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2019. 09. 27  
次主日の歓迎礼拝に分かち合われる3つの聖書テキスト、その最後はⅡコリント3:18です。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるのです。」

主イエスと同じ姿に「造りかえられていく=姿を変えられていく」、これも私たちの「メタモルフォーゼ」です。


昨日確認した、マルコ9:2のイエス様の変貌の記事がありました。

あの栄光に輝く主イエスのお姿に、私たちも似せられていく。変えられていく、ということです。

東方正教会の流れでは、その救いの神秘を「神化」というまことに大胆不敵な表現で受け止めています。

私たちプロテスタント教会は、地上の人生において「聖化」の道を通らせていただいて、死の時に「完全聖化」され、終わりの時に「栄化」という究極のゴールに至ると考えます。

聖霊が遂行される神の救いとは、そのようにして、愚かで卑しい私という存在を「造りかえて」くださるという、再創造の御業です。


今の自分自身を見ると、嫌になってしまう時があります。かなしくなるほど、惨めになる時もあります。

あるいは、今の自分の周りの人たちを見てもそうです。どうして私たちは、こうも愚かなのだろうと、この関係からもう逃げてしまいたい、人間をやめてしまいたいと思うことさえ、私にはあります。

でも、この私の内にも、確かに聖霊は生きていてくださるのです。

そして、一歩一歩、確実に「聖化」の業を進めてくださり、必ず最後は「栄化」してくださる。

その終わりのゴールの約束を、私は希望とします。

その終わりの時、主イエスの栄光の姿に似せられた私たちが、互いを完全に喜び合い、ほめたたえあい、ひとつになって主を賛美する。

その栄光の礼拝の風景をしっかりと望み見て、今日も、クリスチャンをやめないで生きていきます。


共に祈りましょう。

主よ、栄光に輝くあなたの御姿をあがめます。主よ、私のこの貧しい心と体を、あなたの光でいっぱいに満たしてください。もう、悪いものが何一つ入ってこないまでに。主よ、憐れんでください。
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2019. 09. 05  
次の主日は、使徒言行録21:1-16を分かち合います。

この記事のポイントは、エルサレムに行こうとするパウロと、それを引き止めようとする周囲の人たちのせめぎあいです。

そもそも、なぜパウロはエルサレムに行こうとしているのかを、今日は確認しておきましょう。


使徒言行録19:21に、エルサレムに行って、その後ローマに行くという決心が示されてます。

ローマ15:22-28を御覧いただくと、そのパウロの決意がくわしく分かります。

そして、エルサレムに行くのは、「エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助するため」にギリシャの教会の人々が集めた募金を届けるためだと、教えてくれています。

勝田台教会でも、わずかではありますが、カンボジアのホザナスクールのための献金を続けています。

物質的に豊かな教会が、貧しい教会を支えるのは、キリストのからだとして当然の愛の業です。


Ⅱコリント8,9章を読みますと、このエルサレムへの献金をした当時の教会の様子が浮かび上がってきます。

ここに書かれているマケドニア州の教会の代表は、テサロニケの教会です。

テサロニケ教会は、アカイア州のコリント教会などとは違って、パウロを励ましてくれる大変に模範的な教会でした。

彼らは決して裕福ではなく、むしろ「苦しみによる激しい試練」を受け、「極度の貧しさ」にあったようです。

でも、人に惜しまず施す霊的な豊かさに満ちていて、この募金にぜひ参加させてほしいと願い出たということです。

「フィリピンの兄弟たちは、貧しいのに、本当に惜しむことなく献金するんだ。あれは見習わないといけない・・」と以前に教えていただいたことがあります。

私たちは、たくさんのものを与えていただいているのに、それゆえに、それを自分のために保持したいというケチな思いに囚われてしまうのかもしれません。

パウロは言いました。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(Ⅱコリント8:9)」


共に祈りましょう。

主よ、物質的な豊かさに満たされていることは、あなたの祝福なのでしょうか。あるいはこれはサタンの惑わしなのでしょうか・・。主よ、真に豊かな人間にならせてください。
2018. 11. 09  
昨日、戦前から戦後にかけて活躍された村田四郎牧師の説教を読んでいて、学ばされたことを紹介します。

Ⅱコリント4:8-10にこうあります。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち破られても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を身にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

