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2019. 08. 07  
創世記28章の「ヤコブのはしご」の物語は、ヤコブが挫折の夜に夢を見て、主なる神が共にいることを悟って立ち上がるというものです。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」とヤコブは言いました(28:13)

これは、まさかこんなところで神とお会いできるとは思わなかった、という驚きの言葉です。

それはつまり、彼にとっての挫折と孤独の地であるこの場所で、石を枕にして眠ったこの場所で、神が共におられると知ることができた、その驚きであります。

「まさかこんなところに神がおられるとは思わなかった」という、そんなところに、神がおられたのです。

むしろ、そんなところでこそ、はじめて神と出会えるというべきかもしれない。

私たちが倒れ、力尽き、涙を流しているような、そんなところ。

しかしその低い低い極みのところまで、神のまなざしは届いていて、そこに天からの階段を伸ばして下さるのです。

そしてそこに神は降りてきてくださるのです。ヤコブはそれに気付いたのです。

私たちもまた、挫折の夜に思うかもしれません。もうダメだ。もうこんなところには、神は共におられない・・・。

しかし、神が我らと共にいまさない場所は、この地上にも天上にも、どこにも存在しません。

それが、インマヌエル(神我らと共にいます)と呼ばれるイエス・キリストの到来によって、完全に明らかにされた、神の真実です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も、いつでもどこでも、あなたが私と共にいてくださる。それが私の慰めであり、力です。主よ、今日もあなたと共に歩ませてください。
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2019. 08. 06  
先の主日は、創世記28章の「ヤコブのはしご」の記事から御言葉をいただきました。

兄をだましたがゆえに、命の危険を覚え、追われるように故郷を旅立ったヤコブです。

そうして歩き疲れ、かたい石を枕にして、初めての荒れ野の夜を過ごすことになりました。

それはヤコブが味わう、初めての孤独と挫折の夜でした。

切なく胸に迫る夕焼です。そして日が沈み、闇の支配が始まることの恐怖・・。

闇の深さに呑み込まれていくような、未体験の不安と恐怖の中で彼は横たわったのです。かたい石を枕にして。

しかしそういう時に、彼は夢を通して、神からの語りかけを聞きました。

12節。彼が見た夢は、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というものです。

おもしろいですね、「地に向かって」伸びてきているのです。

最新の翻訳だと、ちょっと傾向が違って、「地に立てられ・据えられ」と訳していますから、何か文法上の発見があったのかもしれません。

不勉強をお許しください。私の今のヘブライ語知識では、ここは「地に向かって」と、方向性を示す言葉遣いになっています。

続く13節も、新共同訳では「見よ、主が傍らに立って言われた」とありますが、新改訳2017では、「主が(はしごの)上に立って言われた」とあります。

これも、どちらも可能だと思います。

ただ文脈からすると、神のほうから、天より「地に向かって」階段を下り、孤独と失意のヤコブをたずねてくださったと言う風に、私は理解します。

後日、解釈が変更する可能性もありますが、ご容赦ください。

でも、旧約の預言書、ホセア書12:5にも「神はベテルで彼(ヤコブ)を見いだし、そこで彼と語られた」とあります。

「見出す」という言葉は、「見つけ出す」という含みの語です。

ヤコブは神を探していなかったのに、神の方から探して見つけてくださり、近づいてくださった。あのザアカイの時と同じように!

それが、福音のパターンだと思います。聖なるワンパターンです。

不安と恐怖に震える、迷子の羊を探し出すように、ダメなヤコブを見つけて、語り合ってくださった。

それが、神の民イスラエルの原点にあるストーリーなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたの恵みを、地に向かって、このダメな私たちに向かって注いでください。今、挫折と失意にある者たちが、あなたとの出会いによって立ち上がる力を得ますように。

2018. 02. 23  
今週は、日曜日に与えられた創世記12:1-4の御言葉を思い返しています。

アブラム(後のアブラハム)は、「あなたを大いなる国民にする」との約束、すなわち、子々孫々にわたる神の祝福の約束を信じて歩みました。

今世界で、アブラハムを父祖として覚えているのは、ユダヤ教、キリスト教、またイスラム教の人たちもそうです。

まさしく信仰の子孫が増え広がり、全世界に広がることになりましたが、きっとアブラムには想像することもできなかったでしょう。

そんなことは、想像することもできなかったけど、ただ、神の約束を信じて歩んだのです。

神は、私たちの小さな想像を超えることをなさる方だから・・・。


私は、このような御言葉を受け取りながら、今まであまり考えたことのなかった自分の子孫たちのヴィジョンが、ぶわっと脳裏に広がりました。

それは、血統上の子孫にとどまらない、キリストへの信仰においてつながっている教会の子どもたちのヴィジョンです。

100年後、300年後、500年後・・・、主が終わりをもたらしたもうその時まで、私の子どもたちもまた、今の私と同じように恵みと平安に満たされて、主をほめたたえている光景です。

