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2019. 09. 14  
今週は、いろんなことがありました。

台風による停電などのダメージを強く受けておられる方がいます。

親類の葬儀で、心身共に疲れている方もおられます。

体の弱さを嘆きながら、明日の礼拝に集いたいと切実に願っている方もおられます。

そういう皆さんとともに、今週発見した祈りの言葉を分かち合いたいと思います。

歴代誌下20:12の、ヨシャファト王の祈りです。

モアブとアンモンの大軍が攻めて来るのを前にして、おのれの無力を嘆き、王は祈ります。

「わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」


「何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」

あまりにも弱々しい祈りです。でも、これが私たちの真実の姿なのだと思います。

この祈りに対し、主の霊を受けた者が言いました。

「よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。(15節)」


共に祈りましょう。

主よ、私たちは自分自身の弱さを痛感させられています。しかし、この体も魂も、あなたのもの。私たち以上に、私たちを大切なものとして扱っていてくださるあなたに、すべてをおゆだねいたします。私たちには、ただ、あなたを仰ぐことしかできません。
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2018. 02. 27  
先の日曜日は、「バビロン捕囚」の悲劇について記録した、歴代誌下36章の記事を分かち合いました。

朝の礼拝で、このような箇所を取り上げる教会は、多くはないと思います。

一度この「バビロン捕囚」を、真正面から取り上げて、説教を取り次いでみたいと願っていました。「バビロン捕囚」において味わった悲惨と、神の民の悔い改めということが分からないと、聖書全体の構造がよく分からないままになるからです。

聖書が教えてくれる神様の救いをとらえるためには、大きく3つのポイントがあります。

エジプトからの解放と、バビロンからの解放、そしてイエス・キリストの十字架と復活による罪からの解放です。


主なる神は、助けを求めるイスラエルの人々の叫びにこたえて、「奴隷の家」であるエジプトから救い出してくださいました。

そして、海を越え、ヨルダン川を越えて、約束の地カナンに入れてくださり、そこで豊かな王国を建て上げてくださいました。

これが、終わりの時に完成する「神の国」の原型とも言えます。


しかし、繁栄もつかの間、歴代の王は偶像崇拝にふけり、社会は腐敗し、人心は荒れ、王国は破滅に向かいます。

そして、ついに神は怒りを爆発させ、新バビロニア帝国を用いて怒りの鞭をふるわれ、王国は滅亡します。

神の懲らしめ、裁きとしての「バビロン捕囚」の悲劇です。

その時味わった悲惨・・・。飢え果てた母親が、子を煮炊きして食うというような地獄絵図・・・(哀歌4:10)。

これが、「罪人の悲惨」というものです。そしてこの捕囚の悲しみの中で、人々は、神に背き続けた自分たちの「罪」ということをはっきりと悟ったのです。


しかし、この破滅は、神との関係の終わりではありませんでした。

救いの糸は、まだ切れずに、か細く残っていたのです。神は、怒りに怒られたが、決して彼らを見捨てることはできなかった。憐れみを絶やすことはできなかった。

それゆえ、再び救いの手を差し伸ばし、失われてしまった罪人たちをひとりひとり探して、連れ戻して、新しい出発をさせてくださいます。

そのようにして、かつてエジプトから救い出してくださった神が、バビロンから救い出してくださったのです。


この神が、「罪」にとらわれた人類を、イエス・キリストにおいて裁き、かつ、救ってくださる、というわけです。


共に祈りましょう。

主よ、旧約の歴史をとおして、あなたのことをよく知り、わたしたちの先祖の歩みをよく知ることができますように。そして、人間のことを知り、自分自身のことをもよく知ることができますように。
2015. 09. 17  
日曜日に読んだ「ぶどう園と農夫」のたとえの中で、ぶどう園の主人が遣わした僕たちを、小作人の農夫たちが次々に殺していくという、おぞましい場面が描かれていました。

ぶどう園の主人は、神様のことです。僕たちは、神様から遣わされた預言者たちのことです。

その預言者たちを拒み、迫害し、殺しもした・・・それが、旧約の神の民イスラエルが積み重ねてきた過ちの歴史でした。

「・・・彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。

『神はこう言われる。なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』

ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。・・・ゼカルヤは死に際して言った。『主がこれをご覧になり、責任を追及してくださいますように。(歴代誌下24:19-22)」

このようにして、預言者たちを殺してきた神の民の罪は、神の独り子イエス様さえも殺してしまうところまで極まってしまいました。

しかし、そのようにして人々から捨てられた石であるイエス様が、大切なかなめ石とされていく・・その神の不思議な救いのご計画についてはまた明日分かち合いましょう。

今日は、私たちの霊的な先祖であるイスラエルの人々の過ちに思いをいたし、自らを省みたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ。先祖の過ちを繰り返すことがないように、私たちのかたくなさを砕いてください。私たちの内にも、預言者の戒めに耳を貸そうとしない間違った心があります。どうかイエスの十字架の血のゆえに、そのような私を赦してください。そして私の内に新しい心を創造し、あなたとの真実な交わりへと至らせてください。
2014. 03. 26  
先の主日の日曜学校で、ダビデとゴリアテの戦いの物語を子どもたちと分かち合いました。

強く印象に残ったのはこの言葉です。「この戦いは主のものだ。(サムエル下17:47)」

巨人ダビデと戦わんとする少年ダビデが言い放った言葉です。

この戦いは、わたしが戦うのではない。わたしの神である主が、ご自身の栄光のためにお前と戦われる。


歴代誌下20:15にも、敵の襲来を迎え撃つヨシャファト王に対する、こういう言葉がありました。

「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。

・・・あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。・・恐れるな。おじけるな。・・主が共にいる。」


私たちには、今日も様々な形での信仰の戦いがあります。

迫害、思わぬトラブル、難しい人間関係、癒えぬ病、痛み、将来への不安・・・、色んな攻撃が、魂を揺さぶってきます。

しかし、主イエスを信じる神の民のために、主なる神は戦われます。

その戦いは、あなたの戦いではない。主なる神ご自身の戦いです。だから、恐れるな。おじけるな・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今日も戦いに直面するすべての民を、どうか背負い、担い、救い出してください。病と闘う者がいます。試練と闘う者がいます。どうか、あなたがその戦いを担ってください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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