしますと、「信じてる」ならもう十分。難しいことは分からなくてもいい。・・ということになりがちです。

しかし、それでは「何を」信じているのかはあいまいなままです。

そうしますと結局は、「自分」が前に出て来ます。「自分」がどう思うか、どう信じるか次第になってきます。

そして残念ながら、「自分」というのは小さく、自分勝手で、またすぐに揺れ動いていくものです。

ですから、「自分」がどう思うか、どう信じるかにこだわる前に、ちゃんと聖書を読んで、歴史的教理を学んで、「何を」信じているのかを確認することが大切です。

聖書には、神はどういう方だと書かれているか。キリストがどういう方だと教えられているか。

神の目に映る今の自分の姿は、どういうものか。そして、神は、私をどのような姿に変えようとしておられるのか。

すべては、聖書をちゃんと読んでみるところから、分かってくることです。

このように書かれている通りです。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いの導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。(Ⅱテモテ3:15-16)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も聖書を通し、あなたの恵みを教えてください。今、熱心に聖書に取り組む方々を励ましてください。今、礼拝に集うことのできない方々も、聖書を通して、あなたの命に触れることができますように。
2017. 02. 17  
今週は、イエス・キリストの最後の審判ということが、頭を離れません。

その関連で、テモテへの手紙第二の4章1-5節の御言葉をお届けします。

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」



この手紙を書いたパウロは、キリストの再臨と最後の審判とを思いつつ、この命令を与えています。

「最後の審判で、悪者は一掃されるぞ、今に見ておれ!!」、という気持ちは少しもないようです。

むしろ、その審判に耐える者を一人でも多く育てるように、福音の真理を教えなさいと命じられています。

今の時代はまさに、「だれも健全な教えを聞こうとしない時」なのかもしれません。しかし、「折がよくても悪くても」、福音の真理に生き、証ししていく。

それは、伝道者として召された者だけに限らない、すべてのキリスト者の使命なのです。



共に祈りましょう。

主よ、あなたのもとへと集められ、あなたの思いを知ることがゆるされた者たちの幸いを感謝します。どうか私たちの今日の一日が、救いの喜びの証しとなり、周囲の人々があなたを知ることができますように。
2015. 09. 05  
「心の耳をすまして神様の御声に聞く」ことに深まってきたこの一週間です。

最後に分かち合いたいのは、Ⅱテモテ4:3-4です。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話のほうにそれて行くようになります。」

この言葉は、「誰も聞こうとしなくても、福音をのべ伝えなさい」との励ましの中で与えられています。

ですから私もこれまでは、この言葉に触れる時に、罪の世の人々のかたくなさを責める思いを覚えてきました。

しかし、今思うのは、自分自身のかたくなさです。

「自分に都合の良いことを聞こう」と、耳に痛いことは読み飛ばしてしまう。あるいは、解釈を強引にねじまげてしまう。そんな時がないでしょうか?

聖書を読んでいて、どうも納得できないという時はあると思います。そういうところを、納得いくまで調べてみるということは大切です。

ただし、注意しましょう。「自分に都合の良い」ように、聖書を合わせてしまうことがないように。

やはり私たちは、自分に聖書を合わせるのではなく、聖書に自分を合わせていかねばならないのです。

「耳をすまして御声に聞く」というのは、そういう姿勢となって表れてくるのではないかと思います。


共に祈りましょう。

主よ、この世にあって生きる中で、様々な葛藤の中で、あなたの御言葉に従いきれない私たちの弱さを憐れみ、赦してください。どうか私たちが、あなたの真理をねじまげてしまうことなく、御心をまっすぐに受け取ることができますように。
2015. 01. 07  
「恐れるな。語り続けよ。」とイエス様は言われました。

「続けよ」と言われているように、伝道を継続していくことが大切です。

逆に言うと、がっかりして、あきらめてしまわないということです。

私の経験では、一番がっかりしてしまう時は、キリストの道をあたまから拒絶される時ではありません。

ちゃんと受け取ってもらえない時です。

自分勝手な都合のいい理解で、「神様とはこういう方ですよね」と確認をしに(あるいは押し付けに・・)いらっしゃる。

だから、「聖書では、そうは教えていませんよ」と伝えれば、「じゃあ、そんな神様は要りません」となってしまう。

そういうことが、教会の内外で起こる。そういう時に、本当にがっかりしてしまう・・。

でも、私自身もまた、そういう自分勝手な理解を、神様に押し付けようとする傲慢な者でもあります。

主がそんな私を、忍耐深く導いてくださって、少しずつ砕いて、聖書に書かれていることをちゃんと受け取るようにしてくださることを願います。

Ⅱテモテ4:2の言葉が、やはり大切です (お手元に聖書があれば、5節までお読みください)。

「 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」


共に祈りましょう。

主よ、まず私たち自身が、正しく聖書を理解し、あなたの御心を歪めることなく受け取れるようにしてください。そして、それを伝えることができる知恵と力をください。

2014. 12. 23  
今日は18時から、キャンドルサービスがあります。

今年は「平和のために祈りましょう。クリスマスの夜だから・・」と呼びかけさせていただいています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・(エフェソ2:14)」

この平和の君を見上げて、みんなで立ち止まることが、今、とても必要とされています。

今の時代を眺めるときに、テモテⅡ3:1からの終末預言が、驚くほどに当てはまるように思います。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、・・・」

金持ちたちは、いよいよ自分の利益を求め、貧しい者たちは、荒んだ心で、いよいよ残忍になっていきます。

金持ちたちは、戦争でもしなければ経済は回らないと言い、

貧しい者たちは、いっそ戦争にでもなって、すべてが終わればいいと思うまでに絶望しています。

このような時代に、飲み込まれてはいけません。

平和の君に祈るのです。それは、私がどこに立っているかを確認する時です。

そこに踏みとどまるために、上からの光を見上げるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに、正義と信仰と愛と平和を追い求める思いを与えてください。今、覚めた目をもって、決して絶望に呑み込まれないでいることができますように。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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