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2017. 05. 26  
昨日は予定どおり、N姉を訪問することができ、共に礼拝をささげることがゆるされました。

主イエスの慈愛に満ちた、静かな時間を過ごしました。手で触れることができるような、聖霊の臨在を覚え、一同深く満たされました。

これから、ご高齢によって外出が難しい方々が多くなる中で、このような機会も増えていくと思います。

話は全然違いますが、昨日、こんなエピソードを知って感動しました。

ヘンリー・ビーチャーという有名な説教者に対して、「すばらしい説教でした。準備にどれだけの時間がかかったのですか」と尋ねた人がいました。

ビーチャー先生は、「40年かかりました」と答えたそうです。彼がその時40歳だったからです。

つまり、生まれ落ちてから、今日までのすべてのことが、説教の準備となっているということです。

「真の説教は、生命に関するものです。その人の成長の度合いにしたがって説教もすぐれたものとなります」と、バウンズという人も言います。

襟を正される思いです。

パウロは、若いテモテに対して言いました。「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(Ⅰテモテ4:16)」

「自分自身」に気を配れ・・・、忘れてはならないことです。説教者自身、まず自らを救うことが必要なのです。

今日から明日の朝にかけての説教準備が豊かに祝福されますように、どうぞお祈りください。

新しくペトロの手紙第二の解き明かしがはじまります。次の日曜日の礼拝説教が、集う人々を「救う」ものとなりますように。

昨日味わったような、あの豊かな礼拝体験。神への畏れと親しさに満ちた、礼拝をささげる喜びが、わたしたちに与えられますように。

みなさんもまた、「自分自身と教え」とに気を配り、自分の魂のケアと、説教者の準備のためにお祈りください。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、また新しく、より深く、あなたのことを知らせてください。どうか、昨日よりもわずかでも、わたしを成長させてください。そうしてわたしに「救い」を与えて下さい。どれだけ時代がゆがんでいこうとも、人々の心が荒んでいこうとも、あなたのもとにある恵みと真理に、堅く立ち続けることができますように。
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2016. 11. 17  
Ⅰペトロ2:11には、「あなたがたは旅人であり、仮住まいの身なのだから、魂に戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい」と言われています。

「肉の欲」とは、「肉的な」欲望です。それは、神の御心に反する、「自己中心的な執着」です。

それは、「魂に戦いを挑む」という、恐るべきものです。戦いを挑むというのですから、殺しにくるということです。

このような、地上的な欲望と執着を戒める、すさまじい言葉を分かち合いましょう。

「・・・わたしたちは、何も持たずに世に生れ、世を去る時は何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。

金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(Ⅰテモテ6:7-10)」


旅人は、荷物を増やさないものですね。旅人というのは、「肉の欲」から自由である人のことです。

いいなあと思う土地があっても、そこに「執着」してしまっては、旅を進めることができません。

私たちは、永遠の命の満ちる場所に向かって旅を進める、自由な「途上の人」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちの旅路を見守ってください。さまざまな誘惑やつまずき、試練があっても、旅の足をとめてしまうことがないように、あなたの恵みによって歩ませてください。





2016. 04. 08  
この「日々の御言葉」は、牧師の奉仕として始めたものでもありますが、自分自身のためでもあります。

日々の筆力の修練であり、なによりも、神様と向き合う恵みです。

御言葉に耳をかたむけ、祈る。その日々の恵みを、自分自身がいただいて、それをおすそ分けしているものです。

そういう意味で、時に極めて個人的な黙想になってしまって、申し訳なく思ってもいます。

今朝は私は、テモテへの手紙第一を読んでいました。もう何度も読んでいますが、読みたくなったので読みました。

昔は、厳しい手紙だなあと思い、敬遠していました。でも今は、深い慰めを覚えます。皆さんには、どうなのでしょうか?

今朝は、こんな言葉にひきつけられました。

「6:11-12 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」

特に、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」という言葉に、なぜだか魂の平安を覚えました。

追い求めていこうと、思いました。ひたすら主を信じて、愛すべき者を愛していくのだ、と。

忍耐・・・、それは神に希望をかけ、待ち続ける力です。

柔和・・・、イエス様のように、やさしい人になりたいのです。やさしく、しかし、決して負けない強さを持つ人になりたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も御言葉を与えてくださってありがとうございます。今日もそれぞれに与えられる信仰の戦いを、立派に戦いぬくことができますように。どうか主よ、あなたが共にいてくださって、あらゆる困難に打ち勝たせてください。
 
2014. 06. 28  
恐るべき迫害者だったサウロが、突然に光に打ちのめされて回心し、使徒パウロになります。

使徒言行録22章で、パウロはその時の体験を振り返ります。

その回想によれば、彼が回心の途上で最初に口にしたのは「主よ、どうしたらよいでしょうか(10節)」だったようです。

悔い改めが生じると、心に変化が起こり、生き方そのものに変化が起こります。

「自分が何をしたいか」ではなく、パウロのように、「主が何を求めておられるか」をたずねもとめるようになります。


でも、何よりの変化は、主に従いきれぬ自分の罪の深さの自覚です。

悔い改めをすればするほどに、自分の悔い改めがいかに貧しく、自分の変化がいかに不完全かを知るのです。

そうであるからこそ、私たちにはイエス・キリストの救いが必要なのです。

Ⅰテモテ1:15にあるパウロの言葉から、そんな彼の変化がよく分かるのです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」


共に祈りましょう。

主よ、私は、悔いてはまた罪を犯し続ける、まことに情けない、罪人の最たる者です。今週の歩みを赦してください。主よ、願います。あなたの憐みによって、私を御心にかなう者に変化させてください。
2014. 06. 14  
昨日、私が教えていただいている山口陽一先生による「実業の日本に生きたキリスト者列伝」という、大変おもしろい講演を聞くことができました。

「ノリタケ」の創立者、森村市左衛門。歯磨きの「ライオン」の小林富次郎。「グンゼ」の波多野鶴吉・・他にもたくさんいらっしゃいます。

キリスト教を経営理念に反映し、社会の公益のため、また伝道のために「実業」に励んだ方々の生涯は、いずれも興味深いです。

その中でも、「キャラメル王」森永太一郎の純粋な信仰の姿には心打たれます。

彼は渡米し、オークランドで回心しますが、「キリスト信者の信じているイエス・キリストが、今も活ける救い主ならば、生ける主なることを知らしてください」と真剣に祈ったそうです。

主はその祈りに応えてくださって、「汝の罪は赦されたり、汝の名は天にある生命の書に録されたり」との御声が電光石火のごとく閃き、私は喜びに満たされたと、自著に書いておられます。

森永は創業時、Ⅰテモテ6:6-12を掲げて、戒めにしていたそうです。

「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。・・・金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」

しかし、事業の成功とともに誘惑に陥り、酒におぼれ、彼は信仰から迷い出てしまいます。

でもそんな彼を、信仰の友がたずね、祈り励まし、彼は悔い改めに導かれるのです。

森永家の墓は青山霊園にあるそうですが、墓石には「罪人 中我 首(かしら)」と刻まれているそうです。

Ⅰテモテ1:15「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」


共に祈りましょう。

今週も今日まで守られ感謝します。先人たちの生涯に示されたあなたの栄光の証しに感謝します。彼らと共におられたあなたが、私たちとも共にいて、地の塩世の光としてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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