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2018. 02. 15  
列王記上18章における偶像崇拝との苛烈な戦いの記事から、いろいろと考えさせられています。

偶像崇拝というのは、「神ではないものを神とする」ことに本質的問題があると言いました。

「主こそ神です、主こそ神です(列王記上18:39)」と、人々が我に返って信仰告白したように、神とはただおひとり、「主なる神」だけです。


「偶像」といっても、仏像とか、ご神体、ご神木の類だけではありません。人間を、神として崇拝させるというのもそうです。

エジプトのファラオ、ローマの皇帝・・、古代の支配者たちは、神として崇められることを要求しました。

日本においては、あの戦争に敗北するまで、天皇は「現人神」として崇拝されました。

江戸時代には、一般庶民にはまったく馴染みのなかった天皇ですが、明治政府に君主として担ぎ出されて、神格化されます。

西洋にはキリスト教があるが、日本にはそのような、国民を統合する宗教的基軸がない。だから、それに代わるものとして、神道を急ごしらえで組織化・体系化し、その頂点として天皇を置こう・・と、明治政府が考えたわけです。

これを「国家神道」といいます。それまでの日本古来の自然神道とは似て非なる、「天皇教」とでも言うべき新興宗教でした。

ところが、担ぎ出された明治天皇は、京の御所で女官たちに囲まれて育ったボンボンですから、まったく頼りないものでした。

ひどい酒好き、女好き、勉強はだめと・・・、明治政府が求める立派な君主、「現人神」からは遠く離れた実態だったようです。

だから、無理やり権威づけて、スパルタ教育もして、「こうであらねばならない」という天皇像をつくりあげていきます。これぞまさしく「偶像」です。

戦後、天皇の人間宣言はなされました。でも、この「天皇教」の構造は、実はなにひとつ変わることなくこの国に残っているのです。


共に祈りましょう。

主よ、この日本という独特の、実に独特の異教国にあって、キリストを知る者とされたということを感謝します。それゆえの様々な難しさもあります。主よ、どうか今日も、すべてのキリスト者を支え励ましてください。


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2018. 02. 14  
日曜日には、列王記上18章に記された、ドラマチックな出来事を分かち合いました。

バアルやアシェラという偶像の神々の預言者と、聖書の示す主なる神の預言者であるエリヤとの対決の場面です。

結果はエリヤの圧倒的勝利で、主なる神こそ、生きておられるまことの神だと示されたという故事でした。


改めて、偶像崇拝ということを考えますと、日本という国はたくさんの偶像に満ちています。

ただおもしろいことに、多くの人はそのことに無自覚なのですね。7割の人が、自分は「無宗教」だと答えるようです。

でも、プロテスタントのキリスト者の立場からすれば、なんとくだらない迷信にとりつかれていらっしゃるのかと、思ってしまうことがしばしばです。

バアルやアシェラ崇拝のような原始的な宗教も、いくらでも残っていますね。

あまり意識されることはありませんが、天皇という存在も、極めて宗教的な存在です。これは別の機会に考えましょう。

難しい言葉でいえば、日本人は、自分が「創唱宗教」の信者であることを否定しますが、無自覚のうちに「自然宗教」の信者なのです。

私自身は、キリスト者になる時に、「この生き方こそが理にかなっている」という思いを強くもっていました。

少なくとも、自分自身をちゃんと知ろうとしない日本人的発想から、自分は決別するのだと、ちょっとうれしくなったことを覚えています。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに出会わせていただいてから、私はものをよく考えるようになりました。世界の仕組みについて、ひとつの明確な考えをもつことができるようになりました。そして、自分自身の罪も知り、その赦しの喜びも知りました。自分のことを、大切に見つめなおすことができるようにもなりました。そのことがうれしいのです。主よ、感謝します。今日もまた、私に新しい知識を与えてください。
2018. 02. 13  
聖書においては、偶像崇拝ということが最も警戒すべき罪として、徹底的に非難されています。

私などは、聖書を読み始めた頃に、このことにとても違和感がありました。排他的な信仰を思わされ、心が引くような思いになりました。みなさんはどうでしょう?

偶像崇拝・・・、その問題の本質は、「神ではないものを神とする」というところにあります。

拝むべきでないもの、拝む必要のないものを拝む。さらには、拝ませる、ということです。

そのことによって生まれる問題は、2つです。

1つは、神様の偉大さをおとしめてしまうことです。

もう1つは、自分の存在の尊さを、また人間という尊い存在そのものをおとしめてしまうことです。

何言ってるのかよく分からないかもしれませんが、そういうことを今週は考えていきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、偶像崇拝こそ最大の罪として聖書に示されていることの意味を、よく悟らせてください。わたしたちの周りにあふれている霊的な問題を、するどく見抜く洞察力をください。そして、真に幸いな道を歩ませてください。




2018. 02. 09  
列王記上11章に記された、晩年のソロモンのあやまちから教えられています。

ソロモンの外国人の妻たちは、それぞれの故郷でなされている偶像崇拝のならわしを、イスラエルに持ち込みました。これが、一番の問題でした。

「6節 ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」と言われます。

列王記の書き方では、「主の目に悪とされること」とは偶像崇拝です。

他にも、たくさん悪いことがあります。政治的、社会的に考えれば、ソロモン以降の王たちの腐敗、失政が非難されてしかるべきです。

でも、聖書の歴史記録は、そういう面をあまり多く語りません。

評価の基準は、偶像崇拝に陥ったかどうか。主なる神への信従を貫いたかどうか、だけです。

そこがゆがむならば、すべてはゆがむ・・・ということなのでしょう。

詩編1篇に、すべては凝縮されて言い表されています。

「いかに幸いなことか・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。・・その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」


共に祈りましょう。

主よ、いつもあなたと心をひとつにできないのが、私の悩みです。主よ、赦して下さり、またこの心を整えてくださって、あなたのもとにある「幸い」をゆたかに味わわせてください。
2018. 02. 08  
列王記上11章に記された、晩年のソロモン王のあやまちについて考えています。

彼には1000人にものぼる妻たちがいました。問題は、その多くが「外国人」で、イスラエルとは異なる宗教・文化を持ち込んだということです。

彼女たちはソロモンの心を迷わせ、偶像の神々に向かわせた・・・ここが問題です。

私たちに当てはめるならば、異なる信仰をもつ、あるいは世俗化した文化しか知らない配偶者と、結婚生活をしていくことの困難を考えさせられます。

私自身はむしろ逆で、そういう「外国人」の存在であった者が、キリスト者の妻の影響によって変えられたという経験をもちます。

ですから、キリスト教信仰をもたない方との結婚によって福音が広がっていくということを、積極的に考えたいと、いつも思っています。

ただ、それは一番の理想ですが、そうはうまくいかない。むしろ、ソロモンのように聖書信仰から離れてしまうケースのほうが多いのが、悩みの種です。

オフェンシブに考えるか、デフェンシブに考えるかの違いですね。


問題は、何を一番大切にするかです。ソロモンは、王女たちの歓心を得ることを第一として、偶像を持ち込みました。

私の場合は、デートよりも日曜日の礼拝を優先するというところに、いい意味でのショックを覚えたのが、求道のはじまりだったように思います。

共に祈りましょう。


主よ、配偶者の救いを求める者が、私たちの教会にもたくさんいます。どうかその祈りを聞きあげてください。一人一人が、あなたとの関係を確立し、世の感化を受けることなく、むしろ福音の感化を及ぼすことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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