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2019. 11. 22  
次主日に分かち合うⅠコリント13章の「愛の賛歌」を思い巡らしています。

全体として、異言や預言という賜物を追い求める霊的エリートたちに対して、「それよりももっと大切なものがある。追い求めるべきは愛である。愛がなければ、それらの賜物は無意味であり、教会にとって益とならない」と伝えたい。

それが、この箇所の本来の文脈です。

4-7節の言葉も、暴走するコリント教会の人たちを立ち止まらせようとする言葉です。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

これとはまったく反対の状態にあったのが、コリント教会の人たちだったからです。

私たちはどうでしょう。


おもしろいことですが、この言葉では、主語は「愛」です。まるで人格をもっているようです。

愛するとは〇〇なことです・・と、道徳的に教えられてはいない。

詩的な表現だと言ってしまえばそれまでですが、考え出すとなんだかおもしろい。

試しに、「愛」の代わりに、自分の名前を入れてみてください。

つらくなりませんか・・。

求めるべきは、私「坂井孝宏」という存在が、まるごと「愛」になることです。ここで言われているのは、それほど本質的なことでしょう。

そのためには、「愛」そのものである存在と、深く結びつくしかないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは愛です。あなたの心と、私の心が一つになりますように。
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2019. 11. 21  
次主日はⅠコリント13章に共に聴きます。愛の賛歌と言われる大変有名な箇所です。

多くの人に感動を与えてきたテキストです。

しかしこの手紙の送り手である使徒パウロは、ここで愛一般について、なにか高尚な哲学的思索をしているわけではありません。

それぞれが自己主張強く神に仕えている、極めて具体的で生々しいコリント教会の混乱という現実があって、それを具体的に解決するためには、愛がなきゃだめなのだと訴えているのです。


先の主日に、子どもたちへのメッセージで、「聖書に書かれていることを漢字一文字で表すなら、愛だよ」と申し上げました。

キリスト教とは愛の宗教だとしばしば言われますが、本当にその通りです。

イエスに愛された者たちが、互いに愛し合う。要するにこれが、イエス様の教えです(ヨハネ15:12)。

神様を愛してはいるけど、隣人は無視するというのは、本来ありえません。

祈りや礼拝に集中するのはいいことです。でも、もしもその結果として、礼拝中に隣の人が困っているのに気づかないようなら、何かがおかしい。

それでは結局、神の教え、イエス様の教えを無視していることになる。

パウロは、隣人への愛こそ、聖書のすべてだと言い切りました。

ローマ13:8-10「・・どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。・・愛は律法を全うするのです。」

神様を愛しなさいという教えを無視しているわけではありません。

そんなのは大前提です。神を愛するのは、クリスチャンなら当たり前です。

でも、互いに愛し合おうとしないなら、神を愛していることにはならないのです。


共に祈りましょう。

主よ、愛を与えてください。まず教会が、真実に互いに愛し合うことができますように。互いに相手をすぐれた者として尊敬し、兄弟愛をもって愛し合うことができますように。
2019. 11. 20  
次の主日は、Ⅰコリント13章の「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所から共に聴きます。

改めて前後の大きな文脈を見ますと、これは12-14章全体の教えの一部であることが分かります。

全体として何が言われているかといえば、「異言ではなく預言の賜物を求めなさい」ということです。

「異言」とは?

定かではありませんが、そのままでは人には意味の分からないような、ある種の霊的恍惚状態に陥って、不思議な言葉で神様と語らうということがなされたのでしょう。

では「預言」とは?

これもまた霊的現象で、特別な示しを受けて語り出すことですが、「異言」が自分と神のあいだでだけ成立するのに対して、「預言」は他者に向かって語り、「人を造り上げ、慰め、励ます(14:3)」ものです。

