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2014. 04. 05  
日曜日には、地上の家族の絆にまさる、「神の家族」とされる喜びを確認しました。

イエス・キリストによる和解ととりなしゆえに、私たちは神から、「怒り」ではなく「愛」を受けます。

それは、神から「子」と呼んでいただくほどです(Ⅰヨハネ3:1)。

神に「アッバ(=お父ちゃん)」と呼んでも、ゆるされるほどです(ガラテヤ4:6)。

孤児を養子として引き取る、それは本当に労苦多い、大変な愛の業です。

神は、そのような「愛」をもって、わたしたちを養子として、「神の家族」に迎えてくださいました。


「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3:26~29)」

わたしたちは「神の子」とされ、「キリストを着ている」・・。

なんだか、お兄ちゃんであるイエス様のお古を着させていただいたような、なつかしさです。



共に祈りましょう。

アッバ父よ、あなたの子とされたことを喜びます。誇りに思います。あなたに育てていただいて、本当に感謝です。

お父さん、今日も私を見守っていてください。また私の兄弟姉妹を、生きる時も死ぬ時も支え励まし、永遠の命に導いてください。
2014. 01. 11  
日曜日の御言葉に立ち返り、「隣人を自分のように愛する」ことに思いを向け、ガラテヤ書の言葉に聞きましょう。

分かりやすい翻訳で引用してみますので、できれば、お手元の聖書も開いてみてください。

「兄弟たち。あなたがたは、本当の自由を与えられるために救われたのである。その自由を、肉欲のために使わないで、お互いに愛し合い、仕え合うために使いなさい。

律法全体は、一言で言えば、「自分を愛するように、自分の隣人を愛しなさい」ということになる。

お互いにののしり合ったり、憎み合ったりしていれば共倒れになってしまう。だから、気をつけなさい。(ガラテヤ5:13-15)」


私たちは、今や戒律に縛られていません。

だから、隣人を愛せない者は救われない、とは教えられていません。たとえ、ののしり合い、憎み合っても、ごめんなさいと悔い改めれば、神は赦してくださいます。

大変虫がいい話ですが、それが福音信仰です。

「これをしてはダメ、あれをしなきゃダメ」という戒律主義からは、自由にしていただいたのです。

しかし、パウロは教えてくれます。「その自由を、愛し合い、仕え合うために用いなさい。」

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。

同時に、キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。(宗教改革者ルターの「キリスト者の自由」より)」


共に祈りましょう。

主よ、今週の自分を振り返る時に、キリストが与えてくださった自由の上にあぐらをかいて、悪しき思いにも引きずられていました。どうか赦してください。そしてどうか、自由で崇高な愛へと、この貧しい者を引き上げてください。
2014. 01. 03  
この2014年のはじめに、ジュネーブ教会教理問答の問172が、心の中でリフレインしています。

「問172:霊的安息とは何ですか。答:それは、主がわたしたちのうちで御業を行うように、わたしたち自身の働きを止めることです。」

神が働いてくださるのを待って、その活躍の舞台を空けるようにして、「わたしたち自身の働きを止める」・・・。

そのようにして、神への完全な信頼をもって、すべての手を止めて静かにする時・・・、人知を超えた「霊的安息」に満たされます。

 

2013年の歩みを振り返る時、あまりにも「わたし」が前に出てしまって、神を見失い、しばしば「安息」を失っていたと反省しています。

「わたし」の策略、計算、好き嫌い、怒りや憎しみ、悲しみ、絶望、責任感、焦燥感・・・

そういう「わたし」をふさわしく棄てることができる時、キリストが、「わたし」の代わりにわたしを生かしてくださるのでしょう。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」

2014年に、この言葉を少しでも自分のものにしていきたいと願うのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしのキリストよ、わたしのすべてにおいてすべてとなりたまえ・・・。この一年、ただあなたと心を一つに、あなたに信頼し、いつまでも安息の中で歩むことができますように。
2013. 12. 20  
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。

しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、

なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(ガラテヤ4:8-9)」


「神を知らずに、神でない神々に仕えていた」・・・まさに私たちのことです。

占い、おみくじ、初日の出、破魔矢・・、年末年始には、そんな「神々」の因習をいつも以上に覚えます。

そのほかにも、「神々」の中には、「マモン(=富)」や「どん欲」、「人間の思想」といったことも含まれます。

そういう「神々」すなわち「支配する諸霊」のことを、「この世の小学」だと、黒崎幸吉という先生は翻訳します。

「小学」、それは人間として幼稚な、初歩の段階ということでしょう。

そんな、無力で頼りにならない「この世の小学」に逆戻りしてはならない。わたしたちはまことの神を知っているのだから・・・。

しかし、わたしは神を知っている「大学」で、未信者は「小学」だと蔑むのは間違いです。

大事なのは、「いや、むしろ、神から知られているのだから」という言葉です。

ただ神の恵みによって、神にこの小さな存在を知っていただき、神と深く知り合う特別なステージに招かれた、

この喜びに堅く立って、逆戻りしないようにしたいものです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もこの小さな者の一日があなたに知られ、あなたに愛されていることを感謝します。今日も悪の諸霊の脅威から私たちを守ってくださり、心を強く高くさせてください。

※ 明日の早朝、ホームレスミニストリーに出かけます。お祈りください。

2013. 08. 03  
来週から、キャンプの日々と夏休みとで、配信をお休みさせていただきます。

また、9月から再開となります。しばらくの時、それぞれに御言葉と向き合う時間が保たれますように。

特に、今試練の中にある方々が、絶えず主の声に耳をすまして、勇気を得ることができますように。


******
今、1532年のベルン教会会議で表された教理箇条を読んでいます。

そこに、子どもたちへの信仰教育に関する、こういう言葉があります。

「・・・しかし、キリストがまずわれわれ自身の心に浮かび生きることに、あらゆる努力をふり向けるとき、最も実り多いものになろう。その時には、われわれの情熱が、ほどなく子どもたちの感じやすい心を温めることだろう。」

勉強がとても大事であることが前提です。

でも、まず「キリストがわれわれ自身の心に浮かび生きること」がなければ、何も伝わりはしない。



「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」

こう叫んだパウロほどに、生けるキリストの迫力を覚えたことがあるでしょうか?

主は今も生きておられ、わたしの中に、新しい命を創造しておられます。

どこまでも前を向く希望を、決して悪に負けない魂を、不屈の信仰を、無限の愛を、生み出していてくださいます。

わたしがキリストの中に生き、キリストがわたしの中で生きていてくださる。

この生ける主のリアリティさえあれば、どんな時でも大丈夫です。

明日の聖餐式には、そんな生けるキリストに出会う覚悟で臨んでください。



共に祈りましょう。

愛する主よ、あなたは今日も生きておられ、宇宙のすべてを支配し、このわたしの内にも恐るべき力を働かせていてくださると信じます。あなたと共に今日も生きます。主よ、この心を燃やしてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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