パウロという人は、ここで言われているような、さまざまな困難、苦悩を味わった人でした。

しかしパウロは、そんなこと何とも思っていない。

なぜならば、彼は死に切っているからだと、村田先生は解き明かしました。

この世の中で迫ってくる事柄に対して、すでに死んでしまっている。

十字架のイエス・キリストと共に、古い自分はもう死んだのであって、もうこの地上で何が起ころうが問題ではない。

肉体の死というものも、もう何にも問題ではない。恐怖でも何でもない。

なぜなら、もうすでに死んでしまっているのだから。

いつもイエスの死を身にまとっているというのは、そういうことなのだと言われます。

でも、そのようにして死ぬからこそ、キリストと共によみがえることもできるのです。

古い自分が十字架にかけられて終わりを告げて、死んで死に切ったところに、キリストと共に生きる新しい命が始まってくる。

永遠の輝きを帯びた、不滅の命が始まるのです。その人が、本当に生きるということが起こってくる。

信仰生活というのは、そういうものなのでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、この地上での生においてすでに私は死んでいるということが、まだよく分かっていない私たちであるのだと思います。すさまじいことが言われているのだと思います。主よ、分からせてください。そして、新しい命を私のうちに始めてください。
2017. 12. 27  
今日は10時30分から、今年最後の祈祷会です。小グループに分かれて、今年与えられた恵みを分かち合い、祈りあいたいと思います。

日頃祈祷会に出席できない方々も、ご都合許されれば、ぜひ一緒に祈りましょう。

私はこの一年間、様々な恵みがありましたが、真っ先に思い浮かんだのは、「土の器」という言葉でした。

Ⅱコリント4:7「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

この御言葉は、説教者としての姿勢を教える言葉として、田中剛二先生から教えられたものです。

「このような宝」というのは、栄光に輝くイエス・キリストの福音です。

説教者というのは、その福音を神からゆだねられ、神に遣わされて説教している神の器です。

この傲慢とも思える確信。しかし、説教者からこの傲慢を取り除くことはできないのだと、田中先生は教えてくれました。

しかし、同時に教えられたのは、その器はあくまでも、弱く貧しい土の器であって、誇るべき何も持っていないということです。

私という説教者自身は、神の言葉の前には無きに等しい土の器です。

この不適任の意識がなければ、その人は神に遣わされた説教者ではありません。

この「土の器」としての、傲慢と謙遜。そして、ただ器として用いられたいと願っての、神への忠実な奉仕。

そのような心掛けをもって奉仕がゆるされた一年でした。

とはいえ、不十分であったと思います。どうかおゆるしください。これからも、一層精進したいと願います。お祈りください。


共に祈りましょう。

主よ、今年のここまでの歩みにあなたが与えてくださったものは、星の数ほどに多くありますが、その一つ一つを数えながら、感謝し、あなたをほめたたえ、魂の充足を得ることができますように。
2016. 06. 30  
昨晩、信仰の友と分かち合った御言葉は、Ⅱコリント12:7からです。

ここでパウロは、自分の身にトゲが与えられたと言っています。それがなんだか、詳しくは分かりませんが、それは彼の「弱さ」となりました。

彼は、それが嫌で嫌で、離れ去らせてくださいと必死で祈りますが、神はそれをかなえてくださいません。

むしろ、このように示されたというのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」


弱さを抱えるダメな自分、きらいな自分が、強くなって、なりたい自分に変わる・・・私たちはそう願います。願って当然です。

そのように願うことは何も間違いではない。願っていいと思います。その願いがかなえられる時もあります。

でも、今日の御言葉から示される大事なことは、そのように私が願ったとおりに変えられることだけが、神の恵みではないということです。

弱さを抱えるダメな自分、きらいな自分・・・でも、そのあなたが、すでに神の目に100%すばらしいのです。完全なる恵みの器なのです。

そのあなたでなければ、できないことがあるのです。

そのあなたの弱さを通して、神が、特別な強さをあらわされるのです。

聖霊において、あなたの中に生きておられるイエス・キリストが、今日もあなたを用いて御業をなされます。

大丈夫。十字架の主を信じましょう。その偉大な力は、あなたの弱さの中でこそ、十分に発揮されるのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしは弱いときにこそ強い・・この信仰を与えて下さるあなたに感謝します。今日、不安を覚えている者に、人間を恐れている者に、どうか十字架の主の愛と恵みと力がそそがれますように。





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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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