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2016. 02. 20  
皆さんもすでにニュースなどでご覧になったと思いますが、昨日、佐倉の王子台チャペルで立てこもり事件がありました。

勝田台教会から近く、女性カウンセラーの方とは交遊もありましたので、私も大変驚き、胸を痛めています。

罪の世に遣わされている教会ですから、このようなことはいつでも起こりえるということを、改めて覚えさせられました。なにより、王子台チャペルの方々のために祈ります。

*****
今週の私の歩みに、永遠の光をもたらしてくれた御言葉を紹介します。エレミヤ29:11-14です。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」


人間の動きにばかり心が囚われてしまっている時というのがあります。そんなときは、自分の道を見失い、姿勢もどんどん崩れていきます。

でも、神のもとには、「平和の計画」があり、神の目には、私の「将来と希望」が見えています。

ただ、そのことを信じればいいのです。

ただ神を呼ぶということを、思い出すのです。

心を尽くして、神に祈り求め、たずね求める。そして、神に出会わせていただく。そのことに集中する。

そこから先は、私のための「平和の計画」にしたがって、神が最善を備えてくださいます。

もう、人間のことをくよくよ考えるのはやめよう。恐れなくていい・・。そんな風に、心が整えられた一週間でした。


共に祈りましょう。

主よ、罪と悲惨に満ちたこの世にあって、キリストに従いゆく道の危険や苦悩にも気づかされています。主よ、傷ついた人々をいやしてください。主よ、あなたの憐れみに、すべてをおゆだねいたします。あなたを近くに覚えさせてください。
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2015. 07. 21  
今週は日曜学校のお泊り会もあり、明日からの配信はお休みさせていただきます。

日曜日のウェルカムチャーチデーには、「私の魂のよりどころ」はどこにあるのか、立ち止まって考える時が与えられました。

エレミヤ17:7-8に、こういう御言葉があります。

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木・・・実を結ぶことをやめない。」

聖書においてご自身をあらわしてくださる、主なる神を信頼しなさいと招かれています。

この神は、「わたしこそが神、救うことのできるのはわたしだ、他にはいない(イザヤ45:21など)」と言われます。

天地万物を創造し、秩序を与え、導かれる大いなる神です。

イスラエル民族をエジプトから救い、バビロンから救われる救い主である、歴史を導かれる主権者です。

人間に信頼してはいけない、主なる神に信頼しなさいとエレミヤは伝えます。

人間は本当に草にすぎないものです。どんな権力者も無力です。自分もそうです。無力です。弱い人間がいつもいます。その弱さを、人間が助けることはできません。

その事実に気付くと、落ち込みます。空しくなります。でも、そうして人間を悟るところで、神への信仰が立ち上がるなら幸いです。

主が私のよりどころとなってくださる。なってくださっている。この霊の事実を悟ることができるならば幸いです。

個人的なことですが、私は今朝、そのような幸いへと導かれました。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、あなたを知り、あなたに信頼することを教えられた私たちは幸いです。主よ、一人一人に用意されたあなたの平和のご計画を信じます。年老いた方々を、若い方々を、大いなる御手で今日も守り支えてください。
2015. 06. 26  
先主日の説教では、イエス様の教えにまっすぐ向き合おうとしないでごまかした、祭司長たちの姿に学びました。

思い出したのは、このエレミヤ42:20-21の聖句です。

「あなたたちは、致命的な誤りを犯そうとしている。『我々のために我々の神である主に祈ってください。我々の神である主が語られることを知らせてくださるなら、すべてそのとおりにします』と言って、わたしをあなたたちの神である主のもとに遣わしたのは、あなたたち自身である。そこで、わたしが今日それを告げたのに、自分の神である主の声を聞こうとせず、主がわたしを遣わして語られたことを全く聞こうとしない。」

これは、バビロン捕囚の時のこと。生き残った者たちは、エジプトに逃げたいと思いつつ、悩みました。

そこで、預言者エレミヤに頼んで、神様に祈って聞いてもらいました。

エレミヤは、「エジプトに行ってはならない、かえって危険だ」との神様の警告を伝えました。

しかし人々は、その神の声にまっすぐ向き合おうとせず、ごまかしました。

結局は人間的な判断を優先して、エジプトに逃げました。その結果、警告どおりの悲劇になりました。

聞きたくない御言葉を、聞かなかったことにしてごまかした結果、そういうことになったのです・・。

私たちが、そのようにしない者であれますように。


共に祈りましょう。

主よ。今日それぞれに与えられるあなたからの教えに、ちゃんと向き合い、ごまかすことなく応えていくことができますように、私たちの心を整えてください。自分に都合のいいことばかり聴こうとする、私たちの耳を清めてください。
2015. 06. 25  
日曜日の説教では、イエス様を神殿から追い出そうとした祭司長たちの姿に学びました。

彼らは、自分たちこそ神殿において権威を持つ管理者であると自負していました。

ですから、「ここにはほんとうの神礼拝がない」と改革を迫るイエス様のことが、断じて許せません。

神殿の真の主人はイエス様なのですが、その権威を認めようとせず、その教えにも耳を傾けようとせず、かたくなな心で追い出そうとするのです。

私たちもまた、イエス様をこの心から追い出そうとしてしまう「かたくなさ」を抱えていないでしょうか。

私は私自身の支配者ではなく、私の真の支配者はイエス様なのに・・・。


「かたくな」であってはならないと、聖書には繰り返し言われています。

特に今朝は、エレミヤ18:11-12の御言葉が胸に迫ります。

「今、ユダの人々・・に言うがよい。『主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちはみな、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。』彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。」


私たちは、自分の「思いどおり」にふるまおうとするならば、必ず神を悲しませてしまいます。残念ながら、そういう「悪い心」しか持っていないのです。

イエス様を、この心から追い出そうとせず、その教えに真剣に耳を傾け、心を作り変えていただく。

今日も、そのように願って、共に祈りましょう。


主よ。私の支配者よ。どうか、このかたくなな心を砕いてくださって、あなたが様々なかたちで与えてくださる警告に、真摯に耳を傾け、あなたの御心に生活を沿わせていくことができますように。どうか、今日も私たちを聖化してください。
2015. 06. 18  
今日も、不信仰の山を動かしてください、実を結ぶイチジクにならせてくださいと祈りましょう。

聖書には、「実を結ぶ」という比喩がとてもたくさん用いられます。

例えば、エレミヤ17:5-8にはこうあります。

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は
彼は荒地の裸の木・・・

祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り・・・実を結ぶことをやめない。

主に信頼する人は、みずみずしく、白髪になってもなお実を結びつづけ、命にあふれ、いきいきとします(詩篇92:15)。

それは、「人間」の力では不可能です。私たちの努力と修練が、実を結ばせるのではありません。

本当に修練を重ねた人は、そういう己れの無力、限界というものを悟るものです。人間には信頼できません。

しかし、人間にはできなくても神にはできる。だから、祈るのです。主に信頼し、祈るのです。

いやむしろ、主に信頼することができるようにというところから、祈り始めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに信仰と希望と愛を与えてください。どうか、豊かに与えてください。あなたと共に生きる喜びを、まだ私たちはほんのわずかしか知りません。主よ、実を結ぶ喜びを教えてください。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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