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2019. 07. 24  
ここのところ、二人の小学6年生と、毎週それぞれに学び会を持っていますが、目覚ましい成長の姿に目を細めています。

彼らには、聖書を読むのですよ、そして、「信仰と希望と愛を私に与えてください」と毎日お祈りしなさいと、伝えています。

私自身も、教えた通りに生きたいと、同じようにしています。

ここのところ導かれているのは、「今日どんなことがあっても、信仰と希望と愛をもって、その課題に取り組むことができますように」という祈りです。

神様を遠くに感じてしまうような激しい荒波に襲われるかもしれません。

でも、どんなことがあっても、「固い決意をもって主から離れることのないように」とバルナバも教えていました(使徒言行録11:23)。

信仰をもって、主イエスにとどまりつづける。でも、それは自分の力では不可能です。

だから、祈るのです。私に信仰をください、と。

信仰が与えられれば、そこには必ず希望が生まれます。私たちの希望は、主イエスが生きておられることです。

主は決して悪いようにはなさいません。死の陰の谷を行く時も共にいてくださって、憩いの水のほとりへと、私たちを必ず導いてくださいます(詩編23篇)。

独り子イエスをくださったほどの神の愛を、私たちは疑う必要がないのです。それゆえに、希望を決して失いません。

そして、どんなときも愛をくださいと、祈りたいのです。

大災害、トラブル、大変な人との出会い・・・余裕を失ってしまうとき、相手に憎しみさえ感じる時、自分の生活を守らねばと必死になる時。

そんなときに、でもやっぱり主よ、私に愛をください。

今日どんなことがあっても、愛をもって、それに向き合うことができますようにと、祈りたいのです。

この心に愛が生まれている。このことこそ、私たちが「死から命へと移った」ことのしるしです(Ⅰヨハネ3:14)。


ですから、共に祈りましょう。

主よ、今日、あなたが私たちに与えてくださる一日に期待しつつ、不安も覚える弱い者です。耐えられないような試練にあわせないでください。どんなことがあっても、信仰と希望と愛をもって、立ち向かうことができますように。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13)」
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2018. 11. 08  
昨晩の祈祷会で、幼児洗礼についての教理を確認する中で、Ⅰコリント7:14の御言葉を分かち合いました。

「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている。そうでなければ、あなたがたの子どもたちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」という御言葉です。


これは、本当に驚くべき言葉であり、それだけに理解も分かれるものです。

勝田台教会には、妻だけが信者というパターンが多いです。でも、そういう家庭の夫や、また子どもたちは、「聖なる者」とされている。

神様は、そのような者として特別に目をかけて、扱っていてくださるのです。

もちろん、その神の愛顧を無視して、かたくなに拒むならば、滅びはまぬがれないでしょう。

でも、神様はそれを望んでおられません。家族の中の最初の実りである私たちを、祝福の源として用いて、その家族全体をまるごと祝福しようと、すでに動き始めていてくださいます。

私たちの家族は、そのようにして「聖なる家族」、すなわち、神に特別にキープされている家族として、扱われているのです。


使徒言行録16:31には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」との言葉もあります。

これも同様に、家族の自動的な救いを保証するものではありませんが、神様の救いの手が私たちの家族に差し伸べられているということを明らかに教えてくれます。


11月18日の歓迎礼拝に向けて、みなさまのご家族にも案内を出させていただきました。

共に祈りましょう。

主よ、家族の救いを願う者たちの祈りをかなえてください。夫婦が、親子が、本当に愛し合うことができるように、信仰における一致を与えてください。主よ、私たちは本当に無力を覚えています。どうか主よ、奇跡を起こしてください。
2018. 01. 03  
明けましておめでとうございます。2018年も、こうして朝の分かち合いができますことを感謝します。

勝田台教会では、今日は10時30分から、新年祈祷会がもたれます。ご都合の許される方は、ぜひご出席ください。

自身の今年の歩みのために、教会の前進のために、地上の平和のために、なにより神の栄光のために、共に祈りましょう。


今日は、私自身の年間テーマ聖句を分かち合わせていただきます。Ⅰコリント13:13です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」


昨年から、このシンプルな御言葉にずっと心惹かれ続けています。

「信仰と希望と愛を、私たちに与えてください」と、牧師として祈り続けています。この三つがあれば、もう十分。でも、最も得難いものもこの三つです。祈らねば、得られないもの・・・。

