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2017. 06. 29  
聖書の言葉遣いにおいては、「夜が明ける」というのはよいことです。神様の救いを表します。

でも、実際の私たちの経験においては、心がとてもつらい時というのは、朝がくるのが苦しいですね。

また今日も一日、生きて行かねばならない・・。心が重くて、体も重い・・。動けない・・。


旧約聖書のヨブ記には、そのような私たちの苦悩を代弁するような、ヨブの叫びが記されています。

こんな言葉もあります。「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください。わたしの一生は空しいのです。(ヨブ7:15,16)」

・・・私たちは、ヨブほど苦しんでもいないのに、同じように考えてしまう時があるかもしれません。

罪深いことですね。死を望むだなんて・・、神様の思いと反対に向かってしまう。

でも、十字架の主イエスは、そんな私たちを見つめていてくださって、共に苦しんでくださり、赦しを与えるために死んでくださいました。

動けない朝には、十字架の主を、近くに覚えます。


ヨブ記には、こんな御言葉もあります。

「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。

・・・神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。・・(ヨブ37:21,22)」

今、光は見えない。でも、光が消えたわけではありません。

今、神の恵みや祝福が見えない。でも、神が私を愛しておられないわけではないと、十字架の主が教えてくださいます。

十字架の悲しみが、復活の朝の光に吹き払われたように、私の雲が払われて、神の輝きに満たされる時がきます。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主よ、あなたの愛で、今日の一日を支え励ましてください。今、光が見えずに苦悩する者を、支え励ましてください。
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2014. 07. 10  
私たちの人生には、闇のような状況が訪れることがあります。

「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。

・・苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。光を見ることなく、嘆きつつ歩き、人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。(ヨブ30:26-28)」

今まさに、「ああ、私のようだ・・」と思った方もいらっしゃることでしょう・・。

こんな闇のおとずれの時、私たちはしばしば焦り、手っ取り早い解決法をあれこれ求めたがります。

しかしそれこそ、苦しみの時に、最もしてはならないことです。

苦しみの経験とは、そこでこそ私たちが神に出会い、命の道を発見する、絶好の機会なのです。

その苦しみの闇の中で、じっと静まって、神と自分とに向き合うことが大切です。

詩篇119:71にもこういう言葉があります。

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」

あるいは、このような言葉が、今日のあなたの力となることを祈ってやみません。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5)」


共に祈りましょう。

主よ、今苦しみの日々を迎えている者に、あなたとの良き出会いと、良き導きを与えてください。私たちの心がねじれてしまうことなく、むしろその苦しみの中で、成熟が与えられますように。
2014. 03. 11  
今日は3月11日です。あの大震災から3年が経過しました。

この朝に、主はどんな御言葉を与えてくださるのだろうと、1時間ほど祈って考えていました。

すると、「大地を揺り動かされる神の偉大さを見つめよ」と示されました。

それを手がかりにしながら聖書をひもとくと、ヨブ記9章全体の御言葉にいきあたりました。

その中の、5-6節です。「神は山をも移される。怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。神は大地をその立つ所で揺り動かし、地の柱は揺らぐ。」


このような、圧倒的な神の力と知恵を前にして、私という存在はいかに卑小な者であるかを、私は良く知っていると、ヨブは言います。

でも、だからといって、その神の手の中で引き起こされる悲劇を、納得して受け入れることができるわけではありません。

その意味を悟れるわけでもありません。ヨブは悲しみ続けています。


私たちもまた、ヨブと同じ、小さな人間に過ぎません。

それをすぐに忘れる人間の傲慢を、一瞬で砕かれる神への「おそれ」を、今改めて心に置く必要があります。

同時に、その小さな人間一人一人の名を知り、その悲しみをも知り尽くし、すべての出来事の意味を握っておられる神が、「生きておられる」ことを、慰めとしたいと思います。

ヨブもまた最終的に、大いなる神が確かに存在しておられることを知って、ただそれを知って、慰められたのです。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、あの大震災から3年、被災者もそうでない者たちも、それぞれに迷走し、闇が深まっています。主よ、憐れんでください。憐れんでください。






2013. 07. 10  
7月に入って急に暑くなりましたから、ご年配の方々の健康を心配しています。

私を含めた若い者には想像できない、肉体的負担があることでしょう。

そのような肉体的な「老い」は、心にむなしさをもたらすこともあるでしょう。


有名なヨブ記の中で、ヨブが苦難の日々の中で、こんな言葉をしぼりだしています。

「人は死んでしまえば、もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから、交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。(ヨブ14:14)」


今、このようにして、苦しくむなしい地上の人生から解き放たれたいと、ひそかに願っている方もいらっしゃるかもしれません。

私たちにとって、この地上での人生は、それ自体が神から与えられた訓練の時です。

永遠の生活に備えるための準備期間であり、試合前の練習期間です。

それは、神が「もうよい」と言われるまで、自分でやめることのできないものです。

その時が来るまで、つらいですが、生きて、神の栄光を表しましょう。

訓練の日々は、永遠の喜びによって報われます。


共に祈りましょう。

永遠の主よ、若い者にも老いた者にも、この日を生き抜く力と勇気をください。今苦しんでいる方々が、永遠の命の希望に励まされて、心を高くあげることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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