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2016. 11. 11  
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」


これは、旧約聖書の申命記7:6-8の言葉です。

旧約の神の民イスラエルの人々に対して、モーセがこのように伝えました。

今、新約の時代に生きる私たちも、神様から「聖なる民、宝の民」として選んでいただいたのだと、昨日も確認しました。

それは、私が立派だったからでもない。強く、有益な人間であったからでもない。

弱くて、みじめで、泣いてばかりいるような者なのに・・・。

いや、むしろそのような者であるからこそ、主は特別に心引かれ、救いの手をさしのべてくださいました。

私たちは弱くとも、主は強いのです。


これらの言葉の後に、この9節の御言葉が続きます。

「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」


共に祈りましょう。

主よ、今自分のみじめさを泣いている者がいましたら、どうかその魂を救いあげて、心に澄んだ風を送ってください。今、祈る言葉を失っている者さえも、宝の民として、大いなる愛の中でお取り扱いください。あなたを信頼するとはどういうことかを教えてください。
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2016. 10. 19  

「生まれたばかりの乳飲み子のように、霊の乳を慕い求めなさい」と言われています。

霊の乳とは、霊の糧、霊のパンといってもいいでしょう。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、イエス様が教えて下さった事を思い出します(マタイ4:4)。

これは、もともとは申命記8:3にある教えです。


ここで言われている「生きる」とはどういうことなのでしょうね。

聖書の民は、「生きている、生きていない」とか「命がある、死んでいる」ということにこだわりました。

まちがいなくこれは、肉体の生命の問題だけではありません。

あなたの体は生きているかもしれないが、本当にあなたは「生きている」のか?と、いつも私たちは問いかけられているようです。



申命記の最後近く32:45-47で、モーセはこのように民に伝えます。これは、モーセの生涯最後のすすめでもあります。

「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心にとめ、子どもたちに命じて、この律法の言葉(=聖書の教え)を忠実に守らせなさい。

それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちは・・長く生きることができる。」


聖書の教えは、わたしたちにとって決してむなしい言葉ではなく、わたしたちの命である。

このことを心に刻み、共に祈りましょう。

主よ、わたしが今日、本当に「生きる」ことができますように。命の喜びを知ることができますように。そのために、いつもあなたの御言葉が、私とともにありますように。




2016. 09. 23  
「神の子」についての旧約聖書研究、2回目です。

エジプト脱出から40年後、荒れ野の放浪を終えて、いよいよ約束の地カナンに入る時に、モーセは旅路を振り返って、このように民を励ましました。

申命記1:29-31「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」


荒れ野の旅路を行く間、父が子を背負うように、神が背負っていてくださったではないかとモーセは言います。

私たちは、お父さんに背負っていただいているのだ。これが、古代からの神の民の自意識なのです。

他にも、申命記14:1を見ましょう。異教の習慣から離れよ、という戒めが与えられているところで、このように言われています。

「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」


神の子であるとは、選ばれた聖なる民、宝の民であるということです。

そのように扱われるのは、彼らが特別優れているからではありません。むしろ、彼らは「どの民よりも貧弱」でありましたが、ただ「主の愛」ゆえにそうされたのです。

そのことは、申命記6:6-8に書いてあります。これまたとても大事な聖句ですので、お手元に聖書のある方は、確認しておいてください。


共に祈りましょう。

主よ、わが父よ、あなたに背負っていただかねば、一歩も前に進むことはできません。まことに貧弱な体です。貧弱な魂です。しかし主よ、あなたに選んでいただいた、この自分の存在を、宝として大切に扱うことができますように。

2015. 12. 18  
明日の朝はホームレスミニストリーに出かけますので、配信をお休みいたします。

*******
「神様に選んでいただいた」という恵みを考える時に、欠かせない御言葉は、申命記7:6-8です。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」


旧約の神の民であるイスラエル民族は、モーセに率いられて海を渡り、エジプトでの隷属の日々から救い出されました。

それが、「救い」の原体験でした。

そうして救い出され、ファラオの奴隷だった者たちが、主なる神の「聖なる民、宝の民」となりました。

でもそれは、彼らが優れていたからではなく、ただ「主の愛のゆえに」、どの民よりも貧弱であった者たちが、憐れみを受けて選ばれたのでした。

私たちも同じです。私たちの側には、神に愛される理由・価値は一切ありません。

貧弱で、愚かで、もろい者たちですが、ただ「主の愛のゆえに」選んでいただいて、罪の奴隷から、神の「聖なる民・宝の民」に変えられるのです。


お手元に聖書のある方は、Ⅰペトロ2:9-10も確認してください(新約p430)。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの「宝の民」と呼んでいただくこと、この身に余る幸いです。「宝の民」としていただいた、自分を大切に今日も歩んでいきます。主よ、翼を広げさせてください。
2014. 05. 10  
今日は、M教会の青年お二人の結婚式に参列させていただきます。

主が結び合わせてくださった二人が、「一途」に愛し合い、祝福された家庭を築くことができますようにと祈るものです。

新共同訳聖書では「一途」という言葉は出てきません(完全な、無垢、まっすぐ・・などの翻訳が近いです)。

でも聖書における、神と私たちの関係性を示すのに、ぴったりな言葉だと思います。

申命記6:4の有名な言葉。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

ここで求められていることこそ、神への「一途」な愛です。

他の神々に目をくれず、ただお一人の神だけを、「一途」に愛しぬきなさい・・。

なぜなら、まず神が、私を「一途」に愛しぬいてくださるからです。

どこまでも裏切らず、見捨てず、かけがえのない者として扱い続けてくださるからです。


このような、神との垂直の関係における「一途」さが、配偶者との水平の関係をも規定します。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ5:25)」という言葉もありますね。

「一途」な愛ということを、改めて考えさせられています。


共に祈りましょう。

主よ、今週の歩みにもたくさんの恵みと祝福を感謝いたします。今日も、あなたの愛を満たしてくださって、それぞれの家庭をも祝福してください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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