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2019. 10. 16  
次の主日はローマ2:1-16を分かち合います。その前の段落である1:18-32には、人類の罪に対する神様の「怒り」について記されています。

「怒り」というのは、愛情の裏返しであります。

自分にまったく興味のない芸能界のスキャンダルには、あきれはしても、怒りは感じません。

神は、私たちの間違った振る舞いに怒りを覚えられます。それは、関係者だからです。責任があるのです。


私たち人類の罪は、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」と、1:21にあります。

教会に来たことがなくても、神様のことをまったく知らない人などいないのです。

でも、うすうす知っていながらも、ちゃんと神様と向き合うことから逃げ回っていたり、神様をふさわしくお取り扱いせず、勝手な神々を自分勝手にこしらえて、宗教的欲求を手軽に満たしているのです。

そこでは、神様の下に自分を置くのではなく、自分の下に神を置くという、根源的な倒錯状態があります。

そこがサカサマだから、生き方もサカサマになります。

そうして、24-32節では、サカサマな人間たちの、倫理も道徳もひっくりかえってしまった社会の問題が描かれます。

これは、古代のローマ社会を糾弾する言葉ですが、現代にもそのまま通用します。

そういう社会を見つめながら、「神は、お怒りになってしまわれて、ほったらかしにされているのだと・・」とパウロは悟っていたのです。

24節、26節、28節に、「神が彼らを罪深い思いに、引き渡された」という表現が繰り返されます。

くだらない心のままに、落ちるところまで落ちていけと、ほったらかしておられるということです。

そうして落ちていく人間に、静かな怒りを覚えながら、神はじっと忍耐し、見守っておられます。

それは、放蕩息子の悔い改めをじっと待っている、父親の愛情と、表裏一体です。

落ちるところまで落ちねば、人は、悔い改めることができないからです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの怒りに気付きもせず、あるいはそれを知らないふりをしながら、過ちを重ね続ける私たちの時代を赦してください。まずは、私が、あなたとのサカサマな関係をただすことができますように、聖霊の助けをください。
2019. 10. 10  
次主日はローマ1:16-17を分かち合いますが、鍵になるのは「神の義」という言葉です。

「福音には神の義が啓示されている」と言われています。

これはとても意味領域の広い語で、どうにも翻訳しきれないので、あいまいなまま「義」という言葉で残してあるのだと思います。

聖書に独特の言葉遣いで、だれもが分かっているようで本当はよく分かっていない・・、そういう言葉かもしれません。

パウロはユダヤ人なので、彼の根本的な思想は、旧約聖書の教えに基いています。

旧約聖書の言葉遣いによれば、この「義(=ヘブライ語でツェデク、ツェダカー)」というのは、「救い、慈しみ、まこと」などという言葉と、並行的・同義的に用いられたりします。

例えば、詩編98:2-3「主は“救い”を示し、“恵みの御業”を諸国の民の目に現わし、イスラエルの家に対する“慈しみ”と“まこと”を御心に留められた。」

ここで、「恵みの御業」と訳されているのが「義:ツェダカー」です。

新共同訳では、旧約聖書のほとんど(確か、詩編では全部)で、「恵みの御業」と訳されています。

そういうことから考えて、ローマ1:17の「神の義」とは、ほとんど「神の救い」と言ってもよいと考える人もいます。

「神の慈悲、慈愛」と訳すことを提案する人もいます。

以前に私が試訳したときに、この「神の義」とは「罪に歪んでしまった世界をまっすぐに回復しようとなさる神の責任感」と、試みに定義してみましたのは、そういう理解に基づくものです。


共に祈りましょう。

主よ、福音に啓示されているあなたの義を知ることに比べたら、誰がどうしたこうしたとか、私たちがこの愚かな現実においてこだわっている一切は、実にくだらん、どうでもいいと思えてきました。主よ、あなたのツェダカーを、もっと広く深く教えてください。この魂を、永遠の高みに引き上げてください。
2019. 10. 09  
次の主日はローマ1:16-17です。ローマ書の心臓とも言われるような、重要なところです。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」


