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2018. 01. 03  
明けましておめでとうございます。2018年も、こうして朝の分かち合いができますことを感謝します。

勝田台教会では、今日は10時30分から、新年祈祷会がもたれます。ご都合の許される方は、ぜひご出席ください。

自身の今年の歩みのために、教会の前進のために、地上の平和のために、なにより神の栄光のために、共に祈りましょう。


今日は、私自身の年間テーマ聖句を分かち合わせていただきます。Ⅰコリント13:13です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」


昨年から、このシンプルな御言葉にずっと心惹かれ続けています。

「信仰と希望と愛を、私たちに与えてください」と、牧師として祈り続けています。この三つがあれば、もう十分。でも、最も得難いものもこの三つです。祈らねば、得られないもの・・・。

私は、この三つのことを、愚かなまでに、毎日毎日、皆さんにお伝えする、そういう牧師でありたいと願っています。

申し訳ありませんが、私には華麗な説教はできませんし、話題豊富でもありません。聖書を単純に解き明かすことしかできません。

できないし、あえてしないようにもしています。

もっと愚かなまでに、ど真ん中の直球だけ投げられたら・・・と、あこがれます。


決して悪いようにはなさらないイエス・キリストへの信仰と、彼に従うという生の新しさ、すばらしさ。

彼が与えてくださった罪の赦し、神との和解、そこからはじまった永遠の命の希望。わたしたちに約束された、完全な慰めの到来の希望。

そして、イエスがわたしたちを愛してくださったように、互いに愛し合うこと。

この三つのことを、皆さんの耳にタコができるほど、繰り返し語ってまいります。それが、みなさんに対する私の精一杯の愛です。


共に祈りましょう。

主よ、今年も私たちの祈りを導いてください。そして永遠に価値ある、最も大切なものを、手に入れることができるようにしてください。信仰と希望と愛を、わたしたちに与えてください。
2017. 11. 23  
今日は東関東中会の定期会議が行われます。12の教会から牧師と長老が集まって、会議をいたします。

勝田台教会からも坂井牧師と吉田長老が出席します。覚えてお祈りください。

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昨日、説教の歴史について学ぶ中で、4世紀末の偉大な教父アウグスティヌスの言葉が、心に残りました。

「・・したがって、誰でも聖書全体もしくはその一部を理解したと自認しながら、神とわれわれの隣人への二重の愛を造ることができていないならば、そのひとは全く聖書を理解していないことになるのである。」

説教学の最初の教科書ともいわれる「キリスト教の教え」という著作にある言葉です。

神様への愛、そして隣人への愛。この二重の愛が造られないなら、聖書をわかったとは言えない、ということです。

神を本当に愛するならば、隣人は当然大切にする。なぜなら、隣人は、神が私に与えてくださるものだから。

自分のために隣人を利用しようとする「自己主義」から、どんな人間でも自由ではありません。それを「罪」と言います。

どこまでも隣人本位で、ただ隣人のためにと自分を差し出す、それを「愛」と呼ぶならば、そういう「愛」は、ただ神のためにという献身を知っている人にしか、持てないものかもしれません。

そして、ただ私のためにと命を与えてくださった、イエス・キリストという神の「愛」を知っている人しか、分からないことかもしれません。

そういう「愛」が私たちのうちに造りだされる・・・、それが聖書が分かる時の、限りなく大きな喜びです。恵みです。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント13:13-14:1)」


共に祈りましょう。

主よ、自分のことだけ考えているときは、私はいつも強気でした。はっきりと生きていました。しかし、「愛」について教えられてから、行きたくないところへも行かねばならないと、知りました。今でもまだ、それを面倒に思ってしまう私を赦してください。「愛」を知ってから、私には面倒なことが増えました。でも、「愛」を知ることができたから、私はとても自由になりました。主よ、感謝します。まだまだ何もわかっていないものです。どうか今日も、聖書を本当の意味で分からせてください。
2017. 09. 14  
昨日から、聖書の教える「自由」ということについて考えています。

