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2020. 03. 26  
皆様、おはようございます。今週月曜日に、茅ヶ崎市に引っ越しをして、昨日まで荷ほどきに奮闘しておりました。

ようやく一区切りつき、ネット環境も整って、メールもできるようになりました。

次の主日は勝田台での最後の礼拝奉仕になりますので、祈りをもって備えたいと思います。

この三年ほど、改革派教会の教案誌のカリキュラムに従って、礼拝説教テキストを選んできました。

そういう中で、この最後の一か月がアブラハムの物語が示されたことに、いわく言い難い、不思議な導きを覚えてきました。

最後は創世記22章のイサク奉献の記事です。

「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。(創世記22:8)」

私たちのために、小羊イエス・キリストを備えてくださった神が、きっとすべてを備えてくださる。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」

今度の説教は、この御言葉を中心に、思い巡らすことになるのだと思います。

共に祈りましょう。


愛する主よ、依然としてウィルスの脅威は消えず、むしろいよいよ高まってきているような今週の日々でもあります。激しい嵐の中でもまれるような思いで、日々を過ごしています。主よ、あなたが私たちの助けです。十字架において示されたあなたの愛を、疑うことはありません。主よ、今日も私に、そして愛するひとりひとりに、必要なすべてを備えてください。
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2020. 03. 17  
先主日は創世記18:16-33に記された、悪しきソドムの町を赦してくださいと願う、アブラハムの執り成しの祈りを見ました。

アブラハムは、神様からまるで友のように扱われ、ご計画を打ち明けられたということも見ました。

確かに、聖書においては、神がアブラハムのことを「我が友」と呼んでおられるところがあります。

歴代誌下の20:7や、イザヤ41:8をご覧ください。

イザヤ書のほうは、バビロン捕囚の苦しみのあえぐイスラエルの人々に、間もなく解放を与えるとの神の約束に伴って、こう言われます。

「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。

わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。(イザヤ41:8-10)」

私たちもまた、アブラハムを信仰の父とする子孫たちであり、神から「わたしの愛する友」と言っていただくのです。

今日はこの御言葉をもって、一日に向かいたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、わが父よ、わが救いの神よ。あなたが私と共にいてくださる。今日もこの希望が、わたしの行く道を照らしてくれます。依然としてウィルスの影響大きく、衛生的にも経済的にも、一層大きな混乱が予想される今、わたしたちそれぞれの心に不安があります。主よ、あなたの救いの右の手で、このか細い魂を支えてください。今、困難の中にあるすべての方に、あなたの癒しと励ましがありますように。
2020. 03. 12  
創世記17章は、老齢の妻サラから子が産まれるという約束が、はじめて与えられるところです。

この約束に触れて、「アブラハムは笑ってしまった」とあるのを見逃せません。

17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『100歳の男に子が生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが産めるだろうか。』」

この「笑い」は、やはり悪い意味での失笑でしょう。18:12では、サラもまた同じように、ひそかに笑ってしまう。

このようにして神の言葉に対して失笑してしまう、これほどにひどいことがあろうか、これは絶望的だと痛烈に断じる神学者の声も紹介しました。

確かにそうかもしれません。絶望的かもしれません。そうだとしたら、私たちは誰も、同じように絶望的ではないでしょうか。

アブラハムは神と共に生きる者です。神にひれ伏し、神に従う者です。でも、ひれ伏しつつも、とてもそこまでは信じきれないと失笑してしまう・・、そういう弱さを、誰もが抱えているのではないでしょうか。

私は、この記事を読みながら、マルコ9:14からの、我が子の癒し救いを切実にイエス様に求める父親の姿を思い出しました。

彼は、「おできになるなら救ってください」と言います。それを聞いてイエス様は、「『できれば』などと言うのか。信じる者には何でもできる」と、圧倒的な言葉で答えられます。

私は、こんなことを言われたら、とてもつらいです。

初めて聖書を読んだときに、失笑ばかりしていた自分を思い出します。とても信じられない。そういう思いでした。

でも、この父親が主イエスに申し上げた叫びの言葉が、若き日の私の心にも深く迫ってきたのを思い出しています。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコ9:24

