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2016. 12. 06  
日曜日にはペトロの手紙Ⅰ2:22-25を分かち合いました。

24節にはこうありました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」


面白いことに、ここでの「十字架」というのは意訳でありまして、原語では「木」という字です。

「木にかかってくださった」というのです。

思い出しますのは、ガラテヤ3:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている(申命記21:23)』と書いてあるからです。」

このように、キリストが「木にかけられた」とは、私たちに向けられていた神の怒りと呪いを、ご自身にまったく引き受けてくださったということです。

神の怒りや呪いということを聞いてうれしい人はいないでしょう。だから、敬遠されがちです。

私たちの不信心と不義に対する神の怒り(ローマ1:18)ということ、そしてその怒りゆえの呪いのすさまじさを理解しないと、十字架の贖いの恵みというものが際立ってきません。

あの主の十字架のお姿には、すべての罪人の身代わりとなって、神の呪いをひとりで受けきってくださった方の惨めさがあるのです。

その死によって私たちには、「罪に死んで義に生きる」という命の道が開かれました。

それについては、また明日分かち合いましょう。


共に祈りましょう。

義・聖・善なる神の御名をあがめます。あなたから見て私たちの姿は、どれほど汚らわしいことでしょう。しかし今や、ただキリストを信じるがゆえに、あなたからの呪いではなく、祝福の中で生かされているということを、心から感謝します。主よ、この祝福を今日も深く味わわせてください。
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2016. 11. 25  
「キリスト者の自由」ということを考えるのに欠かせないのは、宗教改革者マルチン・ルターの代表的著作『キリスト者の自由』です。

その冒頭に、次に記します大変有名な命題がかかげられています。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」。

つまり、キリスト者は「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」というのです。


このようなルターの言葉を支える根拠は、ガラテヤ5:13-14の御言葉です。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」

自由にされたその魂と肉体を無駄に用いるのではなく、「愛によって互いに仕え合う」という崇高なキリストの教えのために用いなさいと言われています。


誰からも支配されず、誰をも支配しない・・、自由な独立した魂を持つ人は、そのように生きます。

そして、「誰かを愛する・仕える」とは、もっとも自由な魂にしか、なすことのできないことです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはまことに不自由です。互いをけん制し合い、信頼できず、愛し合うことができません。仕えることを望まず、自分を捨てることのできない者でもあります。主よ、御赦しください。そして、「キリスト者の自由」をよく分からせてください。



2016. 11. 24  
聖書において、「自由にされる」とは、罪の支配から自由にされるということです。

そして、神様に従うことができるようになるということです。

以前は憎しみやねたみでいっぱいだった私が、愛することができるようになるということです。

以前は悪を行うことに躊躇がなかった私が、それはダメだと思うようになり、戦い、葛藤し、そして正義を行うことができるようになるということです。

そういう罪深い思いが、きれいになくなってしまうわけではありません。でも、もう支配はされません。

キリストが自由にしてくださったからです。

今や私たちは、罪の奴隷ではなく、誇り高き神の僕です。

この世の法則には縛られません。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんて言われたって、もう影響はされません。

まったく自由な、独立した魂をもって神に従う。それがクリスチャンというものです。

ガラテヤ5:1「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」

ローマ6:17-18「・・神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、・・罪から解放され、義に仕えるようになりました。」


共に祈りましょう。

主よ、キリストの十字架の血と引き換えに買い取っていただいた、私たちの魂の値打ちの高さを、私たち自身でおとしめてしまうことがありませんように。どうか今日の日に、自由な独立者として、神の僕としての歩みをなさせてください。
2015. 03. 03  
先の日曜日に、すべての者が、完全に義なる神の御前で、最下層の卑しい「罪人」として平等であるということを、お伝えしました。

人間の目には、神様のなさることは時に、不平等のように思えます。

財産を多く与えられる者もいれば、そうでない者もいます。しかし、だれもが神の御前で「罪人」として裁きを免れないという点では、完全に平等であるとお伝えしました。

しかし、これだけではやはり十分ではありませんし、誤解を招くかもしれません。

加えて覚えるべきは、キリストのもとでの万人の「信仰における平等」です。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。・・・そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:26-28)」

私たちと同じ最下層へと、自らくだって、最も卑しい姿で十字架にかかってくださったイエス様を「信じる」なら、誰もが等しく神の子とされ、高く上げられます。

神の国における、そういう神の子たちの平等が、地上において、とりわけ教会において具現化されることを願いましょう。


共に祈りましょう。

主よ、あなたのもとで、すべての者は罪人であり、またすべての者が憐れみを受けていることを覚えます。そのことをわきまえずに、色んな差別を繰り返して、傷を広げる私たちの時代を、どうか赦してください。私たちの内に、平等な世界を実現してください。
2014. 04. 15  
今週は受難週です。伝統的に教会におきましては、キリストの十字架の苦難を思いながら、自らの罪を悔い改める時としてこの受難週を過ごします。

イエス様の十字架の死は、「神の御前に呪われた死」であったことを覚えましょう。

残酷ということなら、もっと残酷で悲惨な殺され方はありました。

そういうことよりも、それは呪われた死に方だと聖書に書かれている、これがポイントです。

ハイデルベルク問39にもあります。

「その方が『十字架につけられ』たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。」

「あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを、ご自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。」

二つの聖句を確認しましょう。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)」

「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。(申命記21:23)」


共に祈りましょう。

全能の神よ、あなたから呪われる人生とは、いかに惨めなことでしょう・・。木にかかって死んでくださった、主イエスの犠牲を必要とする私たちの深い闇を、見つめ直すことができますように。聖霊のよき導きをお与えください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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