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2017. 09. 29  
昨日読んでいた文書に、こんな御言葉が紹介されていました。

旧約聖書コヘレトの言葉5:7「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、さらに身分の高い者が両者をかばうのだから。」

古代から今に至るまで、人の世は同じなのですね。

今、2017年9月29日、唐突な衆議院の解散がなされ、様々な思惑がうごめいている様子を、私たちは眺めさせられています。

国民無視の、ただ政治家たちの野心による茶番だと、批判もされているようです。

残念なことに、政治的な腐敗や危機的状況というのは、今に始まったことではありません。

だから「この国にあるのを見ても、驚くな」と、古の信仰の賢者が教えてくれます。

いちいち怒ったり、嘆いたりしても仕方ありません。そうではなく、私たちは信じることができます。

この世の為政者がどのように振る舞おうと、真の王であるイエス・キリストが、いつもその上におられると、信じることができます。

そして、やがてその平和の王が、この地に完全な支配をもたらしてくださって、おごる者を低め、砕かれた者を高めてくださると。

「主は諸侯を無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものにされる。(イザヤ40:23)」


それゆえ、キリストの教会は、目前の社会不安や不正・腐敗に対して“真剣”に取り組まねばならないが、“深刻”になる必要はないと、その文書には書かれていました。

私の個人的政治観からすれば、どっちに転んでもうまくないなあと思っている現状ですが、王の王なるキリストを希望として過ごしていきたいと思っています。


共に祈りましょう。

主よ、いつも変わることなく罪深い人の世が、滅びを望まぬあなたの忍耐によって愛され、支えられていることを覚えています。主よ、あなたの王国を来らせてください。私たちの心が、あなたの御心に沿うように、作り変えられていきますように。
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2017. 05. 24  
今、千葉地区の学生たちに、聖書と共に歩む習慣を身に着けてほしくて、ネットを通じて指導しています。

昨日から、コヘレトの言葉をいっしょに読んでいます。お当番の女の子が、とてもよい黙想をしてくれましたので、少し分ち合わせていただきます。
*********

「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。(コヘレト1:2)」

この箇所のインパクトは大きい。そして共感します。

「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。(1:8)」

ここで言われている「空しさ」って、すべては繰り返し巡る終わりのないもので、満たされることはない、ということみたい。

人間の空しさ。神様を知らなければ、生きる理由だってわからず、ただ満たされずにあがくしかない。

神様を知っていても、離れて、ひとりで空っぽの心が渇いていくことがある。

結構ネガティブな1章だけど、わたしはそういう風に言葉にしてくれていることで、読んで安心します。よくわからずに抱えているモヤモヤに名前が付く感じがして良いのかな?

とことん空しさを見ることで、顔が神様にあがっていく。そのことにも意味があると思いました。

*********
すなおで、とてもいいなあと思いました。

自分の抱えているモヤモヤに名前がついていく・・・、とことん空しさを見ることで、顔が神様にあがっていく・・。

本当にその通りだと思います。ため息も、嘆きも、反発も、苦しさも、全部ちゃんとその感情に向き合ってみて、言葉にしていくことが必要なのですね。

なぜなら、わたしたちにとって、言葉にするということが、祈りだからです。

わたしたちには、ひとりごとというのは無いのですね。自分自身の心に向き合い、それをつぶやいていくなら、それがそのまま神様とのおしゃべりになります。

言葉にするのですね。それが、いつでも祈りになる。


共に祈りましょう。

主よ、今日も一日、わたしたちにお付き合いください。あなたと語らいながら、自分の存在の意味を確かめながら、歩んでいきたいと願います。どうか今日、わたしが空しさにのみこまれてしまわないように、あなたがこの貧しい魂を守っていてください。
2015. 09. 24  
今週は月曜日に、吉井勉兄の葬儀がありました。洗礼をお受けになってから、わずか一週間での召天でした。

