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2019. 09. 26  
次主日に分かち合われる2つ目の聖書テキストは、マルコ9:2-3です。

「六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

このイエス様の「変貌=メタモルフォーゼ」。

これは聖書の歴史において、特別な転換期にいつも与えられる超自然的な幻の、ひとつのあらわれです。

神様が三人の弟子たちに特別に見させてくださった光景です。

ペトロが書いたとされるⅡペトロ1:16から、こういう御言葉があります。

「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。

わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。

わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」

この出来事こそが、まさに今日の記事に記されていることです。

これは、イエスという方がまさに神が遣わされたメシアであって、力と権威に満ちた方であるということを明らかにしてくださった、特別な神からの啓示でした。

この救い主の命に結ばれた者は、やがて終わりの時に、彼と同じように「白い衣」を着せていただき(黙示録3:5、4:4、6:11、7:9など)、

「お前はわたしの愛する子。わたしの心にかなう、お気に入りの者。お前はわたしの宝!!」という、大いなる父の声を聞くのです。


共に祈りましょう。

栄光に輝く主イエスよ。あなたが今日も天にあって生きておられ、聖霊において私たちと共に歩んでくださる。そのことが、私の慰め、希望、勇気です。主よ、白い衣を着させていただくその日まで、この罪深い者を導き、きよめてください。
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2017. 09. 13  
先の日曜日の説教で、偽教師たちは「自由」ということを間違って教えていたと、申しました。

どうやら偽教師たちは、霊魂の救いだけが大事であって、それが確保されたのなら、あとはどのように生きてもかまわない。

いうなれば、本能のおもむくままに自由に生きればいいのだと、大雑把に言えばそういう教えだったようです。

でも、イエス様が教えて下さったのは、その「人間の本能」や「ありのままの心」というのが、罪によって腐りきっているということでした。


「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(創世記8:21)」

「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくる。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。(マルコ7:21-23)」


あまりに悲観的な人間観ですが、これが聖書が示している「罪人としての人間」の見方です。

その病んだ心の中からは、悪いものばかりが出て来て、自分自身を汚していく。

だから、ありのままの心でやりたい放題やっていいとは、とても言えません。それでは必ず、その人自身が汚れていくからです。


しかし、人間というのは本来そういうものではなかったのです。

本来は、特別なはからいをもって「神のかたち」に創造された、神の栄光をあらわす存在です。

イエス様は、そういう私たちの本来の姿を回復させてくださる方です。それが「救い」ということです。

そのために、罪に染まったこの病んだ心を、ゆるして、癒して、善い心につくりなおしていってくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはそんなに悪いものでしょうか。自分の心が病んでいることにさえ、なかなか気づけないものです。でもきっとそれが、罪に支配されているということなのでしょう。主よ、どうかこの病んだ心を、ゆるして、いやしてください。
2016. 04. 16  
熊本での余震が続いています。深夜3時前後にも大きな揺れがありましたが、確認できたかぎりでは皆さん無事のようでした。

昨日、熊本伝道所の西堀牧師からの安否を知らせる発信の中に、このような言葉もありました。

「『力を捨てよ知れ、、わたしは神、国々にあがめられ、この地であがめられる。』(詩篇46:11)

 次の礼拝説教を準備しているときに地震が来ました。

 個所はマルコ13章の最初の2つのペリコーペです。神の業を感じます。」


マルコ13章といえば、終末のしるしについてイエス様がお語りになったところです。

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(マルコ13:7-8)」

これらは産みの苦しみのはじまりであるという言葉に、希望を見いだしたいのです。

終わりの時の救いの完成を待ち望む私たちには、なおもこの地上世界での罪との戦いと、悲惨の経験が続きます。

たくさんの悲しみを味わわねばなりません。しかし、それは産みの苦しみです。

その苦しみの向こうに、希望の誕生が約束された苦しみです。


共に祈りましょう。

主よ、眠られぬ夜を過ごした者たちに、深い憐れみを注いでくださり、どうかその心身を支え励ましてください。主よどうか、打ちひしがれている者を、希望の光で照らしてください。
2015. 09. 03  
聖書において「祈る」とは、第一義的に、「一生懸命に神様のお声に心の耳をすます」ということだろうと、昨日確認しました。

そういう風に考えると、例えばマルコ11:24なども、今までとは違う響きをもってきます。

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

こういう言葉から、「願いどおりにならないのは、自分の祈り・信仰が足りないからだ・・・」と苦しい思いをされていませんか。

しかし、いくらお願いしても、うまくいくことばかりではないのです。

では、イエス様がウソをついているのかといえば、そうではなく、「祈る」ということについての私たちの理解が浅いのです。

むしろ、ここで「祈り求める」というのは、「神さま、あなたの御心とひとつにならせてください。私が今何をなすべきか、あなたが何をおっしゃりたいのか、私に分からせてください」と、求めることかもしれません。

そういうふうにして「祈り求める」ことは、必ずすべてかなえられる。

そのようにして、神との関係をしっかりと確立し、「神を信じなさい(マルコ11:22)」と、主は招いておられます。


共に祈りましょう。

主よ、今日も御前にひざまずき、私の創造主であり救い主であるあなたに、聞き従いたいと願います。主よ、あなたと共に歩ませてください。そこに私の平安があります。あなたの御心を行うことができますように。
2015. 09. 02  
耳をすまして神様の御声に聞くこと。これこそが、祈りということの基本的な姿勢といえます。

以下は、山浦玄嗣さんの「『なぜ』と問わない」という本より教えられたことを紹介します。

日本語において「祈る」とは、神仏の力にすがって自分に都合がいいことを願うという行為を指します。

古くには、「祈り殺す」などという言葉もあり、呪うと同じような意味さえ持ちました。

聖書において「祈る」と翻訳されるのは、四つのギリシャ語です。

1つは、エウロゲオー。これは、「神様はすばらしい!!」とほめる、賛美する。

2つは、エウカリステオー。与えられた様々な恵みを「ありがたい」と感謝する。

3つは、デオマイ。これが一番日本語の感覚に近い。「〇〇してください」と願う。

最後は、プロセウコマイ。これが一番多く用いられています(85回)。イエス様が山に祈りに行かれる時などです。

面白いことに、そういう箇所を、日本語の先入観を捨てて改めて読んでみると、「祈る」といっても何をしているのかはっきり分からないことの方が多いのです。

それはお願いというよりもむしろ、人間の雑音からしばし離れて、「一生懸命に神様のお声に心の耳をすます」というのが、プロセウコマイの第一義のように思います。(続きはまた明日)

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日も、あなたと共に歩ませてください。騒ぐ心を静めてください。あなたが用意しておられる、あなたの目にもっとも良いことが、今日もなされますように。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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