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2015. 04. 18  
使徒信条の学びも、ついに今日で最後です。「永遠の命」の喜びを覚えて終わりましょう。

Ⅰコリント15:19にこう言われています、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

キリストの与えてくださる希望は、「この世の生活」だけではなく「永遠の世界」に関わるものです。

永遠の世界のことは、神様ご自身に教えてもらわなければ分かりませんが、聖書というのは、そういう神の啓示を書き記しているからこそ、聖書として大切にされてきました。

そしてその聖書によれば、すべてが終わるその向こうに、死者の復活ということがあるのだと示されています。

そこから始まる「永遠の命」・・・、それは罪と死の呪縛から完全に解放された世界です。

「この世の生活」は、どれほど幸福でも、罪の悲惨があります。死がすべてを空しくします。

しかし、永遠の命の世界は、一切の労苦がありません。憂いがありません。罪が邪魔をしません。

だから、もう誰も傷つかず、愛し合うことができます。自分のことも、ありのままに愛せるようになります。

今まで見えなかった神の恵みが、明らかに見えます。神のすばらしさを、そのすばらしさのままに受け取って、賛美することができるのです!!


共に祈りましょう。

主よ、永遠の命を与えてくださって感謝します。地上の事柄によって心を小さくしてしまう私たちの目を開き、永遠の喜びをとらえさせてください。
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2015. 04. 17  
使徒信条「身体のよみがえり、永遠の命を信じる」を考えます。

世の終わりの時に「復活」させていただく時、私たちは、イエス・キリストの復活の身体と同じ、栄光の身体を与えられます。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ3:21)」


しかし、そのキリストの栄光の体には、十字架の傷跡が残ったままであることを、忘れてはいけません。

罪を引き受け、苦難を受けて、血を流した、あの生々しい傷跡が残ったままです。

それと同じように、私たちの復活の体にも、きっとたくさんの傷跡が残るのでしょう。

この罪と死と病との戦いにもまれた人生において、私たちが味わった痛み、悲しみ、苦しみが、様々な傷跡となって、この体に刻まれています。

迫害された人の傷も残るのでしょう。激しく転んだ傷や、乗り越えた手術の跡なども残るのかもしれませんね。

それらすべては無駄ではなかったのです。それらもすべて、神が与えてくださったものです。意味ある傷跡です。だから、残ります。

その傷跡に刻まれた神の恵みが、今は見えませんが、復活の時には、きっと明らかに見えるようになります。

今まで、コンプレックスでしかなかったものも、私たちの永遠の生を彩る大切な思い出の数々として、私たちに与えられ直す・・、それが復活の希望の時です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちはこの地上の生涯に取り組み、たくさん傷つき、疲れ果ててしまうかもしれません。でも、そのすべてが栄光の輝きを帯びる、復活の体の希望を仰ぎ見ます!!主よ、今日も心を高く引き上げてください。
2015. 04. 16  
使徒信条の最後、「身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の命を信じる」を学びましょう。

ちょうど昨日、引退牧師の横田隆先生をお迎えしての「キリスト教の『終活』のススメ」という集会がありました。

コヘレトの言葉12:1-8を引きながら、人生の終わりに差しかかる中での、肉体の衰えによる不安や、死に向かう恐れについて語られ、参加者の共感を呼んでいました。

「止まない雨はない」というのは若いときの話で、年を取ると何もかもが億劫になり「明日もまた雨」と思う・・・。

手足が震え、ビンのふたが開けられない・・。針に糸を通すことができない・・。

そうして肉体は衰え、最後は「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。(コヘレト12:7)」と、死を迎えます。

そういう具合に、人間は結局だれも朽ち果てていく。だから「なんと空しいことか、・・すべては空しい」と、コヘレトは言います(8節)。

確かに、神との正しい関係を失ったまま死を迎えるならば、そこには空しさしか残らないでしょう。

しかし、聖書は、その空しさから人間をあがなう、身体のよみがえりの希望を告げるのです。

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(Ⅰテサロニケ4:14)」


共に祈りましょう。

大いなる全能の創造主よ。どうか私たちが、死に向かっていく恐れ、不安、空しさにのみこまれてしまわないように、復活の希望を確かにしてください。
2015. 04. 15  
使徒信条「罪の赦し」を信じるを考えています。

カルヴァン先生が、「キリスト教綱要」の書き出しにこう書いています。

「人間にとって二つの認識が重要である。それは神を認識することとわれわれ自身を認識することである。」

神を認識することと同じだけ、我々自身をしっかり知ることが大事です。

それは、「神に赦されねば滅びるよりない罪人としての自分自身」を知るということです。それをなくしては、神を正しく知るということもままならない。

そしてこういう風に言います。「・・・自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできないのである。」

「自分自身に対する不快感」という言葉が、刺さります。

こんな自分はもうまっぴらだ、がっかりだ・・という思いです。

自分自身の罪深さ、弱さ、醜さということをまっすぐ見つめると、自分を嫌いになります。

でもそうやってもう頭を上げることもできないくらいに、うなだれて、ひざまずく時に初めて、神を真剣に渇望するようになる・・。


実際は、そうもうまくはいかないでしょう。残念ながら、人間というのは、そうやって自分に絶望しながらも、なお自分にしがみつき、自分の道を行く愚かさを抱えています。

それが、人間の「罪」の深刻さです。その「罪の赦し」のために、十字架の犠牲が必要でした。

「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)」


共に祈りましょう。

主よ、私たち自身の罪深さを、本当に知り、認めることができるようにしてください。そして、あなたの真実の偉大さを、愛の深さを、本当に知ることができますように。
2015. 04. 14  
使徒信条の学び、今週で最後です。「我は、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」。

今日は、「罪の赦し」の恵みを覚えます。

「【新改訳】ミカ書7:18-19  あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎(とが)を赦し、

ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」


イスラム教について少しだけ学びましたが、その神観は、キリスト教ととても良く似ています。

では、イスラム教からキリスト教へ改宗する人は、どこに決定的な違いを認めるのか・・。

それは、罪(原罪)の自覚と、イエス・キリストの十字架によるその赦しです。

ここに、私たちにとって、決定的なことがあるのです。

「ハイデルベルク問56 『罪のゆるし』について、あなたは何を信じていますか。

答:神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、

それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。」


共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ、今日も私たちの過ちと背きを赦し、忍耐をもって、良い方向へと導いてください。罪を憎み、罪と戦う者として、生まれ変わっていくことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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