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2017. 07. 07  
聖書の言葉に、違和感を感じたり、抵抗を覚えたり・・・。それが私たちの罪の本質といえると、昨日お話しました。

かたくなな自我と言ってもいいと思います。

神様が、このように信じなさい、このように生きていきなさいと示されることに素直に従えず、抵抗する。そして自分に都合のよいように解釈していく。私などもそうでした。

教会に通い始めた頃、聖書の神様というのは色々と口うるさいものだと、私は感じていました。

神棚のある家で生まれ、小さい頃から宗教ということに親しんできましたが、うちの家の「神様」は楽でした。何もしゃべらないからです。

だから、悪いことをしていても、良心の呵責を覚えさせられることもない。

自分で願いごとがある時だけ、神棚の前にちょこんと座ってお祈りして、その他の時は特に用事はありませんからほったらかしです。

とにかく、何も語りかけてこないから楽なのです。でも聖書の神様は違います。とにかく口うるさいと思いました。

あれも罪、これも罪と言われます。人を殺すのは当然として、口でバカというのも、心でバカと思うのもダメ、永遠の滅びに価する。

自分自身の中にある闇を見つめなさい、歪んだ心を見つめなさいと言われます。

でもそれは・・・、神が私の存在に責任をもって、関わり続けてくださるからなのだと、今は分かります。

なんにも語って来ない神様は楽です。でも、そこにはなんの温度もありません。心が通い合うことがありません。無責任な関係です。

聖書の神はそうじゃない。私たちを創造し、最後まで見守ってくださる方。私はそのようにお前を愛する、愛し続けると約束してくださる方。

だから、私が汚れているのを、ほったらかしにはなさいません。たとえば、こんな風に・・・。

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。(エゼキエル18:31)」

聖書というのは、こういう神からの語りかけを記録した書物です。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちの一日に、聖書を読む時間を確保させてください。そして、理解できるようにしてください。必要な悔い改めをも導いてください。御言葉によって、生きる勇気を、慰めを与えて下さい。




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2016. 06. 21  
先の日曜日に、Ⅰ姉が洗礼を受け、新しく神の家族の一員として加えられました。本当にうれしいことでした。

しかし、洗礼を受けてすぐは、喜びが大きい反面、悪魔の攻撃もはげしくなる時です。姉妹のためにお祈りください。

洗礼に際して、エゼキエル36:25-26の御言葉を読みました。

「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

「石の心」とは、ガチガチにかたくなで、神の教えを拒み、神から離れていく罪深い心です。

わたしたちは誰もがそのような「石の心」をもっているのです。

神様はいつもそばにおられるのに、わたしたちの心が「石」だから、それが分からないのです。分からないまま、拒んだり、背いたりするのです。

そういう「石の心」を取り除くことは、自分ではできません。人間にはできないのです。

だから神様が、恵みによってそれを取り除き、「肉の心」すなわち、神と共に生きるためのしなやかでやわらかい心を与えて下さいます。(※ 聖書では、「肉」とは悪い意味で用いられることが多いですが、ここでは良い意味です)

そのようにして神様によって清められ、「新しい心、新しい霊」を備えていただいて、信仰の歩みはスタートします。

洗礼とは、そのスタートの象徴です。清い水を振りかけていただいた、その喜びを忘れないでください。


共に祈りましょう。

主よ、信仰者としての新しい歩みを始めた者に、今週、特別な守りと祝福がありますように。先に救われた一人一人も、「新しい霊、新しい心」において、あなたを讃美し、信じ従うことができますように。
2014. 02. 13  
「飼い主のいない羊のように弱り果てる」とは、まことの神との垂直な関係を見失って、魂がさまよい続ける霊的危機を表しています。

旧約聖書の中で、そういう表現が何度も出るのです。

最も重要なのはエゼキエル書34章です。できれば全部お読みください。

「イスラエルの牧者たち」、すなわち、民を導くリーダーとして立てられた王や祭司らへの、神からの痛烈な批判です。

彼らは搾取によって民を疲弊させ、のみならず、神との契約をないがしろにし、霊的にも倫理的にも神の民を腐敗・荒廃させました。

その結果、バビロン捕囚の悲劇を招き、「羊たち=神の民」は故郷を失い、ちりぢりになり、さまよい、傷つき、野の獣の餌食となりました。

神を見失って魂がさまよっていた神の民が、本当に、荒れ野をさまよう難民になってしまいました。

霊的危機は、そんな風にして、現実的危機を引き起こすのです。

そういう状況の中で、神はいてもたってもいられず、自らが羊飼いとなる!!と宣言されます。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)」

主イエスは、この神の約束の通りに、失われた者を探して救ってくださるのです。


共に祈りましょう。

まことの羊飼いイエスよ、どうか今日も正しい道を示し、さまよいがちな私たちを、霊的な危機からお救いください。そして現実的な危機から守ってください。
2013. 03. 29  
この御言葉配信は、ブログにもなっていますので、過去のものも全部読むことができます。

昨日、一覧表を眺めていて気付いたのですが、選んでいる聖句にはやはり偏りがあります。

一番多いのは詩篇ですが、その他の旧約、特に預言書からは少ないですね。

そういうわけで、この受難週に、エゼキエル書の御言葉に聞きましょう。

「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまづかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル18:30-32)


神は正義の神であって、本来は、罪深い私たちを裁いて殺さずにはおれません。

でも、一人も死なせたくなどないのです。だから、身代わりに、罪無きイエスだけを裁き、死なせました。

私が「犯したあらゆる背き」の責任を負って、イエスは十字架で死んだのです。

このキリストの十字架の下で、自らのこれまでの道を悔い改めて、新しい命に生きよと、神は願っておられます。


共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ、今日、私のうちにまことの悔い改めを起こしてください。あなたに背き、隣人を傷つけて、自分を損なってきた人生の、方向を変えさせてください。
2013. 01. 25  
「姦淫するなかれ」と命じられる神は、何度裏切られても、なお一途に神の民を愛しぬかれる契約の神です。

エゼキエル16章は、神の民の姦淫がこれでもかと糾弾されたその後に、

こんな福音の予告でしめくくられています。

「だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。

・・・しかしお前が契約を守ったからではない。

わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。

こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、

自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる。(エゼキエル16:59-63)」


イエス様による十字架の犠牲と罪の赦しには、こんな神の思いが込められているのです。

今やわたしたちは、イエスの血でたてられた、「永遠の救いの約束」に生かされています。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、あなたの愛を裏切ることなく、誠実に神の道を歩むことができますように、聖霊の導きをお与えください。一途にあなたを信じ従う、一筋の心をわたしたちに与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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