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2018. 01. 13  
土曜日は祈りの言葉を紹介しておりますが、今週はすこし趣向を変えて。

今週読みました本の中で、ある有名な説教者の言葉がありました。その先生は、神を求めておられる求道の友に、いつも最初に申し上げることがあると言います。

それは、まず祈ってくださいということです。

神様にお祈りをなさるようにと、強く勧めるそうです。

信仰というのは、神様が与えてくださるものですから、神様とその方との関係の中でしか決して成立しないものです。

牧師には、究極のところ、なすすべがないのです。だから、まず何よりも、神様に祈ってください。祈らなければ、何も始まりません。

そう申し上げると、返ってくる応答は、「どうやって祈ったらいいか分かりません」

あるいは、「まだ信じているかどうかも自分で分からないのに、祈れません」、という答えだったりします。

ならば、その心のままで、神様の御前にお出になったらいいのです。

神様、あなたを信じていいのかどうか、まだ分かりません・・、どうしたらいいのですか・・と祈ったらいいのです。

神様、あなたを信じてもいない私が、こんなことを祈っていいのかどうかも分かりませんが、苦しいのです・・、悩んでいるのです・・と打ち明けたらいいのです。

私はこの先、どのように生きていけばいいのですか、死んでいけばいいのですか・・。

神よ、私にあなたを信じさせてください。あの教会の方々が言う、信仰の喜びというものを、私にも教えてください・・。

そんな風に神の御前で、ひざまずいて、無力な手を組んで祈ってみるとき、何かが音を立てて始まるのです。


「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:6-7)」

皆さんの上に、聖霊による祈りの泉への導きと祝福が、豊かにありますように。
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2016. 04. 12  
先の日曜日の礼拝での、子どもと親のカテキズムとその解説(子どもへのメッセージ)を、もう一度教えてほしいとのリクエストがありましたのでお伝えします。

問40「わたしたちは死んだあと、どうなりますか。」

答え「死んで終わりではありません。死んだあと、わたしたちの魂は完全にきよめられ、天におられるイエスさまのもとに引き上げられます。体はイエスさまに結び合わされたまま、墓の中で休みます。」

わたしたちの人生は、いつも共にいてくださるイエス様と歩む道です。それは死んだら終わりではなくて、死んだあとは、いよいよ強くイエス様と結ばれます。

だから、死んだあとも、なにも心配しなくていいのです。

一か所聖書を読みましょう。フィリピ1:21-24.新改訳のほうが分かりやすいでしょう。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」


これを語ったパウロは、死ぬことを全然恐れていません。むしろ世をさって、イエス様ともっとひとつにむすばれて過ごしたい。そのほうがずっといいと考えています。

でも、だからといってパウロは、もう死んでしまおうとはしませんでした。

パウロの生涯は、試練ばかりのとっても苦しい日々だったけど、死んでしまおうとは思わなかったし、死んでもいいとは決して教えませんでした。

わたしたちにとって、生きることも死ぬことも全部神様が与えてくださる恵みです。

自分で好き勝手に選べることではないのです。

だから、神様が命を与えてくださるかぎり、一生懸命生きるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も朝が来ました。私の人生の終わりが、いつ与えられるのか・・。あなたの恵みの導きにすべてをおゆだねします。そして、今日、与えられた命の意味を覚えながら、私だけに用意された私の一日を生きていきます。主よ、この歩みを支えてください。
2016. 04. 02  
今週は、復活の希望を覚えての一週間でした。イエス様の復活は、「わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証」でもあります(ハイデルベルク問45)。

「よみがえる」とは、ただ生き返るということではありません。

聖書の中で、奇跡によって生き返った者はいますが、彼らは結局また死ぬことになります。罪に汚染された肉体の弱さ、悲しさ、苦悩はそのままです。

「よみがえる」とは、もはや罪からまったく解放された、栄光の肉体へと変えられることです。

それは、あの復活されたイエス様の持っておられた、質的にまったく新しい肉体と同じです。(Ⅰコリント15:44では「霊の体」とも言われています)


「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ3:20-21)」

「天の国=神の国」が完成する終わりの時、主イエスは再臨され、わたしたちを栄光の体に変えてくださり、天の住人として迎え入れてくださいます。

ここに、私たちの究極の希望があります。



共に祈りましょう。

主よ、私たちに与えられた、この希望に感謝します。そして、今願います。病と痛みに苦しむ人々を憐れんでください。死を見つめて苦悩する人々を憐れんでください。願わくは、迷い背く魂を、復活の希望の光差すところへ招き導いてください。
2014. 04. 10  
K姉の葬儀にはたくさんの方が集まって、本当に慰め深い時が与えられました。

フィリピ1:29も、彼女が愛しておられた聖句のひとつです。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」

苦しむことも・・・恵みとして、与えられる。


神を信じるのは、苦しみから守られるため・・・、多くの方はそのように考えています。

しかし聖書が示すのは、苦しみもまた神の恵みであるという世界です。

Kさんが信じておられたのは、苦しみから遠ざけて下さる神ではなく、苦しみの意味を教えて下さる神です。

そしてその苦しみを、共に苦しみ、乗り越えさせてくださる神です。

苦しみは、「恵み」として、すなわち「私のためのもの」として、全知全能の神から与えられます。

この神の手の手の中に、宇宙に起こりくるすべてのことは握られています。

しかもこの神は、独り子をお与えになったほどに、私を愛してくださっています。

だから、悪いようになさるはずがありません。

この確信ゆえに、すべてを神の恵みと感謝して生きる。これが、キリスト教信仰というものです。


共に祈りましょう。

主よ、愛する姉妹の葬儀に、深い慰めと希望を満たしてくださって感謝します。どうぞ、ご遺族を、また信仰の兄弟姉妹たちを、今日も慰め励ましてくださって、あなたの偉大な「恵み」を悟ることができますように、今日も導いてください。
2014. 04. 08  
K姉が、4月6日に天へ召されました。

最後は、本当に苦しい病との闘いがありましたが、今は主イエスのもとで完全な慰めを与えられ、休んでおられます。

闘病中、Kさんが大事にされていたのが、フィリピ4:4-7の言葉です。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

特に、「主はすぐ近くにおられます」という言葉に、慰めを覚えておられました。


この地上で、わたしたちにはたくさんの思い煩いが与えられます。苦しみが与えられます。

祈っても祈っても、かなえられないこともあります。K姉の病が癒えなかったように・・。

でも、本当に「人知を超える」神のご配慮によって、思いもかけない仕方ですべてが備えられ、姉妹の思い煩いが取り除かれていったことを、私は証しできます。

すべてのことは、大いなる主の手の中にあるのです。

だから、何が起ころうとも、主において、常に喜んでまいりましょう。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの愛する姉妹に、永遠の安息を与えてくださったことを感謝します。姉妹の信仰の証しに励まされ、私たちも今日を生きます。すべてをあなたに委ねて、喜んで生きることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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