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2015. 06. 25  
日曜日の説教では、イエス様を神殿から追い出そうとした祭司長たちの姿に学びました。

彼らは、自分たちこそ神殿において権威を持つ管理者であると自負していました。

ですから、「ここにはほんとうの神礼拝がない」と改革を迫るイエス様のことが、断じて許せません。

神殿の真の主人はイエス様なのですが、その権威を認めようとせず、その教えにも耳を傾けようとせず、かたくなな心で追い出そうとするのです。

私たちもまた、イエス様をこの心から追い出そうとしてしまう「かたくなさ」を抱えていないでしょうか。

私は私自身の支配者ではなく、私の真の支配者はイエス様なのに・・・。


「かたくな」であってはならないと、聖書には繰り返し言われています。

特に今朝は、エレミヤ18:11-12の御言葉が胸に迫ります。

「今、ユダの人々・・に言うがよい。『主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちはみな、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。』彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。」


私たちは、自分の「思いどおり」にふるまおうとするならば、必ず神を悲しませてしまいます。残念ながら、そういう「悪い心」しか持っていないのです。

イエス様を、この心から追い出そうとせず、その教えに真剣に耳を傾け、心を作り変えていただく。

今日も、そのように願って、共に祈りましょう。


主よ。私の支配者よ。どうか、このかたくなな心を砕いてくださって、あなたが様々なかたちで与えてくださる警告に、真摯に耳を傾け、あなたの御心に生活を沿わせていくことができますように。どうか、今日も私たちを聖化してください。
2015. 06. 18  
今日も、不信仰の山を動かしてください、実を結ぶイチジクにならせてくださいと祈りましょう。

聖書には、「実を結ぶ」という比喩がとてもたくさん用いられます。

例えば、エレミヤ17:5-8にはこうあります。

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は
彼は荒地の裸の木・・・

祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り・・・実を結ぶことをやめない。

主に信頼する人は、みずみずしく、白髪になってもなお実を結びつづけ、命にあふれ、いきいきとします(詩篇92:15)。

それは、「人間」の力では不可能です。私たちの努力と修練が、実を結ばせるのではありません。

本当に修練を重ねた人は、そういう己れの無力、限界というものを悟るものです。人間には信頼できません。

しかし、人間にはできなくても神にはできる。だから、祈るのです。主に信頼し、祈るのです。

いやむしろ、主に信頼することができるようにというところから、祈り始めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに信仰と希望と愛を与えてください。どうか、豊かに与えてください。あなたと共に生きる喜びを、まだ私たちはほんのわずかしか知りません。主よ、実を結ぶ喜びを教えてください。
2014. 07. 03  
誓約の6か条についての学びも、ひと段落しました。

引き続き、信仰入門のためになにか?と考えていたところ、芳賀力という先生の「大いなる物語の始まり」というすばらしい本に出会いました。

これから数ヶ月、そこに書かれていることを順番に紹介していこうと思います。

******
昔流行った「ソフィーの世界」という哲学入門のための本があります。

その冒頭、ソフィーのもとへ一通の手紙が届きます。「あなたはだれ?」と書かれた手紙。

ソフィーは「わたしっていったいだれなんだろう?」と考え始めます。

古代から現代にいたるまで、人間というのはこういう問いを問わずにはいられません。

でも、「わたしは七宝町の坂井家の長男で、三人の子の父親で、牧師で・・・」などと、自分を取り巻く狭く小さな「ストーリー=物語」の中でだけ考えていると、自分の本当の姿を見失ってしまいます。

聖書に記された「神の大いなる物語」を知り、その中の登場人物の一人として、自分自身を「読み直す」時に、本当の答えは見えてきます。

人生は、自分を本当に活かしてくれる、より大きな物語といかに出会うかによって決まります。

聖書は、この小さなわたしたちを活かす、「神の大いなる物語」を提供しようとしている書物です。

エレミヤ33:2-3を読みましょう。6月のあいだ、ずっと礼拝の招きの言葉で読まれていた言葉です。

「主はこう言われる。創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主。『わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」


共に祈りましょう。

主よ、私たちの今日という一日、今この一瞬も、あなたの永遠のご計画の中で、意味あるものとして豊かに用いてください。
2013. 11. 14  
今日は、ただ自分自身のために、エレミヤ書の1章を読み返しています。

神学生として悩みの中にあった時、4~8節の言葉を通して、牧師として立つ勇気を得ました。

今日は特に、5節だけ紹介します。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」

エレミヤのような大預言者の召命と、私の召命は違います。でも神は、私のことも同じように、生まれる前から知っていてくださって、クリスチャンとして、そして牧師になるようにと、選んでいてくださったんだなと、この言葉から教えられました。


どうしてこんな私が、神学校になんか来てしまったのだろう?来てよかったのだろうか・・?

自分の内面的な大きな欠けに悩み、同時に働きの困難さから逃げたくなっていましたが、「これは神が私に用意しておられた道なのだ」と、覚悟して受け入れることにしました。

神に選ばれた、・・・それだけが私のよりどころです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちを創造し、選び、こうしてあなたとの出会いへと導いてくださいました。あまりにも不思議な導きを思い起こします。この先の道も、あなたが導き開いてください。
2013. 11. 01  
クリスチャンではない私の父は、しばしばこのように言います。

「宗教というのは、結局は弱い人間がすがりついているものだろ」

私は、こういう声に、無理に反論しようとはしません。

聖書を学べば学ぶほど、確かに父の言うとおり、私たちは「弱さ」の中で、イエス・キリストの助けにすがりついているのだなと、つくづく思わされるからです。

私の父の声は、そういう「弱さ」を克服できないことを恥とする感覚から出てくるのでしょう。

でも人には、自分の「弱さ」を覚えずにいられない時が必ず訪れます。

面白いことにヘブライ語においては「病気になる」とは「弱くなる」ことです。

きっと昔からたくさんの人が、病気になることで初めて打ち砕かれ・・・、

罪深く、神にすがりつくよりないおのれの根源的な「弱さ」を、思い知らされたのでしょう。

「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。(エレミヤ17:14)」

神がいやしを望まないなら、どうあがいたって、いやされない・・・

人間なんて、無力なのです。だから昔から、人は神にすがりついてきたのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちに命も死も与えられる方。救いも破滅も与えられる方。あなたの前で、まことに無力な私たちを、どうか憐れんでくださって、今日も平安のうちにお守りください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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