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2019. 05. 14  
先の主日にはⅡテモテ1:3-14の御言葉を分かち合いました。

特に印象的だったのは、5節にある「純真な信仰」という言葉です。「純真な」とは「演技することのない、偽りのない」という言葉です。

パウロは、愛弟子テモテのことを「純真な信仰を抱いている」と称し、そういう彼だからこそ、会いたいと願いました。

純真な信仰の持ち主との出会いは、私たちの魂をすがすがしくさせてくれます。

そういう出会いは、神が与えてくださるすばらしい宝です。

パウロにとってテモテとの出会いは、そういう得難い宝でした。それはテモテにとっても同様です。彼は、パウロ先生との出会わせていただいたことを、生涯主に感謝したことでしょう。

パウロもまた、純真な信仰を抱いている人として、私たちと出会ってくれて、心を高く引き上げてくれます。


信仰というのはそのようにして、宝のような出会いを通して、悟らされ、高められ、受け継がれ、ということがあります。

そういう出会いが与えられた人は幸いです。その出会いを大事になさってください。

ただし、言うまでもありませんが、その人との関係性を、自分の救いのよりどころとすることは出来ません。

私たちは、キリストのもとに行かなければ、本当の平安にはたどりつけません。

誰でも最初は、出会うことのゆるされた具体的な先輩信仰者に近づいていくことで、信仰の道をはじめていくものかもしれません。

でも、そういう風に近づいていけばいくほど分かってくるのは、そういう先輩たちが「キリストを見なさい」と指さしておられるということです。

パウロもまた、「いっしょに主を見上げよう」とテモテを励ましました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたはが与えてくださった大切な出会いの数々に感謝します。あの人と出会えたから、わたしはあなたを見上げることができました。今日わたしも、願わくは純真な信仰者として、誰かに出会うことができますように。
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2019. 05. 10  
次の主日に分かち合うⅡテモテ1:3-14の言葉を、共に思い巡らしてきました。

この手紙は、獄中の使徒パウロから、愛弟子テモテに宛てられた、個人的な性格をも持つものです。

パウロはまもなく殉教の最後を迎えようとしている。テモテは、エフェソ教会の混乱に行き詰まりを覚えている。

そういう意味では、暗く重々しい手紙のようにも思いますが、そういう闇の深淵においてこそ輝きだす、不滅の福音の光に照らされているようにも思います。

読んでいると、元気になってくる手紙です。

13節で「わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」とありますが、「健全な」とは「健やかな、元気な」という言葉です。

神からの福音を伝える言葉は、人を健やかに、元気にしてくれるものです。

それは、うわべのことではありません。

現実的には、病気のときもあれば、行き詰る時もある。教会の未来はこの先どうなっていくのかと途方にくれる時もある。

パウロもテモテも、今、まさにそういう状態です。

でも、この手紙に書かれている言葉は、なぜだか元気です。健やかです。それが福音の力です。

わたしたちの救い主イエス・キリストが出現なさって、明らかにしてくださった、不滅の命の希望です。

この福音は滅びません。たとえ私たちが滅びようとも、福音は滅びません。「神の言葉はつながれない(Ⅱテモテ2:9)。」

この福音の健全な教えこそ、パウロやテモテに「ゆだねられたもの」でしょう。

それは、彼らだけの特殊な、特別なものでしょうか。

私たちにも、ゆだねられているのではないでしょうか。

「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちに内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(Ⅱテモテ1:14)」


共に祈りましょう。

主よ、今それぞれに、途方に暮れるような行き詰まりの状況があるかもしれません。ならば主よ、今こそ、わたしたちにゆだねられた福音の光によって、まずわたしたち自身を健やかにしてください。どうか、愛するお一人お一人が、今日の日を、主にあって元気に過ごすことができますように。

