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2019. 07. 23  
主日の午後から昨日まで、日曜学校のお泊り会が行われました。

みんなで会堂ではしゃいで寝泊まりし、エントランスで流しそうめんをしたり、大変楽しい二日間でした。

夜には礼拝と、それぞれの賜物を持ち寄った演奏会をして、神さまに音楽と賛美の歌声をささげました。

子どもたちと分かち合ったのは、Ⅰヨハネ3:1の御言葉です。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、よく考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」


罪の子であった私が「神の子」とされたということ、このことがどれほどありがたいことか。

アメリカで、虐待を受け孤児院に送られたひとりの少年が、あたたかなキリスト者の家庭に受け入れられ、「愛される」ことの喜びを知って再生していったという証しを、分ち合いました。

大変に傷つき、心を閉ざしていた少年でしたが、神の家族の祈りと愛が、闇に勝ったのです。

そんな物語は、きっと他にもたくさんあることでしょう。

イエス・キリストの贖いによって「神の子」とされた人々が、愛に満ちる神の家族のまじわりの中に、傷ついている人を招いていく。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、よく考えなさい」と、ある意味では、厳しく命じられています。

「よく考えなさい!!」どんな時も、このことを忘れることなく、一番大切なこととして覚えていなさい。

「神の子」としていただいたのだから・・・。神は、わたしたちの父でいてくださる。どんな時も、私は神に愛されている。

そのことのありがたさを、よく考えなさい。

よく考えるならば、私たちが今日なすべきことも、おのずと分かってくるのだと思います。


共に祈りましょう。

主よ、子どもたちを祝福して下さって、夏休みの間に豊かな成長が与えられますように。成熟し、年を重ねた者をも、あなたの子どもとしてのびやかにお育てくださり、信仰と希望と愛にいよいよ深まらせてください。

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2017. 07. 21  
日曜日に与えられた「あなたは高価で尊い」という御言葉と共に過ごしてきました。

日曜日の礼拝説教の後で、「自分はこういう言葉で子育てをしてこなかった・・」という反省を伝えて下さった方もいました。

そのような反応があることは想像してませんでしたが、神様は本当にそれぞれの方に、それぞれに語りかけられ、心を耕していかれるのですね。

神様から愛していただく喜びを知ることで、わたしたちは自分自身の大切さを知り、隣人の大切さを知ります。

そして、どのように愛すればいいのかということも、学ぶのですね。子どもへの向き合い方も、そうやって学ぶものなのだと思います。


考えてみれば、人類というのは常に神様に対して、反抗期のすね者なのですね。

しかしそのような者たちを、神は忍耐をもって待ち、捜し、そしてすべてを赦し、「あなたは高価で尊い」と、尊厳を回復させようとしてくださいます。

そのために、独り子キリストの尊い命を犠牲に差し出してくださったのです。

こういう神の愛を知ったからこそ、自分もまた同じように誰かを愛してみようと、愛は動き始めます。

しかし、そうして愛されたように愛してみようと思えば、その難しさもまたすぐに分かります。相手のあることですから、こちらのシナリオ通りにはいかないのです。

自分の内には愛が足りないと、がっかりもします。子どもたちに苛立ってばかりで、自分にがっかりしているお母さんもいらっしゃることでしょう。

でも、がっかりすればするほどに、主が与えて下さった愛の深さ・広さ・大きさ・高さに気付かされ、もう一度わたしも愛してみようと励まされる。そんなことの繰り返しなのだと思います。

Ⅰヨハネ4:10の御言葉を思い出さずにいられませんね。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」


共に祈りましょう。

主よ、愛するということはどういうことなのか、あなたから教えていただいたことを感謝いたします。わたしの内に、確かに愛された記憶があって、愛したいと願う思いが与えられたこと・・、この小さくて、でも奇跡でしかない変化をあなたが与えて下さったことに、心から感謝します。






2016. 12. 01  
イエス様の足跡に、自分の足を重ねてみるたびに、わたしのために苦しんでくださったキリストの愛が、いよいよ深く心に迫ってくるようになるのです。

