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2014. 06. 05  
第二の誓約「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めますか。」

私たちは罪人であると、聖書には教えられます。

それは、神様がくださった「律法=おきて・教え・道」があるのに、それを守っていないから「有罪」だという意味です。

こういう「律法」が、実はすべての人間の心に生まれながらに教えられていると、ローマ2:11-15は教えてくれます。

リヴィングバイブルが分かりやすく訳してくれています。

「神様はどんな罪も罰します。(聖書を知らぬ)外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが、文字に書かれた神様のおきてを知らなくてもです。彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。心の中には、神様のおきてが書かれてあるのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。・・・


ここでいう「良心」というのは「善良な心」ということではなく、「こんなことしていたら神に裁かれる・・」と注意報を流す、センサーのようなものです。

今、注意報が鳴っている方がいらっしゃるなら、どうかそれをないがしろにしてしまわないで、

聖書に正確に示された神の「律法」と向き合い、神の前での自分の罪深さを考えてみましょう。

そこから、命の道は始まります。


共に祈りましょう。

主よ、良心の呵責を覚えながらも、罪を重ねてしまうようなこの罪人を赦してください。自分の力では方向を変えることもできません。どうか今日も、聖霊の導きによって、自分の罪と向き合わせてください。
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2014. 05. 15  
第二の誓約「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めますか。」

昨日、朝の祈祷会で、創世記19章のソドムとゴモラの滅亡の記録を読みました。

罪と腐敗に満ちた都市ソドムに対する、神の怒りの裁きの記録です。

そのソドムの滅亡に先立ち、神の友であるアブラハムが、とりなしの祈りをしました。

「神よ、あの町に正しい者が10人いれば、どうか裁きを思いとどまってください。」

このことについて、ある兄弟が黙想しておられました。

きっとアブラハムは、せめて10人くらいはいるだろうと思ったのではないか・・。

今ならば、東京という、あの現代のソドムにも、せめて10人くらいは、正しい人がいるのではないか・・。

でも、これは、人間の「罪」の深刻さを、甘く見ている考えなのです。

神の御前に、正しい人は一人だにもおりません。

そして、私たちの中に、正しい部分は、0.00001パーセントもありません。

「正しい者はいない。一人もいない。」と書かれている通りです(ローマ3:10~18)。

私たちが、そのようであるからこそ、イエス・キリストに来ていただく必要があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御前で、罪人であることを認めることさえできない罪人であります。どうか赦してください。今日の日を、自分の罪を正しく見つめる一日とさせてください。
2014. 05. 01  
誓約の第二は、「罪人であることを認める」ことです。

「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めますか。」



「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。(詩篇130:3,4)」

神の御前で自分には罪がある・・・、私は神の赦しを必要としている・・・。

この自覚こそ、クリスチャンの特質だと思います。

私はいつも申し上げますが、「自分の罪が分からない」ということにこそ、罪人の罪人たるゆえんがあります。

ですから、自分の罪というのは、簡単に分かるものではありませんし、分かったと思われては困ります。

しかし、まず「自分が罪人である」ことを認めてください。

自分の愚かさ、ずるさ、心の悪・・、すべては神に見られています。

信仰の歩みは、そういう自分の罪に、自分でもどんどん気付いていく歩みです。

でも、罪が見えれば見えるほど、この罪人に注がれている神の恵みもまた、どんどんどんどん見えてくるのです。


共に祈りましょう。

恵みの主よ、今日もこの罪人に、人生の祝福と喜びを味わわせてくださるあなたに感謝します。私たちが悔い改め、まっすぐにあなたと向き合い、あなたを喜ぶことができますように、聖霊の導きをお与えください。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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