2019. 05. 09  
今週は、フィリピ2:1-11の御言葉をいただいて、一週間へと送り出されたのでした。

とりわけ、5節の御言葉、文語訳では「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ」。

自分を無にして十字架にまでかかってくださったキリストの「へりくだり」の姿にならって生きるのだと、示されました。


それを覚えつつ、今日も昨日と同様に、次主日の説教箇所であるⅡテモテ1:3-14をいっしょに思い巡らしていきましょう。

私は、信仰の道を歩み始めた頃は、このテモテへの手紙が、あまり好きではありませんでした。

どうにも内容が重たく、難しい宿題が押しつけられているようで、できれば避けて通りたいと思っていた手紙でした。

きっとテモテにとっても、偉大な先輩パウロからの言葉がプレッシャーだったのだと思うのです。

6節を見ますと「“再び”燃えたたせるように」とあります。

「再び」と言われるのですから、今は、きっと沈んでしまっているのでしょう。

まだちゃんと調べてませんが、どうもテモテがいろいろと行き詰って、自信喪失で「おくびょう(7節)」になっているようです。

もしかするとノイローゼ状態だったのではとも言われます。

そういう人に対して、パウロの叱咤激励は逆効果では???現代的なセンスだと、そういう批判もあるかもしれません。

ただ私自身は、伝道者になって14年、テモテと同じような行き詰まりを経験しながら歩んでくる中で、どんどんどんどんとこの手紙が好きになっています。

この手紙が、励ましになり、奉仕の支えになっています。

おそらくそれは、この手紙が単なる先輩からの叱咤激励ではなく、キリスト・イエスを見上げることへと導いてくれるからです。

特に、2:8-13の御言葉には、何度も励まされています。

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」と言われます。

フィリピ書でも、テモテ書でも、パウロ先輩がおっしゃるのは、いつも同じことなのです。キリストだけなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちが、キリスト・イエスの心をわが心として歩むことができますように。どうか、キリストを見上げて歩ませてください。
2019. 05. 08  
次の主日に分かち合う、テモテへの手紙第2の1章について、いっしょに思い巡らしていきましょう。

この手紙は、ローマでの殉教を間近に控えたパウロの、遺言のような趣があります。

長い信仰の戦いの生涯を走り抜き、いよいよ「世を去る時が近づきました(4:6)」と覚悟しています。

パウロ自身はローマで入獄中です。そこから、今のトルコにあるエフェソの教会にいる愛弟子テモテに、もう一度会いたいと伝言しているのです。

おそらくは、それはかなわぬと知りながら・・。

「昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし(3節)」とあるほどの深い師弟関係です。

きっと別れ際に、テモテが男泣きに泣いたのでしょう。

「あなたの涙を忘れることができない(4節)」と言っています。そんな思い出は私にもあります。

2節には「愛する子テモテへ」とあります。

この師弟の年齢差がどれほどだったかは分かりませんが、伝道者・牧師にとって、自分が労苦して関わり育てた者が、「わが子」に等しい愛しい存在であることは分かります。

以前にカトリックの神父の方が、当然独身であるのですが、「わたしにも子がいるのです」と、お弟子さんを紹介していたのが印象的でした。

おびえた子犬のように教会に転がり込んできた若者が、すばらしい説教をする立派な神父になったのだと。

私にも、もしかすると「愛する子よ」と呼んでくださるかもしれない、大切な先生たちがいます。祈り続けて下さる信仰の父や母、兄たち、姉たちがいます。

そして、「愛する子よ」と呼びたい、大切な信仰の弟たち、妹たちがいます。

そんなこんなを思いながら読んでいたら、挨拶の言葉だけで、涙が出てきます。

私たちは、主イエス・キリストにあって、この世では得ることができない、永遠のきずなに結ばれた、神の家族ですから幸いです。


共に祈りましょう。

主よ、私の愛する家族を、今日もあなたの手の中でお守りください。今、孤独を覚える者がいましたら、わたしたちの誰かが助けとなることができますように用いてください。




2017. 09. 21  
先週からずっと、Ⅱペトロ3章の御言葉を思い巡らしながら、毎日を過ごしています。

Ⅱペトロ3章は、聖書の中でも、「終わりの時」についての独特な教えが与えられる大切な御言葉です。(くわしくは説教をお楽しみに!!)


「世の終わりの時が近い」ということを意識する。そうすると、生き方は自ずと変わります。

個人の終末ということを考えると分かりやすいですね。つまり、死ということです。

病気や災害、戦争などで、「自分は死ぬ」と意識しはじめた時から、時間の流れは変わります。

そのように、「この時間世界には終わりがくる」と意識する。ペトロやパウロたち、最初のキリスト者たちには明確にその意識がありました。


そう意識したら、生き方は自ずと変わらざるを得ません。問題は、どう変わるかです。

もうすぐ終わるのだからどうでもいいやと、やけくそになったように、生き方を乱していく人もいます。

あるいは、急に恐怖にとりつかれる人もいる。これまでは無視して済ませてきた「最後の審判」ということを、恐れはじめるからです。

キリストを信じる者は、そうではないはずです。



Ⅱテモテ4章には、パウロ先生からテモテに対する熱い語りかけがあります。

「・・世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。(Ⅱテモテ4:6-8)」

パウロ先生のように堂々と、「わたしは戦い抜いた!!」と言い切れる人生は幸いですね。なかなかそうはいかないでしょう。

でも、「主が来られるのをひたすら待ち望む人」であれば、パウロのようにはなれずとも、「だれにでも」授けていただけると教えられています。

おもしろいのですが、「ひたすら待ち望む」とは「愛する」という言葉です。

再び来てくださる主イエスを、愛し、切望する。「わたしは来る」という主の約束を、自分の人生において大切にする・・。

そういう者に、義の栄冠は授けていただける。これは、福音です。



共に祈りましょう。

主よ、もしも今日あなたが終わりをもたらしたもうならば、その時にどうか、よく備えられた平安な心をもって主をお迎えすることができますように。終わりの時を過ごすにふさわしい信仰と生活を、私たちの内に形作ってください。





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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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