思っていたよりも少し早すぎる別れに、ご遺族の悲しみを思いますが、主は兄弟のことを病の労苦から解き放ち、最善の終わりを与えてくださったなあとも思います。

葬儀においては、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。(コヘレト3:11口語訳)」との御言葉が与えられました。

天の下のすべての出来事には、神が定められた時があります。

生まれる時があり、死ぬ時があります。

泣く時があり、笑う時があり、悲しむ時があり、踊る時があります。

キリストが十字架で死んだ、罪と闇の時、絶望の時があり、

朝の光の中でよみがえられた、命の時、希望の時がありました。

神のなされることは皆その時にかなって美しいと、信じることができるから、今日もなんとか生きていけそうです。


共に祈りましょう。

主よ、目の前の心配が重くのしかかる時に、心が小さくなってしまわないように、あなたの大きな御旨を悟らせてください。あなたが与えてくださるすべての「時」を、楽しみ、賛美する心の余裕を与えてください。

主よ、愛する者を失って悲しむ者のことを、どうか慰めてくださいますように。
2015. 07. 11  
今週はコヘレトの言葉から学んできましたが、最後に12:1を分かち合いましょう。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(12:1)」

ここでは、単に創造主ではなく、「お前の、あなたの」創造主に目を留めよと言われます。

「あなたを造られた方」がおられることを大切に考えよということです。

「あなたの創造主」がいるということは、あなたが生まれたのは、偶然ではないということです。

人知を超えた深いご計画と愛情の中で、「あなた」は、「あなたの創造主」の御手により、特別な意図をもって創りだされました。

その創造された本来の意図・目的に沿って生きる時に、私たちの尊厳は輝きだし、「あなたの創造主」は喜ばれます。

たとえば、包丁は、おいしい料理を作るために創られたのであって、それが人殺しのために用いられれば、輝きを失います。

そして、その時一番悲しむのは、丹精込めて包丁を生み出した職人さんでしょう。

同じように、「あなた」が間違った道を歩めば、「あなたの創造主」は深く悲しみます。

罪の子ではなく神の子としての、「あなた」の本来の姿を回復するために、イエス様は来てくださいました。

主イエスの教えに誠実に従い、愛と正義と平和の道をあの方と共に歩み始める時に、「あなた」の尊厳も輝きだすのです。


共に祈りましょう。

主よ、コヘレトが求めた「幸福」とはなんだったのでしょうか?私たちもまた、人生を空しさから解き放つ、まことの幸福がほしいと願います。主よ、わたしの創造主よ、わたしが最も輝く道へと、いつも導いていてください。
2015. 07. 10  
「空しい、空しい、すべてが空しい」とのコヘレトの言葉を、今週は聞き続けています。

あんまり聞き続けますと、そうか生きることは空しいのだと、どうせ誰もが死ぬのだから・・と、虚無感にひきずりこまれてしまいそうです。

コヘレトとは、「賢者、導師」というような意味ですが、ちょっとひねくれすぎの感がありますね。

でも、彼が最終的に伝えたいことは、大いなる神が生きておられるということです。

この書物のいたるところで、やや屈折した仕方ではありますが、神の偉大さがたたえられます。

人間にはすべてのことを悟ることはできないが、神はすべてを知っておられる。

私たちの思いを超えて、ひとつひとつ、神の定めておられる時があると、諭します。

そして最後のページにこう結論するのです。「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて。(12:13)」

神を畏れかしこみ、信頼して歩むこと。その神の「戒め」、すなわち神の示してくださる愛の道、正義の道に、一歩一歩誠実に取り組んでいくこと。

そういう歩みこそが、人間のすべてである。すなわち、人間のなすべきことのすべてである。

そうやって神の前で誠実に生きていくところに、私たちが求めてやまない、真の幸福があるという教えです。


共に祈りましょう。

主よ、自分は何をしているのか?と、迷い悩む時が、だれにもあると思います。若い者にも、老いた者にも、聖書の教えをふさわしく与えてくださり、確かな道を歩んでいるという手応えを与えてくださいますように。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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