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2015. 05. 22  
昨日、姉妹方と読書会で、カルヴァンの「信仰の手引き」にある、祈りについての教えを分かち合いつつ、ダニエル書9:1-19節の、ダニエルの祈りに心を合わせました。

それは、私たちの持つ祈りのイメージとは全然違うかもしれない、自らの民族の罪をとうとうと想起し、「わたしたちがダメだったのです・・・」と、ただひたすらに、神に向き合い、自分に向き合って言葉をつむいでいました。

「祈りとは、こういうことでもあるのですね」という発見があったようです。

祈祷会での共同の祈りや、礼拝での祈りなどの、形式にとらわれてしまうと、祈りの本質を見失ってしまうかもしれません。

「祈りとは、神と私たちとの間の語り合いのようなもので、これによって私たちは神に、自己の願い、喜び、嘆き、要するに心の思いのすべてを申しのべるのである」と、カルヴァンは教えてくれます。

「心の思いのすべて」をさらそうとすると、ダニエルのように、「わたしはダメです・・、ごめんなさい」という言葉ばかりになってしまう時もあるかもしれません。

すべてを知っておられる神の前では、それでいいのです。

そして、そうしてすべてを申しのべると、神様に願わざるを得なくなると思います。赦してください。助けてください、と。

ダニエルもそうでした。今朝、共にこの祈りに心を合わせましょう。

「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、ご自身のために、救いを遅らせないでください。(ダニエル9:18,19)」
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2013. 12. 14  
昨日に続き、「希望を告白する夜2」で受け取ったメッセージをお分かちします。

ダニエル書9:4-19には、ダニエルの祈りが記されています。

それは、バビロン捕囚という神からの裁きを引き起こした、民族の罪の告白に始まります。

「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名によって・・・語ったのに、それに聞き従いませんでした。(5,6節)」



ダニエルといいますと、その少年時代より、決して屈することなく神信仰を守りぬいた、信仰の英雄のイメージが強くあります。

しかし、なにが彼をそうさせたのかを考えますと・・・「もう二度と繰り返してはならない」という意識が強くあったのだと、彼の祈りから気付かされます。

「私たちは、かつて決定的に神に背いて破滅した。だから、もう二度と繰り返してはならない!」

それが、ダニエルの信仰の戦いの原動力でした。

私たち日本人も、かつて決定的な過ちを犯し、国が廃墟となりました。

私たち日本のキリスト者の主流派は、決定的に神の御心を裏切り、戦争に加担しました。国家権力に抗うことなく、神社参拝も行いました。

・・・もう二度と繰り返してはならない。そんな思いを、共有できれば幸いです。




共に祈りましょう。

主よ、決定的に間違ってしまった私たちが、ただあなたの憐れみによって、荒廃から回復させられたことを思い、今、心から感謝します。どうか主よ、二度と過ちを繰り返さないように、私たちをしっかりさせてください。
2013. 12. 13  
昨晩の「希望を告白する夜2」においてなされた、山口陽一先生のメッセージから心に残ったことを、今日明日と皆さんにもお伝えします。

ダニエル書6:10(新改訳)から解き明かしがなされました。

「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。──彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。──彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

「その文書」とは、ダニエルをねたむ大臣らの陰謀によって作成された、ダニエルを陥れるための法律です。

ペルシア王以外の人間や神に願い事をする者は、獅子の洞窟に投げ込まれるという、悪法です。

ただ主なる神のみを信じるダニエルにとっては、まさに絶体絶命です。

しかし彼は、その法律が制定されても、いつもとまったく同じように、ひざまづいて神に祈り、感謝を表します。

彼のひざが祈りを覚えている、と山口先生は表現されました。

私たちも、どんな困難な時代が到来しようとも、いつもと同じように礼拝をささげましょう。

ダニエルの部屋がエルサレムに向かってあいていたように、わたしたちには、神への回路がいつも開かれています。

だから、神に向かって一生懸命祈るのです。

「祈ることしかできない」のではなく、祈ることこそが何より大切なのです。



共に祈りましょう。

ダニエルを獅子の穴から救い出したもう、恵みの主よ。あなたに信頼します。祈ること貧しい者たちです。このひざが祈りを覚えるまで、いつも変わることなく祈り続ける者にさせてください。

2012. 12. 13  
「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。・・・だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。(ダニエル3:24-25)」

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの迫害との戦いを、今日も覚えましょう。

燃え盛る炉に放り込まれた彼らが、少しの損傷もなく守られたと聖書は記録しています。

そのとき、迫害者ネブカドネツァル王の目には、四人目の「神の子のような人」が見えたようです。

その方は、三人が火の中に入れられるのを回避はなさいませんでした。また、そこから外に出されはしませんでした。

でも、その激しい試練の炎の中で共にいて、彼らが「自由に歩く」ことができるようにしてくださいました。

主は、私たちとも共にいてくださいます。

そして、どんな火の中でも、決して屈することない自由な心を与えてくださいます。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(詩篇23:4)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちは、あなたを信じるがゆえに火のような試練にさらされることを、覚悟して歩みます。どんな時も支え、励ましてくださって、魂がサタンに隷属してしまうことのないように、心を高く上げて歩ませてください。

私の愛する兄弟姉妹を、特にサタンの揺さぶりの中で心弱らされている者たちを、どうか慰め立たせてください。
2012. 12. 12  
「『シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。・・・もしも拝まないなら、ただちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。』

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。『このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。

そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。』(ダニエル3:13-18)」


ダニエル書は、その全体が、迫害と戦う者たちのための神からの激励です。

今日のところでは、バビロンの王から偶像礼拝を強いられたユダヤ人の少年3人の戦いが記されています。

深く印象に残るのは、「たとえ、そうでなくても」という言葉です。

主は必ず救ってくださる。でも、たとえ具体的な救出がなくても、私たちの主への信頼は微塵も揺るぎはしない、と言っているようです。

殉教者として有名なスミルナのポリュカルポスは、「キリストを呪ってみよ」との脅迫にこう答えました。

「わたしは86年間あの方に仕えてきましたが、あの方がわたしを苦しめたことなど一度もありません。それなのにどうして、わたしを救ってくださったわたしの王を冒涜することなどできましょう。」

今日も、私たちの王は、私たちを苦しめることなどありません。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる我らの王よ、今日起こり来るすべてのことが、あなたの支配の中にあることを信じます。あなたが、髪の毛一本さえ無駄に落ちないように、最善を備えてくださって、永遠の命に導いてくださることを信じます。主よ、今日も私たちを守ってください。

愛する兄弟姉妹を守ってください。特に、仕事を始めたばかりで疲れている者、心が沈んでいる者たちを励ましてください。




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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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