先の主日の説教で、この叫びを口に出したら、涙が込み上げてきました。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは、あなたに対して絶望的な態度をとり続けているかもしれません。どうか、主イエスの十字架のゆえにお赦しください。あなたを信じる信仰の確かさも、あなたから与えていただかねば、決して持つことはできません。主よ、今、世界が騒いでいるとき、経済的な大混乱の控えているとき、病に苦しんでいる方、生活に困窮している方のことを思います。主よ、私たちをお助けください。信仰のない私たちをお助けください。
2020. 03. 11  
アブラハムは「信仰の父」として理想化されてきた面がありますが、聖書に示されているその姿はもっと人間臭いものです。

私たちの誰もが抱える「不信仰」の姿をも映し出すような、「不信仰の父」でもあると私は思っています。

創世記17章は、90歳の妻サラが子を産むことになるという、あきれるほどの驚きの約束が初めて与えられるところです(17:15)。

最初の出発の時から、「あなたを大いなる国民の父とする」との神の約束がありました。

でも、その時点でアブラハムには子がありません。しかも、すでに75歳です。

しかし約束を信じて旅立った。そこが「信仰の父」たるゆえんです。でも、そのあとの15章が興味深い。

「恐れるなアブラムよ、あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかけられる主なる神に対し、ブツブツ文句を言っているアブラハムがいます。

「・・主よ、報いが大きいって言いますけど、何をくださるっていうのですか?あなたは結局、私に子どもを与えてくださらないじゃないですか。だから家の僕のエリエゼルに跡は継がせますよ・・」と、つぶやくのです(15:2,3)。

そして17章でも、驚きの約束に面食らってしまって、思わず笑ってしまうというアブラハムの姿が描かれています(17:17)。

「100歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが産めるだろうか。そんなバカな話・・・」とつぶやいて、

「いや、神様、そんなことはもう望まないので、今与えられているイシュマエルを健やかに成長させてください。イシュマエルが与えられたことで、もう充分ですから。そんなバカな話は、もうやめにしましょう・・」と、まるで神様を諭すかのように言うのです(17:18)。

これが、私たちの「不信仰の父」であるアブラハムの等身大の姿です。

でも、そうやってあきれるアブラハムに、主はあきれられることなく、ご自身の偉大な力を少しずつ体験させながら、「信仰の父」として恵みによって育てていかれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちもまたあなたを小さくしてしまうものです。そんな無茶な・・とつぶやきながら、現実的であれと互いに求めあい、あなたと共に夢を見る力さえ失っていきそうな、不信仰の子孫です。主よ、信じます。信仰のない私たちを助けてください。今日もそれぞれの現実の中で、あなたの大いなる救いの力を体験させてくださって、私たちの貧しい心を開いてください。
2020. 03. 10  
先の主日には創世記17章から、アブラハムの旅の続きを分かち合いました。

この時、アブラハムは99歳。あの75歳での旅立ちから、すでに24年が経っていました。

12章の旅立ちの場面で与えられた、「あなたは大いなる国民の父となる」という約束が、17章でも繰り返されます。

しかし、「もうついていけない・・」と思っても仕方ないような時間が流れていました。24年というのは、そういう時間です。

神の約束を信じて、祝福を信じて、私たちは歩みます。

でも、私たちが願っているようには、その祝福は与えられないということがあります。そのほうが多い。

そこで求められるのは、信仰の忍耐です。

萎えてしまいそうな心を自覚しつつも、そのうめき声を受け止めてくださる内なる聖霊の慰めをいただいて、最後まで、自分に与えられている確信を見失わないでいることです。

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(ヘブライ10:35-36)」


共に祈りましょう。

主よ、新型コロナウィルスの脅威が続いていく中で、私たちは今、忍耐の時を過ごしているのだと思います。願っていたように集会を持つことができず、礼拝に集うこともできません。仕事の予定も大幅に狂ってしまいました。それぞれに、心が弱くなってしまうかもしれません。集まることができないことは、つらいことだと知りました。でも主よ、むしろ今この時に、私たちの信仰をねりきよめてくださって、ひとりひとりを強くあらしめてくださって、やがて与えられる解放の時に備えさせてください。その時まで、体は離れていても、互いに励まし合い、忍耐できるようにさせてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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