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2018. 03. 07  
今日は祈祷会があります。互いに祈り合うまじわりは、信仰の人生の格別の恵みです。

小さなグループに分かれて祈るのが、勝田台教会の流儀です。そんな時に、ひとりひとりの具体的な名をあげながら、祈りを合わせます。

自分の知らないところで、自分のためにどれほどの祈りが重ねられているのか・・。そんなことにも気づかされます。

直接に、グループの仲間のために祈ることもあります。

私自身、信頼する信仰者に祈っていただくことの喜びをたくさん味わってきたので、そのように祈り合うことを奨励しています。

ヤコブの手紙の中にも、長老に祈ってもらいなさいという有名な御言葉がありますね。

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。

あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。

その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

だから、主にいやしていただくために、罪を告白しあい、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:13-16)」


この御言葉は実に不思議で、戸惑いさえ覚えさせられます。

「正しい人の祈り」とは、なんでしょうね?

正しい者はいない、ひとりもいないと言われているのに・・・。ただ、旧約聖書の詩編の言葉づかいでは、「正しい人」とは、憐れみにひたすらすがって「主に頼る人」とイコールです。

そういう人とともに祈りあうことは、主の平安に満たされる至福の時です。


共に祈りましょう。

主よ、キリストのあがないのゆえに、わたしたちがあなたに祈ることのできること、この特権を感謝します。そして、互いに祈り合う信仰の仲間を与えてくださってありがとうございます。
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2017. 07. 05  
この「日々の御言葉」で、創世記を順番に読み進めて行こうと考えていましたが、やはり予定変更します。ごめんなさい。

*********
最近、実にいろんな方々から、聖書が示している「忍耐」ということの希望が、心に深く響いているとのレスポンスをいただきます。

これは、田中剛二という先生の説教を研究することで、私の中ではっきりと確立されてきた信仰です。



聖書において「忍耐」というのは、つらいことも理不尽なことも、じっと我慢して耐えるということじゃありません。

そうではなく、どんな時も、希望を持ち続けるということです。

どんな時も神の約束に信頼し、希望を失わないで、待ち望むということです。

私たちは、すぐにがっかりしてしまう弱さを持っています。

神の御心に背き続けるこの世界の病の深さに苛立ちます。いつまでも成長のない自分にがっかりします。周囲にがっかりします。

でも、神を信頼するのです。最後は、神の義と愛が勝利すると。

恵みと祝福をもって追いかけてくださる神。すべてを備えてくださる神。私が弱っても、また立たせてくださる神。死から命を造り出される神。私や、私の愛する人を変えてくださる神。

神を信じて、希望を失わない。投げ出さない、見捨てない。あきらめない。それが「忍耐」です。


ヤコブの手紙5:7-8を読み、共に祈りましょう。

「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。

あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」


愛する主よ、あなたが近くにおられることを私たちは知っています。主よ、あなたの義と愛が勝利するその時を待ち望みます。主よ、今日もこの信仰を与えて下さってありがとうございます。
2015. 07. 29  
今週は、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えに深まっていきましょう。

ヤコブの手紙2章8節によれば、それは「最も尊い律法」です。

それほどに大切と言われるのは、それが私たちにとって果てしなく難しいからです。

なぜなら私たちは、自分を愛することはできても、同じようには隣人を愛することはできないからです。

自分にとってメリットのないことができない、そういう悲しさを私たちは抱えます。

愛の人になりたいなんて偉そうに言っているが、だれかに優しくするのは、その人を仲間にしたいからではないか?

自分がほめられたいからではないか?どっちにしろ、結局、自己満足のためではないか?

・・・そういう風に非難されるなら、誰も否定できないのではないでしょうか。

否定できると思うなら、それは傲慢かもしれません。

そういう人間の現実から考えて、隣人愛など存在しないのだ。すべては偽善だと、開き直るのも一つのありかたです。

しかし私たちは、開き直るというのではなく、そういう自分の偽善性をしっかり自覚した上で、その偽善的な愛をも用いてくださいと、神に祈る者でありたいと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、真実の愛よ、あなたのようには愛せない自分を恥じます。しかし主よ、どうかこの自己中心で、偽善的な心をきよめてくださって、隣人を自分のように愛するということが本当にできるようにしてください。主イエスが私を愛してくださったように。

2015. 06. 16  
今週私たちは、マタイ21:18-22の御言葉をいただきました。

実のならないイチジクの木のように、実のならない信仰では、たちまち枯らされてしまいます。

ほんものの信仰をもち、疑わないでいなさいと、イエス様は教えてくださいました。

ヤコブ1:6-8の御言葉を思い出します。

「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」

私たちは、そのように揺れ動く人でありたくないという願いが、だれにでもあると思います。

まっすぐに神に信頼し、ゆだね、いつも希望と平安の中で歩みたい、神と共に歩みたいとの願いがあると思います。

でも、それを妨げるような不信仰の山が、自分の中にそびえ立っている・・・。

この山を動かしたいのです。この山が動く時、見えて来る新しい景色は、わたしたちの思いをはるかに超えてすばらしいものです。

動かしたい。そのために、祈るのです。この不信仰の山を動かしてくださいと、自分のために祈ることを習慣にしましょう。この祈りは必ず聴かれます。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、私の前にそびえ立つ、あらゆる不安を取り除いてください。恐れを取り除いてください。新しい私を生み出してください。あなたとの真実な関係をはじめさせてください。
2014. 05. 20  
先週土曜日、東関東中会の女性の会修養会に参加しました。

そこで、他教会の一人の姉妹から、ホームページに掲載している「日々の御言葉」を、毎日読んでいますとの、うれしい報告をいただきました。

この「日々の御言葉」は、私たちの心に、御言葉が「貯金」されていくことを願って、継続しています。

そういえば、土曜日の修養会で、講師の山内長老(医師)もこんなことを言っておられました。

「御言葉を心に蓄える」

死を間近にした方々と向き合う時に、その蓄えられた御言葉だけが、口から出てくるのです、と。

それは、伝道という場面だけではなくて、私たち自身の試練や困難、また死と向き合う場面でも同じですね。

心に蓄えられた御言葉は、いざという時に輝きだし、内なる神の語りかけとなります。

聖霊は、そんな血肉化した御言葉を通して、慰めと希望をもたらしてくださいます。

ヤコブ書1:21の言葉は真実です。

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの心に、あなたの恵みの御言葉を植え付けてください。この心にしっかりと、あなたの御言葉が蓄えられますように。御言葉によって、今日もどんな時も、強く雄々しくあることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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