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2017. 06. 27  
日曜日に分ち合った御言葉が、頭を離れません。主よ、来てください。朝をもたらしてくださいと、繰り返し祈っています。祈らざるを得ない思いをしています。

イエス・キリストは、この世界に与えられた「輝く明けの明星」です(黙示録22:16)。

夜明けを告げる星です。どんな絶望の夜にも、神は夜明けをもたらしてくださる・・それが聖書の示す信仰です。

キリストがおられるから、夜は明ける。すでに、明けの明星はさやかに輝いている。

空を見上げてごらんなさい。すでに、夜明けははじまっている。朝は来る・・。

そして主イエスは、「然り、わたしはすぐに来る」と約束してくださいました(黙示録22:20)。

「わたしは来る」とは、終わりの時に、天から再び来てくださって、神の国の完成をもたらしてくださる、という約束です。

その時、永遠の朝がもたらされます。

「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(黙示録22:5)」

その時には、もう悲しみの夜はすべてぬぐいさられ、永遠の朝がもたらされます。

私は、その時を待ち望みます。「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈ります。


共に祈りましょう。

主イエスの恵みが、すべての者と共にありますように。主よ、すべての悲しみをぬぐってください。心にきざす空しさを払ってください。苦悩する時代に朝をもたらしてください。

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2017. 05. 25  
今日は、N姉がお住まいの施設を訪問し、小さな礼拝を行い、聖餐を味わう予定にしています。

聖餐は、「見える御言葉」とも言われます。

イエス様が教えて下さった、豊かな豊かな喜びの福音が、あの食事に象徴されています。

様々な角度から、聖餐の意味を語ることができますが、今日特に覚えたいのは、それは「永遠の神の国での祝宴の先取り」だということです。

少しふざけすぎの表現になるかもしれませんが、「お味見」であり、「前祝い」とも言えるかもしれません。

イエス様は、神の国が完成し、「あなたがたと共に新たに飲むその日」まで、二度とぶどう酒を口にしないと言われました(マタイ26:29)。

それは、希望の言葉でした。やがて共に飲もう、共に飲む時が来るのだという約束の言葉でした。

やがて救いのすべてが完成し、涙がことごとくぬぐわれる終わりの日に、私たちはキリストの祝宴に招かれます。

「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。(黙示録19:7)」


だから私たちは、いつでもこの希望のゆえに、落胆することはないのです。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(Ⅱコリント4:16)」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。主よ、今日も霊の目を開いてくださって、ほがらかに、強く雄々しく歩ませてください。
2017. 05. 12  
次の日曜日に分かち合うⅠペトロ5:8-11を思い巡らしております。

その中で、「悪魔に抵抗しなさい」との印象的な言葉があります。

「悪魔」について、聖書の他の箇所を調べますと、いろいろと興味深いので、ご紹介します。

そもそも「悪魔」とはどういう存在かといえば、黙示録12:9に「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」とあります。

悪魔は、あの創世記の最初にアダムとエバの心を惑わして以来、わたしたちを惑わし続けるのです。

あるいはヘブライ2:14、15によれば、イエス様は「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」なさったとあります。

悪魔は、死をつかさどる者。その死の恐怖にとらわれているのが、人間であるということです。

死の恐怖にとらわれるがゆえに、わたしたちは、この世のものに執着してしまうのですね。

そうやって、わたしたちの永遠を見る目を曇らせていくのが、悪魔の戦略です。

きついのは、Ⅰヨハネ3:10です(3:8もご参照)。

「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。」

自分が悪魔のコントロールに置かれていないか、あるいは自ら「悪魔の子」として振る舞っていないか、かえりみたいと思います。

そういえば、「悪魔:ディアボロス」という語は「中傷する者」という意味もあります。

ですから、悪口を言う人、人をそしる人のことを、「ディアボロス」と言われています。

Ⅰテモテ3:11「婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。」

原文で読むと、「悪魔のようになるな!!」と言われているようで、ドキッとします。(Ⅱテモテ3:3、テトス2:3も同様)

これはもちろん、ご婦人だけの問題ではありませんね。


共に祈りましょう。

主よ、私たちを、悪魔のあらゆる力から解放してください。あなたの助けがなければ、悪魔にとらわれてしまいます。主よ、今日もひとりひとりをお守りください。疲れを覚える者、心がもやもやと晴れない者たちを、悪魔の罠から、お守りください。
2016. 12. 31  
今年も一年間、御言葉を届けるという奉仕を全うすることがゆるされました。主の憐れみと、皆さんの祈りの支えに心から感謝を申し上げます。

来週は一週間、休暇をいただきますので、配信をお休みいたします。また来年もよろしくお付き合いくださいますよう、お願い致します。
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今年ももうすぐ終わりですね。来年は2017年。でも来年は本当に来るのでしょうか?