だから、「異言」よりも、「預言」の賜物をこそ求めなさいと、教えられます。


昔、神学校時代に、コミュニケーションの難しい方がいらっしゃって、結局去ることになりました。

彼について、このように言う人がいました。「あの人は、神様と親密だと思うけど、自分だけの神様なんだよね・・」

「異言」は、自分と神様だけの親密さを追い求めるために必要かもしれませんが、それでは他者との交わりから遠くなります。

すなわち、愛するということと反対の方に向かいます。

「預言」は他者へと向かう、愛の言葉です。

いや、もっと本質的には、愛がなければ、「預言」は成り立たない。どれだけ雄弁であっても、愛がなければ、空しく過ぎゆく声に過ぎません。

だから、「預言」を求め、愛を求めなさいと教えられているのです。


共に祈りましょう。

主よ、説教者のために祈ります。彼がまことの愛をいただいて、人を造り上げ、慰め、励ます、愛の言葉を取り次ぐことができますように。また、今日もひとりひとりが、出会う方々に、愛の言葉を語ることができますように。
2019. 07. 24  
ここのところ、二人の小学6年生と、毎週それぞれに学び会を持っていますが、目覚ましい成長の姿に目を細めています。

彼らには、聖書を読むのですよ、そして、「信仰と希望と愛を私に与えてください」と毎日お祈りしなさいと、伝えています。

私自身も、教えた通りに生きたいと、同じようにしています。

ここのところ導かれているのは、「今日どんなことがあっても、信仰と希望と愛をもって、その課題に取り組むことができますように」という祈りです。

神様を遠くに感じてしまうような激しい荒波に襲われるかもしれません。

でも、どんなことがあっても、「固い決意をもって主から離れることのないように」とバルナバも教えていました(使徒言行録11:23)。

信仰をもって、主イエスにとどまりつづける。でも、それは自分の力では不可能です。

だから、祈るのです。私に信仰をください、と。

信仰が与えられれば、そこには必ず希望が生まれます。私たちの希望は、主イエスが生きておられることです。

主は決して悪いようにはなさいません。死の陰の谷を行く時も共にいてくださって、憩いの水のほとりへと、私たちを必ず導いてくださいます(詩編23篇)。

独り子イエスをくださったほどの神の愛を、私たちは疑う必要がないのです。それゆえに、希望を決して失いません。

そして、どんなときも愛をくださいと、祈りたいのです。

大災害、トラブル、大変な人との出会い・・・余裕を失ってしまうとき、相手に憎しみさえ感じる時、自分の生活を守らねばと必死になる時。

そんなときに、でもやっぱり主よ、私に愛をください。

今日どんなことがあっても、愛をもって、それに向き合うことができますようにと、祈りたいのです。

この心に愛が生まれている。このことこそ、私たちが「死から命へと移った」ことのしるしです(Ⅰヨハネ3:14)。


ですから、共に祈りましょう。

主よ、今日、あなたが私たちに与えてくださる一日に期待しつつ、不安も覚える弱い者です。耐えられないような試練にあわせないでください。どんなことがあっても、信仰と希望と愛をもって、立ち向かうことができますように。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13)」
2018. 11. 08  
昨晩の祈祷会で、幼児洗礼についての教理を確認する中で、Ⅰコリント7:14の御言葉を分かち合いました。

「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている。そうでなければ、あなたがたの子どもたちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」という御言葉です。


これは、本当に驚くべき言葉であり、それだけに理解も分かれるものです。

勝田台教会には、妻だけが信者というパターンが多いです。でも、そういう家庭の夫や、また子どもたちは、「聖なる者」とされている。

神様は、そのような者として特別に目をかけて、扱っていてくださるのです。

もちろん、その神の愛顧を無視して、かたくなに拒むならば、滅びはまぬがれないでしょう。

でも、神様はそれを望んでおられません。家族の中の最初の実りである私たちを、祝福の源として用いて、その家族全体をまるごと祝福しようと、すでに動き始めていてくださいます。

私たちの家族は、そのようにして「聖なる家族」、すなわち、神に特別にキープされている家族として、扱われているのです。


使徒言行録16:31には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」との言葉もあります。

これも同様に、家族の自動的な救いを保証するものではありませんが、神様の救いの手が私たちの家族に差し伸べられているということを明らかに教えてくれます。


11月18日の歓迎礼拝に向けて、みなさまのご家族にも案内を出させていただきました。

共に祈りましょう。

主よ、家族の救いを願う者たちの祈りをかなえてください。夫婦が、親子が、本当に愛し合うことができるように、信仰における一致を与えてください。主よ、私たちは本当に無力を覚えています。どうか主よ、奇跡を起こしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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