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2016. 12. 14  
今日のリジョイスはアモス8章でした。11-12節が有名ですね。

「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

人々は海から海へと渡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。」


このアモス8章には、背信の北イスラエル王国の民に下される、恐るべき裁きの予告がなされています。

その中でも、最も恐るべき裁きこそ、「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」なのです。



わたしたちは、その恐ろしさを、本当に分かっているでしょうか。



どうしても主の言葉を聞きたいという、飢え渇きを経験された方もいらっしゃることでしょう。

昨日の朝岡先生の話ではありませんが、まさしく主の言葉こそが命の源であるということを、経験させていただく時があります。

それを経験するまでは、わたしたちは、主の言葉に対する真剣さを欠いたままでしょうか。

それは悲しいことですね。そして、そのままでは、きっといつまでも、分からないことでしょう。

もしかすると、そのような私たちの鈍感な状態こそが、もう主の裁きの手の中にあるということなのではないでしょうか。

そうだとすれば、恐るべきことです。

その裁きから救い出すために、神の「言」が人となって生まれて来てくださいました。それがクリスマスです。そしてその「言」なる方が、手を差し伸べていてくださいます。

今、私たちにとって、そのイエスの手を握るというのは、聖書に親しんでいくということとイコールなのです。


共に祈りましょう。

主よ。あなたからあふれる御言葉をいただきながら、そのありがたさをわきまえないでいる私たちを赦してください。どうか今日、あなたの御言葉によって命をいただく、驚くべき「みことば体験」をなさせてください。




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2016. 12. 07  
今朝、リジョイスに指定されていたアモス書5章を読んでいました。

「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。

善を求めよ、悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主は、お前たちと共にいてくださるだろう。(アモス5:13-14)」

ドキッとした言葉でした。

自分の心は決定的に、神の御心から離れて、すなわち「善」から離れて、悪い時代にのみこまれている。

それなのに、神には、共にいてほしいと願う。どうして共にいてくれないのかと、文句を言う。

あるいは、自分には神がついているから大丈夫と、妙に大胆である。しかし、そのようにして自分に都合よく信仰している「神」とは、どういう存在でしょうか。

それは、まさしく自分自身でつくりあげた、偶像に過ぎないのではないか・・・。


神と共に生きるとはどういうことかと、考えさせられている朝です。

Ⅰペトロ2:24にはこうありました。「(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」

「罪に対して死ぬ」とは意訳で、「罪から離れる」という言葉です。

そして、「義によって生きる」とは「義に生きる」、それはアモス書の言葉なら「善」に生きるということです。神との正しい関係に生きる。

それは、これから始まる新しい道です。

キリストの十字架によって、これまでの罪を赦された者として、根本的な悔い改めをもって「善を求める」ことをはじめ、神と共に生きる新しい命に進んでいく。

イエス様は、私たちにそういう未来を用意するために、十字架にかかってくださって、過去を清算してくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
2016. 10. 20  

今朝はアモス8:11の御言葉に聴きましょう。

「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

人々は海から海へと渡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。」

神様は、霊の糧である「主の言葉」の飢饉を与えると言われます。

それは、食糧の飢饉よりも、もっとおそるべき、最も悲しむべき裁きです。

食べるもの、飲むものはたくさんあるかもしれない。でも、主の言葉を聞くことができないで、魂が飢え渇き続ける・・・、そのことが何より恐ろしいことなのです。

今まさに、そのような飢え渇きの中に、たくさんの人がいる。真実の言葉を求めて、あえいでいる人がたくさんいる。

そういう人々は、もはや主の言葉を聞くことができないのでしょうか。

・・・・そうではないのです。

今や、キリストの十字架によって、裁きはすべて取り除かれました。

本当に聴きたいと願うならば、主の言葉はいつでも聖書から、あるいは教会の説教から、聴くことができるのです。

だからこそわたしたちは、霊の糧を慕い求めることに、もっとひたむきでありたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、主の言葉を受け取ることのゆるされている幸いを感謝します。どうか今日も、折に適った御言葉を与えて下さって、それぞれの信仰生活を深めてくださいますように。
2015. 09. 04  
心の耳をすまして神様の御声に聞く、ということを今週のテーマとしています。

今日分かち合いたいのは、アモス8:11-12の「御言葉の飢饉(ききん)」を告げる有名な預言です。

「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく
主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。」

これは、終わりの時の裁きの予告として与えられています。

アモスの時代、ヤロブアム2世という王の下、イスラエルの国はつかの間の繁栄を享受していました。

そのような浮き足立ったバブルの時代に、人々の心は大切なものを見失い、やがてあぶくが消え去った後、急ぎ足で滅びへの階段を下り始めました。

まるで、どこかの国のようです。

そんなバブルの時代に、アモスは裁きを預言していたのです。もうすぐ飢饉が来る。それも、パンや水ではない。神の御言葉に聞けないという飢饉だ。それは、今あなたがたには、どうでもいいと思えるようなものかもしれない。しかし、人間にとって最も恐るべき、悲しむべきことなのだ・・・。

私たちの時代は、まさにそのような飢饉が起こっているように思うのです。

そして、その恐ろしさに気付いた人々は、本当の言葉を探し始めています。しかし、どこにも見いだせない・・・。

教会においても、それが見いだせないのならば、こんなに悲しいことはありません。今こそ、まず私たちが、聖書にしっかり向き合い、心の耳をすましましょう。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉を与えてください。私たちには、この時代には、あなたの御言葉が必要です。真に人間を生かす言葉を与えてください。私たちを教え、励まし、直してくださって、この時代を救ってください。
2014. 06. 25  
日曜日の説教への応答として、ある兄弟がアモス書を思い出したと教えてくださいました。

イエス様が、悪を裁く神の正義を伝えるように、アモスも正義の預言者と呼ばれ、社会の不正や腐敗を糾弾します。

でも、イエス様のメッセージが、断罪ではなく悔い改めへの招きだったように、

アモスもまた、人間の滅びを望まぬ神の、切ないまでの愛情を伝えます。

「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。(アモス5:4)」


わたしを求めよ、わたしのところに帰っておいで・・。

「そして生きよ。」

これは、「死んではならない」との神の訴えです。



この御言葉は、解説していくと、どんどん言葉の力を邪魔してしまいそうで、今日はもう何も語りません。

ご自分と神様との関係の中で、自由に黙想を深めてください。

「わたしを求めよ。そして生きよ。」この御言葉と共に、一日をお過ごしください。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは、死んでしまっているのでしょうか。きっと私たちは、あなたが言っておられる「生きる」喜びを、まだこれっぽっちも知りません。どうか、教えてください。生きたいのです。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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