時間はいつまでも永遠に続くわけじゃありません。世界のはじまりを与えられた神様が、終わりを与えられる時に、時間はとまります。今、神様が終わりをもたらされるなら、2017年は来ないのです。
 
神様が終わりをもたらされる時、それを終末といいます。それはキリストを信じる者にとって、慰めの時、救いの完成の時。その時、イエス様は再び来てくださって、罪のない世界、新しい天と地を完成させてくださいます。

2000年前から、クリスチャンはずっとその時を待ってきました。その希望に支えられて、悲しみの多い地上の生涯に挑んできました。

2016年も、私たちはたくさんの涙を流しました。

愛しあうべき人と、心がかみあわないで泣きました。別れの悲しさを味わいました。心に深い傷を受けて、こわくて一歩も動けなくなって、泣いてばかりいた人もいたかもしれない。

思うようにいかない日々に苛立ちました。そのようにして苦闘している方のことを想って、泣きながら祈ったこともあったかもしれない。

どうしても別れたくない人が死んでしまう・・自分もまたいつか死なねばならない・・アダムの堕落から始まったこの悲しい運命。

病気がある、貧困がある、戦争もある、温暖化は進み、放射能は消えない・・。私たちは、そういう罪の悲惨にあえいで、いつも泣いています。
 
しかし、終わりの時、キリストは再び来てくださり、信じる私たちの目から「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と約束されているのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言われているのです(黙示録21:4)。

大事なのは、その終わりの時の希望に支えられて、今という時を、イエス様に心を向けてしっかり生きることです。

神様は、私たちにとって、この世界にとって、大きな意味をもつ一年として、この2016年も与えてくださいました。

私たちは、そんなに大切な一年として、この一年を過ごしたでしょうか?

2017年が与えられるとすれば、それもまた神様が、私たちのために用意してくださる特別な一年に違いありません。

大事に生きましょう。来年が来るのは、当たり前のことじゃないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに与えていただいた、365日の時間を想い起します。そのすべての時に、あなたは共にいてくださったことを感謝します。そのすべての時に、私たちのための最善を備えてくださったことを、心から感謝します。
2016. 02. 11  
(2014年2月11日の再掲です)

今日は2月11日。「建国記念の日」とされていますが、これは日本書紀にある神武天皇の即位の日であり、戦前の国家神道において「紀元節」と呼ばれていた日です。

大日本帝国においては、「天皇」は日本国民が崇め、命をささげるべき「現人神」とされ、キリスト教会も天皇崇拝や神社参拝を強制させられました。

そんな「天皇教」と言ってもいいような国家神道体制を復興させたい勢力が、特にこの数年勢いを得ています。

「紀元節=建国記念日」というのは、そんな天皇教の一大イベントです。

ですから、日本のキリスト教会では、この2月11日を「建国記念の日」ではなく「信教の自由を守る日」ととらえなおし、聖書において自らを啓示されるただ御一人の神様への信従を、改めて確認する時としています。

黙示録19:11-16をお読みください。

黙示録は、ローマでの皇帝崇拝を拒んで迫害されたクリスチャンたちに、主イエスの勝利の希望を伝える書です。

「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる(黙示録19:11)」

この方こそ、「王の王、主の主(16節)」であるイエスです。

改めて、この方を見上げる一日としていただければと願います。



共に祈りましょう。

万物の支配者である主よ、日本の国をかえりみてくださり、かつてのように、思想・良心の自由がおろそかにされる国にならないようにしてください。

今すでに、さまざまな圧迫を受けて苦しんでいる人たちを助けてください。

「日本人なら当たり前」と迫ってくる、悪しき強制に対抗することのできる信仰の勇気と、知恵と力を、弱い私たちに与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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