FC2ブログ
2018. 03. 02  
日曜日の説教の中でお伝えしましたが、昔、突然の病が与えられたことで、「神様から裁き(=懲らしめ)を受けたのです・・」と受け止めた方がいました。

そういう受け止め方が正しいのかどうか、難しいところです。

しかし、その方は、誰かにそう言われたわけではなく、自分自身をかえりみて、自分でそのように受け止めました。

きっと、よほどのことがあってのことでしょう。そうであるなら、そう受け止めて、悔い改めればいいのだと思います。

それは、その人と神様とのあいだでしか分からないことです。

懲らしめをいただいたのだと思ったのなら、たちどまって、独り静かに、悔い改めの時を過ごせばいい。


私たちの信仰の先祖も、バビロン捕囚の悲劇を、神の懲らしめとして大事に受け止めて、それまでの過ちを悔い改めました。

そのようにして打ち砕かれ悔いる心を、神は決して侮られません(詩編51:19)。

そこから再び、神との新しい関係がはじまります。次の言葉は真実です。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。

・・・軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。
塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。

主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。(哀歌3:22-33)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたの慈しみはあまりに深くて、時に、私たちの歩みに本気でお怒りになり、懲らしめさえも与えてくださることを思います。今日も私たちが、あなたとの関係において、自分自身をよく吟味して、なすべきことを見定めることができますように。
スポンサーサイト



2016. 07. 13  
まるでおみくじのように、目をつむって聖書を開いて、そこに書かれている言葉を、今日の指針とする・・・そういう読み方は、いつもはあまりお勧めしていません。

それに反するために心苦しいのですが、今朝、別の黙想をしている際に、たまたま開いた箇所にあった御言葉に、心奪われてしまいました。

「預言者はあなたに託宣を与えたが、むなしい、偽りの言葉ばかりであった。
あなたを立ち直らせるには、一度(ひとたび)、罪をあばくべきなのに、むなしく、迷わすことを、あなたに向かって告げるばかりであった。(哀歌2:14)」


これは、罪の裁きとして、バビロン捕囚という悲劇にあった神の民に対して語られた言葉です。

裁きに会う前、偽預言者たちは、むなしい、偽りの慰めや平安ばかりを語りました。

しかし、崩れた共同体を立ち直らせるには、ひとたび、罪をあばくことが必要だったのでした。


こういう言葉に、色んなことを考えさせられます。

歴史の負の面をまるで学びもせずに、美しい国と自賛し、危機感を妙なかたちでくらまして、人々を励まそうと熱心な指導者たちのことも思います。

教会もまた同様でしょう。これまでの歩みの間違いにちゃんと向き合うことを避けて、慰めばかりを語っている。

あるいは、先日あずかった講演では、「罪の問題に真剣に向き合おうとしない牧師のことを、若者は尊敬しない」とも教わりました。

神の御前で、何が罪深いことなのか。どのように生きることを、主は望んでおられるのか。

そのことを一緒に問い求める中で、衝突や葛藤も起こり、互いに傷を受けるかもしれません。でも、そこから逃げずに、ちゃんと向き合ってくれて、一緒に乗り越えようとしてくれる牧師でなければ、若者は、真に尊敬することはないと、教えられました。


「あなたを立ち直らせるには、ひとたび、罪をあばくべきなのに・・・」

もちろん、罪をあばいて、それでほったらかしではありません。あばくのは、神の赦しのもとへ導くためです。

神の御心に従うことができない自分・・、その自分が赦されている。この赦しの喜びが、人を立ち直らせてくれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちが、罪の赦しの喜びを、真に味わうことができますように導いてください。
2014. 02. 06  
昨日の朝の祈祷会では、創世記15章から、信仰の本質としての「待つ」ことを教えられました。

不妊の妻サライに子が与えられるとの神の約束が、いつまでたっても成就しない。

そういう中でアブラムはさらに、この先400年のヴィジョンを神から示されました(13-16節)。

400年・・気の遠くなるような時間です。まだ、手応えは何一つないのに・・・。

でも、目の前の現実に一喜一憂せず、神の計画に身をゆだね、いのちを約束してくださった神を信頼して、いつまでも「待ち望む」、

それが「信じる」ということだと教えられているように思います。

祈祷会の後である方が、心のスケールが大きくされたと喜んでおられました。

皆さんが今日、神様の広く、高く、深く、大きな恵みのスケールを覚えながら、のびやかに歩まれることを祈っています。

「わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分と、わたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。(哀歌3:20-24)」


共に祈りましょう。

主よ、またこの朝、あなたの憐れみ、あなたの慈しみを新たに覚えさせていただきました。主よ、今日もあなたにこの身をゆだねます。窮屈な心を解き放ち、永遠に触れる喜びを得させてください。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR