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2016. 09. 14  
「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とは、レビ記19:2の御言葉です。

レビ記19章においては、この御言葉に続いて、「父母を敬いなさい・・、偶像を仰いではならない・・、隣人を虐げてはならない・・」などの、十戒に要約される神様の教えが示されます。

「聖なる者となる」ということは、そういう神様の教えに生きることです。

ただ、神様の教えに生きようと気張り過ぎてはいけません。

あんまり気張り過ぎてしまいますと、そのように生きることのできない自分を裁いたり、他人を裁いたりしはじめて、魂が不健康になります。

それが、いわゆる律法主義です。(私は個人的には、「戒律主義」という言い方をしています。)

人間がどれだけがんばっても、自力では「聖なる者になる」ことはできないことは、いつも覚えていたいと思います。

「聖」というのは、神様だけにふさわしいことです。人間の努力では、そこにはたどりつけません。

でも、その「聖なるお方」に選んでいただいて、特別に取り分けていただいて(=区別)、神との特別な関係をはじめさせていただくというのが、「聖なる者とされる」ということだと昨日確認しました。

私たちが意識すべきは、「自分は聖なるお方につながっているんだ」ということです。

その特別な関係の意識が深まれば、生活は自然に変わっていきます。変えられていきます。


共に祈りましょう。

主よ、今日も、聖なるあなたが私とつながっていてくださることを、感謝いたします。あなたの御手は見えませんが、私の一歩一歩を、手を引き導いてくださって、「区別された」歩みをなすことができるようにしてください。
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2016. 09. 13  
先の日曜日は、Ⅰペトロ1:14-16の御言葉を分かち合いました。

「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」

今週は、特に「聖なる者になりなさい」という言葉に集中しつつ、関連する聖句を分ち合っていきましょう。


この御言葉のルーツは、レビ記にあります。レビ11:45、19:2なども確認していただきたいですが、今日は特に20:26を読みましょう。

「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」

ここに「区別した」という言葉が出てきます。

「聖」であるとは、元来は「区別されている」という言葉であって、それは神様の御存在にかかわることです。

神様は、この地上のなにものとも異なる創造者、全能者、超越者で、「区別された」お方です。

だから、わたしたちと聖なる神様のあいだには、深い断絶があります。近づくことのゆるされないはずのお方です。

しかし、その神様の方から、「どの民よりも貧弱な(申命記6:7)」者たちを選んでくださって、「ご自分のもの=宝もの」として「区別して」くださいました。

わたしたちは誰もそのようにして、ただ神様からの不思議な選びによって、聖なる神様との特別な関係へと取り分けられていくのです。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、最もきよく、最も正しく、尊厳と栄光に満ちたお方。そのあなたに親しく呼びかけることが赦されたわたしたちは、一体なにものなのでしょう。今日の一日に、あなたとの特別な関係へと「区別された」ことの喜びを、深く高く味わわせてください。
2013. 06. 20  
レビ記19章17,18節「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。・・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」

これは、律法の要約として主イエスも大事にされた、隣人愛の教えです。

このレビ記の19章は、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と目的が示され、様々な戒めが与えられているところですが、その中でも特に大切なのがこの愛の教えです。

聖を目指すというのは、一人だけで潔癖を志すことではありません。

聖なる者となるということは、人を愛する者となるということと一つのことです。

誰とも関わらない隠者として聖なる生活を志向しても、それは試されたことのない聖さであって、本物ではありません。

本当の聖性は深く関わりあう人間関係の中に現れてきます。

互いに聖なる者をめざし、過ちを率直に戒めあうことのできるような、ほんものの友情を求めていきたいものです。


共に祈りましょう。

主よ、本当の愛を、私たちに教えてください。互いに誠実に向き合い、時には過ちをただし合い、本当の友情を育むことができますように。そういう友を与えてくださいますように。
2013. 05. 15  
レビ記13章は、重い皮膚病についての規定が示されています。

「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。(45,46節)」

「重い皮膚病」とは、なんなのか?

ハンセン病や、アトピーその他の様々な皮膚疾患と、同定することができません。

新改訳では原語のまま「ツァラアト」と訳されています。47節以降の「かび」も、同じ「ツァラアト」です。

ツァラアトは、一度発生すると、人の皮膚に、ないし衣服や壁に広がっていきます。

思い出すのは「古い邪悪なパン種」のたとえです(Ⅰコリント5章8節)。

邪悪な「罪」というパン種が、またたくまに私たちの存在全体に広がって、やがては隣人と共同体にも広がり、すべてを悪くしていきます。


今日の言葉には、ツァラアトを得た者に対するひどい扱いが示されています。人道的には非難されて当然です。

しかし、そこまでして取り除こうとする徹底は、小さな罪のパン種を取り除く熱心に通じます。


私たちは誰もが本来、聖なる神の民の宿営から追放され、「汚れた者です」と言いながら生きるよりない者であることを思いましょう。

でもイエス様は、そういう失われた者たちを、探して救ってくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの憐れみにより、神の民の一員として回復される喜びを覚えます。主よ、今日もわたしたちに聖化の恵みを与えてくださり、自分のうちから、どんな小さな罪のパン種をも取り除こうとする熱心を起こさせてください。
2013. 05. 14  
レビ記12章は出産に際する古い規定です。 

「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。(2節)」などとされ、

子を出産した女性は、計四十日間は「汚れている」ので、家の中でじっとしているように命じられています。

このような規定の結果として、産後の体力回復がはかられます。

また実質的に性行為が禁止され、夫の性衝動からの母体の保護が配慮されています。

主の深遠な慈しみを見るような思いもします。


さらに思いを向けるべきは、エバに与えられた「はらみの苦しみ」の呪いです(創世記3章16節)。

聖書を知る母親にとって、出産は、大きな祝福を覚えると同時に、人間が引き起こした罪の悲惨を覚える時でもあるはずです。

「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。(詩篇51篇7節)」とあるように、

出産は、一人の原罪を抱えた罪人の誕生の時です。
 
そんな「罪人」の救いのためのイエスの死と復活を想起し、

自らと子の生涯の聖別を祈って、母親が産後を静かに過ごすことは、新約時代の今にも必要でしょう。



共に祈りましょう。

聖なる主よ、わたしたちは罪のうちにはらまれ、産み落とされた罪の子であります。どうぞこの身の汚れを、キリストの血により洗ってくださり、雪よりも白くしてください。今日の一日に、新たな悔い改めをもって、私たちは歩みます。主よ、この一日を祝福してください。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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