Ⅰコリント6:12の言葉が、よい方向に導いてくれるでしょう。

コリントの教会は、買娼などのみだらな行いもあれば、酒におぼれる者、強欲、泥棒、偶像礼拝・・などなど、問題だらけの教会だったようです。

大都会コリントの乱れきった空気に流されていたのです。そういう教会に対してパウロは教えます。

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(Ⅰコリント6:12)」


私たちは、よい行いを積み重ねることで救われるわけではありません。

どんなに悪い行いを重ねても、キリストを信じれば救われる。そういう意味で、もう掟には縛られていません。

これをしなくてはダメ、あれをしてはダメという発想で考えているわけではないのです。「すべてのことが許されている」が基本なのです。

でも、それに甘えて、罪に流されるに任せていては、いつのまにか罪深い思いに「支配」されてしまいます。

それはいけません。せっかくその「支配」から解き放っていただいたのに、また戻ってはいけません。


どれだけダメだと分かっていても、異性に対してみだらな感情を抱いてしまうこともあるでしょう。

金銭の欲はすべての悪の根だと示されても(Ⅰテモテ6:10)、やっぱりお金がほしい、ぜいたくな暮らしをしたいという求めも残ると思います。

大事なのは、そういう思いに「支配」されないことです。むしろ、その思いを「支配・コントロール」するのです。

そういう力を、イエス様は、聖霊によって与えて下さいます。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの心があなたの御心とぴったりと重なるようになるまで、私を完全に支配なさってください。あなたの愛と義で満たしてください。自らの罪と戦い、世の悪を悲しむことができますように。
2017. 06. 06  
Ⅰコリント6:19-20の御言葉です。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

ペンテコステ(聖霊降臨記念日)から始まるこの一週間は、「聖霊がわたしたちの内に生きていてくださる」との確信に深まっていきましょう。

どんな時でも、思い出したいのです。聖霊がこのわたしの内に生きていてくださる。

聖霊は、この汚い私の心に生きていてくださる。散らかり放題の私の心に住んでいてくださる。

今、出勤中の電車の中で、あるいは朝ごはんを食べながら、あるいは眠い目をこすりながら・・どうぞ姿勢を正して、静まって、確認させていただいてください。

今日、イライラする時があるでしょう。がっかりしてしまう時があるでしょう。急な事件や事故に巻き込まれることもある。

どうしたらいいだろうかと不安が強くなったり、急に生きることが空しくなってしまったり・・いろんなことがあるかもしれない。

どんな時も、静まって、内なる聖霊に向かいたいと思うのです。

神様から逃げたい時もあるでしょう。でも、逃げるクセをつけてしまってはいけない。

それに、聖霊は逃がしてはくれません。どんなにわたしたちが心を散らかし汚そうとも、私はここに住むと、もうゆずられないのです。

ですから、どんな時も思い出して過ごしましょう。わたしの内に聖霊が宿ってくださっている。

聖霊が、いつも必要な信仰を与えてくださいます。慰めを、励ましを、あるいは悔い改めを、また勇気を・・必要なことはすべて備えてくださいます。


共に祈りましょう。

内なる聖霊よ、どうか我が体と魂を、聖なるあなたの住み家として、ふさわしくきよめ、整え、作り変えてください。主よ、今日もあなたが、私のあまりに人間臭い日常生活を、共に生きていてくださることを感謝します。
2017. 04. 11  
今週は教会の暦では、受難週になります。イエス様が十字架であじわわれた苦しみの意味を思い巡らしながら、Ⅰコリント1章を読んでいました。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Ⅰコリント1:23-25)」


聖書の神を信じて歩んできた「ユダヤ人」たちは、この罪の悲惨に満ちた世界になぐさめをもたらす「救い主=メシア」を待ち望んでいました。

しかし、それは決して十字架にかけられるような方であるはずがないと、だれもが思っていました。

十字架は、当時のローマ帝国における極刑であり、最も辱められた死でした。

そして、ユダヤ人にとってはなお特別な意味があります。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。(申命記21:23)」とあるように、十字架にかけられた死体は「木にかけられた死体」であって、「神に呪われた死体」だと考えられたからです。

だからこそ、イエス様の敵対者たちは、イエス様を十字架にかけることを熱望したのでした。


聖書の神を知らずに歩んでいる「異邦人」にとっても、十字架にかけられた者が救い主であるなどというのは、愚かな話だと思われました。

今は十字架は、きれいなアクセサリーにもなっています。

しかし、当時のローマ社会では、そんなことはありえない。十字架は、誰もが忌み嫌うしるしでした。きっと、子どもがいたずらで、木をクロスさせようものなら、親は血相変えて怒ったことでしょう。

十字架は、決して美しいものではないのです。呪いのしるしでした。

イエス様は、その呪いの死を引き受けてくださって、そこからよみがえってくださいました。その時から、私たちにとっての十字架の意味が変わったのです。



共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ、私たちの世界は今も悲しみに満ち、不法がはびこり、心がいよいよ荒んでいきます。しかしあなたが、この病んだ世界に十字架を打ち立ててくださったこと、そこでキリストがすべての呪いを引き受けてくださったことを、改めて覚えています。今日の日、おのれの罪と世の暗闇にのみこまれることなく、十字架の主を見上げて歩むことができますように。助けてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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