その歴史は順風満帆なはずがありません。幾たびも試練を越え、苦難を味わいながら、それでも教会は守られ続け、信仰の火がともされ続けているのです。

そんなヴィジョンが広がったのです。

だから、思いました。そうだ、300年先の子どもたちのために、今、私がなすべきことをしよう。

アブラムのように、神の約束を信じて、勇気をもって歩みだす一歩。私たちのその一歩が、未来へと通じるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが見ておられること、考えておられることは、はるかに壮大でまた思慮深く、私たちには想像もできません。だから、ただあなたを信じて歩みたいと願います。信仰を与えてください。父たちに与えられた信仰を、私にも与えてください。そして、祝福を広げてください。


2018. 02. 22  
ゴー先生が解き明かしてくださった創世記12:1-4の、アブラムの旅立ちの記録を思い返しましょう。

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしがあなたを大いなる国民にしよう。』」

わたしたちの信仰の祖先であるアブラムは、こういう神さまからのコーリングに応えて、信仰の旅路を歩み始めました。

そのとき、75歳。

それまで住み慣れた環境を捨て、人生をやりなおすようにして、旅を始めたのです。チャレンジを始めたのです。

それは、ゴールが分からない旅でした。神様は、「わたしが示す地」と言われましたが、それがどこであるのかは分からないまま出発したのです。

私たちの人生も同じでしょう。

それぞれに、神が用意してくださる目の前の課題に、ひたすらチャレンジを繰り返しながら、わたしたちは毎日を懸命に生きます。

新しい仕事・奉仕が与えられる・・。人生の困難が与えられる・・。病が与えられる・・。取り組むべき試験が与えられる・・etc。

実に神様は、それぞれの人にそれぞれの仕方で「信仰」の試練を与え、勇気をもって歩みだすことへと導かれます。

それらはすべて、ゴールが見えない旅路です。

ゴールどころか、一歩先に何があるのかも分からない、手探りで闇の中を行くようなチャレンジです。

わたしたちにできるのは、与えられた課題に向き合って、毎日を、信仰と希望と愛をもって、懸命に取り組むことだけです。

一歩、また一歩と、明日のことを思い煩わず、今日の歩みを進めます。

わたしたちにはゴールは見えません。でも、神様は、わたしたちのゴールを知っていてくださいます。最善のゴールを備えていてくださいます。そこに向かって、すべてを導いていてくださいます。

だから、わたしたちは、不安ではありません。

主が共に歩んでいてくださるからです。主が、わたしの祝福を約束してくださったからです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も信仰の旅路を行くすべての旅人たちに、あなたの恵みと祝福がありますように。すべてを知っていてくださる、あなたの大いなる手に、この小さなわたしの人生をおゆだねします。
2017. 07. 28  
「神のかたち」として特別な愛情をもって創造されたところに、人間の尊厳があると、昨日申しました。

しかし、残念ながら人間は、罪への堕落によって、その「神のかたち」を決定的にゆがめてしまっていることも、忘れてはいけません。

聖書の人間観は、近代以降の「人間万歳!!」という楽観的なものとは異なり、どこまでも「罪人」の暗さを見つめるのです。



「神のかたち」だけどゆがんでいる。同時に、ゆがんではいるけど「神のかたち」。これが人間の現在の状況です。

このような人間が、その本来の尊厳を思い出し、すこやかな姿に回復されていくためには、創造主のもとに帰ることが必要です。

例えばオルガンが、製作者自身に奏でられることで、見違えるような音色をあらわすように、私たちもまた自分を創造してくださった方のもとで、はじめて命が輝きだします。

だから神様の呼びかけはいつの時も、「どこにいるのか、帰って来なさい」なのです。



「主なる神はアダムを呼ばれた。どこにいるのか。(創世記3:9)」

堕落し、ゆがみ、神の前から隠れようとした「アダム=人間」に対する、神の呼びかけです。この根源的な呼びかけが、今もずっと響いています。

この神の呼びかけの声こそ、イエス・キリストです。

この神の探し求める足こそ、イエス・キリストです。

この神の差し伸べられた手こそ、イエス・キリストです。

ゆがんでしまって、汚れてしまって、父に会わす顔がなくて・・、でもそんな私たちの身代わりに、父の怒りを引き受けてくださって、創造主のもとに帰る道を開いてくださったのがイエス・キリストです。



共に祈りましょう。

主よ、私たちの本来の姿を思い出させてください。キリストの血を代価としていただいたほどの、高貴な私たちの魂を、その価にふさわしく整えてください。イエス様のように、義と愛と平和に生きる者にならせてください。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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