私は、この三つのことを、愚かなまでに、毎日毎日、皆さんにお伝えする、そういう牧師でありたいと願っています。

申し訳ありませんが、私には華麗な説教はできませんし、話題豊富でもありません。聖書を単純に解き明かすことしかできません。

できないし、あえてしないようにもしています。

もっと愚かなまでに、ど真ん中の直球だけ投げられたら・・・と、あこがれます。


決して悪いようにはなさらないイエス・キリストへの信仰と、彼に従うという生の新しさ、すばらしさ。

彼が与えてくださった罪の赦し、神との和解、そこからはじまった永遠の命の希望。わたしたちに約束された、完全な慰めの到来の希望。

そして、イエスがわたしたちを愛してくださったように、互いに愛し合うこと。

この三つのことを、皆さんの耳にタコができるほど、繰り返し語ってまいります。それが、みなさんに対する私の精一杯の愛です。


共に祈りましょう。

主よ、今年も私たちの祈りを導いてください。そして永遠に価値ある、最も大切なものを、手に入れることができるようにしてください。信仰と希望と愛を、わたしたちに与えてください。
2017. 11. 23  
今日は東関東中会の定期会議が行われます。12の教会から牧師と長老が集まって、会議をいたします。

勝田台教会からも坂井牧師と吉田長老が出席します。覚えてお祈りください。

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昨日、説教の歴史について学ぶ中で、4世紀末の偉大な教父アウグスティヌスの言葉が、心に残りました。

「・・したがって、誰でも聖書全体もしくはその一部を理解したと自認しながら、神とわれわれの隣人への二重の愛を造ることができていないならば、そのひとは全く聖書を理解していないことになるのである。」

説教学の最初の教科書ともいわれる「キリスト教の教え」という著作にある言葉です。

神様への愛、そして隣人への愛。この二重の愛が造られないなら、聖書をわかったとは言えない、ということです。

神を本当に愛するならば、隣人は当然大切にする。なぜなら、隣人は、神が私に与えてくださるものだから。

自分のために隣人を利用しようとする「自己主義」から、どんな人間でも自由ではありません。それを「罪」と言います。

どこまでも隣人本位で、ただ隣人のためにと自分を差し出す、それを「愛」と呼ぶならば、そういう「愛」は、ただ神のためにという献身を知っている人にしか、持てないものかもしれません。

そして、ただ私のためにと命を与えてくださった、イエス・キリストという神の「愛」を知っている人しか、分からないことかもしれません。

そういう「愛」が私たちのうちに造りだされる・・・、それが聖書が分かる時の、限りなく大きな喜びです。恵みです。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント13:13-14:1)」


共に祈りましょう。

主よ、自分のことだけ考えているときは、私はいつも強気でした。はっきりと生きていました。しかし、「愛」について教えられてから、行きたくないところへも行かねばならないと、知りました。今でもまだ、それを面倒に思ってしまう私を赦してください。「愛」を知ってから、私には面倒なことが増えました。でも、「愛」を知ることができたから、私はとても自由になりました。主よ、感謝します。まだまだ何もわかっていないものです。どうか今日も、聖書を本当の意味で分からせてください。
2017. 09. 14  
昨日から、聖書の教える「自由」ということについて考えています。

Ⅰコリント6:12の言葉が、よい方向に導いてくれるでしょう。

コリントの教会は、買娼などのみだらな行いもあれば、酒におぼれる者、強欲、泥棒、偶像礼拝・・などなど、問題だらけの教会だったようです。

大都会コリントの乱れきった空気に流されていたのです。そういう教会に対してパウロは教えます。

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(Ⅰコリント6:12)」


私たちは、よい行いを積み重ねることで救われるわけではありません。

どんなに悪い行いを重ねても、キリストを信じれば救われる。そういう意味で、もう掟には縛られていません。

これをしなくてはダメ、あれをしてはダメという発想で考えているわけではないのです。「すべてのことが許されている」が基本なのです。

でも、それに甘えて、罪に流されるに任せていては、いつのまにか罪深い思いに「支配」されてしまいます。

それはいけません。せっかくその「支配」から解き放っていただいたのに、また戻ってはいけません。


どれだけダメだと分かっていても、異性に対してみだらな感情を抱いてしまうこともあるでしょう。

金銭の欲はすべての悪の根だと示されても(Ⅰテモテ6:10)、やっぱりお金がほしい、ぜいたくな暮らしをしたいという求めも残ると思います。

大事なのは、そういう思いに「支配」されないことです。むしろ、その思いを「支配・コントロール」するのです。

そういう力を、イエス様は、聖霊によって与えて下さいます。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの心があなたの御心とぴったりと重なるようになるまで、私を完全に支配なさってください。あなたの愛と義で満たしてください。自らの罪と戦い、世の悪を悲しむことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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