これが、クリスチャンの「恵み」であります。

先主日の説教原稿は、こういう言葉で締めくくられていました。


イエス様の足跡に自分の足を重ねるとは、真実に神と人を愛された主イエスにあこがれて、主のように生きたいと願って生きていくことです。

「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙Ⅰ2:6)」

イエスが歩まれたように自らも歩む。

今日の一日を、本気でそのように生きてみませんか。

みんなそれぞれ性格も違いますから、その歩み方にはバリエーションはあると思います。

でも、私たちそれぞれの、主との一対一の垂直の関係において、真剣勝負で、本気で取り組んでみる一日にしましょう。


イエス様の足跡に、自分の足を重ねてみるたびに、わたしのために苦しんでくださったキリストの愛が、いよいよ深く心に迫ってくる。

これは、クリスチャンになって20年、私が本当に実感していることなのです。


共に祈りましょう。

主よ、ののしられてもののしり返さず、自分を十字架にかけようとする、その罪人たちの贖いのために、十字架の道を歩んでくださったあなたを、私の主とすることが赦された幸いを感謝します。あなたとの命の結合を強く深くしてください。私たちの内で、あなたがすべてにおいてすべてとなってください。

2016. 03. 10  
ゲツセマネの祈りにおけるイエス様の御苦しみについては、はっきりと聖書が記していますから、みんな考えます。

しかし、その祈りを聞いておられた父なる神の苦悩について、考察している人はあまりいないようです。

私の乏しい知識の限りでは、そのような考察は聞いたことはありません。その理由としては、聖書がそのことについて沈黙しているからでしょう。(※ また、教理史的には、御子ではなく父なる神ご自身が十字架にかかられたのだとする「天父受苦説」という異端に近づくことへの警戒があるのでしょう)。

聖書が沈黙していることを大きく扱うのは、私のいつもの流儀ではありません。

しかし、今回の解き明かしに際しては、どうしてもその黙想から離れることができませんでした。

たとえば、あの創世記22章で、アブラハムが神の試みによって息子イサクをささげようとする時に、教会が考えてきたのは、アブラハムの苦悩です。

実は、そのことについても聖書は沈黙しています。でも、先人たちは、アブラハムの苦悩を考えずにはおれなかった。

最愛の息子をささげようとするということの、筆舌に尽くしがたい葛藤を思わずにはいられなかったのです。

あの時、結局アブラハムは、イサクをささげなくてすみました。あの時神は、「あなたはわたしのために息子さえ、あなたのひとり子さえ、惜しむことをしなかった。(創世記22:12)」とおっしゃって、アブラハムの信仰と従順を認めてくださいました。

しかし、私たちの罪の赦しのために、ひとり子さえ惜しむことをしなかったのは、本当は父なる神ご自身なのです。

そこにどれほどの葛藤と苦悩があったことでしょう。

「できることなら、この杯を遠ざけてください・・」と訴える、ひとり子の祈りを、胸がつぶれる思いで聞いておられたのではないでしょうか。

しかし、それでもなお、父なる神は、私たち罪人を救おうとするご意志を変えることなく、救いの計画を全うされました。

それが、神の示してくださった、契約に対する真実です。

Ⅰヨハネ4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とは、その深みにおいて理解すべきでしょう。


共に祈りましょう。

主イエス・キリストにおいて、私たちの父ともなってくださった父なる神よ。御子を与えてくださったあなたの愛を、ただ信頼いたします。私もまた、あなたへの信頼と従順に、誠実を尽くすことができますように。
2015. 07. 30  
「隣人を自分のように愛しなさい」という教えこそが、最高の律法だと学びました。

しかし、その際に大前提となっているのは、「神を愛しなさい」という教えです。

どの掟が最も重要かという問いかけに対して、イエス様はこう答えられました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37-38)」


第一、第二とありますが、第一を優先すべきというよりは、両者には生命的な連続性があると考えるべきでしょう。

神への愛が無くても、隣人への愛があればそれでいいのだとする教えは、聖書にはありません。

同時にまた、神と自分だけの関係に没頭して、隣人のことが視野に入ってこないような信仰も、聖書の教えるところではありません。

神を愛するならば、必ず隣人をも愛し始めるのです。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者はみな、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(Ⅰヨハネ4:7-8)」


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたを愛することができますように。あなたに愛していただいている、自分のことを大切にすることができますように。あなたが与えてくださる隣人との出会いを、大切にすることができますように。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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