わたしは福音を恥としない。

この16節に至るまでのローマ書の冒頭で、パウロは何度も「福音」と繰り返します。

自分は「神の福音のために選び出された」使徒である(1:1)。

「この福音」とは、「聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であって、「御子に関すること」すなわちイエス・キリストのことである(1:2-4)。

自分は「御子の福音を宣べ伝えながら神に仕える」ものであり、ローマ教会のあなたがたにもなんとかしてお会いして、それをぜひ分かち合いたい(1:9-15)。

このように、「福音をひとりでも多くの人に届ける」ことが、自分の生れてきた意味であり、使命・役割だと、はっきりと自覚していたのがパウロでした。

14節では、「果たすべき責任」という言葉で言っていますね。

私たちにもそれぞれに、主に対して「果たすべき責任」があるはずです。福音を届けるべき人がいるはずです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしは福音を恥じとしないという言葉に、感動します。イエス・キリストを知ることのできた喜びが、わたしの心にもあります。イエス・キリストを知ってほしい、この方において示された限りない神の愛を知ってほしい・・そういう情熱が、わたしの心にもあります。主よ、用いてください。
2019. 09. 25  
昨日は休暇でしたので、配信をお休みしました。すみません。

次主日は、山口陽一先生をお迎えしての歓迎礼拝です。「私たちのメタモルフォーゼ」という興味深いタイトル。

三か所の聖書テキストが指定されていますが、その一つがローマ12:1-2です。

特に2節が大事でしょう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

新改訳2017ではこうです。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

私たちにとって「メタモルフォーゼ=変化、変身」とは、このように、神の御心にぴったりくる者として、自分が変えられていくことです。

私も日々、変化と成長を求め、「あなたの御心が、わたしの心となりますように」と祈ってます。

今日のローマ12:2でおもしろいのは、「自分を変えていただく」と、受身形になっていることです。

聖霊によって「変えていただく」のです。自力ではできません。

でも同時に、「心を新たにすることで」とあるように、私たちのほうでも、心の向きを変えて、新しくされることを望むことも必要です。

聖霊が働かれる時というのは、そういう私たちの熱心を必ず起こされるのです。

ボーっとしている間に、変身させられているということはありえません。

だから、恵みの導き100%であるのと同時に、私たちの熱心も100%、その両方が与えられて、私たちは「自分を変えていただく」ことができるのです。


共に祈りましょう。

主よ、歓迎礼拝を楽しみにしています。私たち自身を、あなたの御言葉によって変えてください。また、私たちの家族や友人、来会されるすべての人に、恵みの変身が与えられますように。
2019. 07. 09  
先の主日は、使徒言行録9章のサウロの回心の物語を分かち合いました。

神の栄光のために、自らの正義をまるで疑うことなくキリスト者を迫害し、その手で殺してさえいたサウロです(使徒22:4)。

しかし、彼は復活の主イエスの栄光に触れて、人生をひっくり返されました。

自分の信じてきたことがまったく間違いであり、取り返しのつかない過ちを犯してしまったと気付きました。

それで、目の見えない暗黒の中で、何も手につかないで、飲まず食わずの三日間を過ごしたのでした。

これは彼にとって、古い自分の死でありました。

イエス様が十字架で死んで三日間墓におられたように、三日の暗黒を過ごす中で、これまでの彼は死んだのです。

そしてその後、アナニアに手を置かれることで、彼は光の中へとよみがえります。

これまでのすべてを主に赦され、新しい命へと呼び覚まされたのです。


やがて伝道者パウロとして、ローマの信徒への手紙6:6-11において、彼はこう伝えます。新改訳2017がいいです。

「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。

・・・私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

・・・同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」


私たちもそれぞれに、これまでの自分が決定的に間違いであったと、認めることへと導かれます。

しかし、そうして自分の罪を知った者に対し、主イエスはかぎりなくやさしく、赦しの愛を注がれます。

その赦しにあずかった者には、すべてが新しく見えはじめます。

「キリスト・イエスにおいて現わされた神の愛から、私たちは引き離すことは決してできない」との、パウロの確信を共有することでしょう。

その神の愛の光の中で、感謝と喜びに生きる。新しい人が生まれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのかたくなな心を砕き、この目からうろこを落としてください。私たちが、新しく生きることができますように・・・。

プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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