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2019. 10. 11  
昨日から「神の義」について考えています。ヒントとなるのは、旧約聖書イザヤ51:4-5です。

「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。

教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。

わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。

島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」


ここで「“わたしの正義”は近く」とあるのが、ローマ1:17の「神の義」というのと同じ言葉遣いです。

ここでは「救い」という言葉や、神がさしのべられる救いの「腕」という言葉と、並行的・同義的に使われています。

「裁き」という言葉もありますが、これは「支配、秩序、取り仕切り」というニュアンスが強いので、イエス様が「神の国が近づいた!!」と言われたのと同じことが言われていると、わたしは考えます。

それらのことを考えあわせますと、このイザヤ書の言葉は、イエス・キリストの到来の預言に他なりません。

「“教え”はわたしのもとから出る」と言われます。

この「教え」は、トーラーという語であり、神の民にとって命よりも大切な「神の御言葉」のことです。

その神の言葉が、人間となってきてくださった方が、イエス・キリストでした(ヨハネ1:1)。

神のもとから出て、私たち罪人に神の御心のすべてを明らかにしてくださった、神の「教え」そのものである方、イエス様。

その方が到来するその時、それが「神の義」が現われ、「救い」が現われ、全世界に神の救いの「腕」が差し伸べられる・・・。

そういう預言なのです。そういう預言が成就したと、新約聖書は伝えているのです。


共に祈りましょう。

主よ、大変に大きな台風が近づいています。しかしこのような災害を、あなたの怒りと呪いとして考える必要のないことを、今や私たちは知っていますから感謝します。あなたはイエス・キリストを与えてくださり、大いなる慈しみを明らかにしてくださいました。ですから、どんな時も、私たちを愛によって導いてくださるあなたの御腕に信頼します。しかし主よ、わたしたちは本当に無力な者です。どうか憐れみ助けてください。
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2019. 04. 11  
今日はイザヤ書53:4-6です。フランシスコ会訳が印象的でした。

「まことに、彼はわたしたちの病を担い、わたしたちの苦しみを背負った。わたしたちは、彼が神によって打たれ、たたかれ、卑しめられていると考えた。

彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、彼の傷によってわたしたちは癒された。

わたしたちはみな、羊のように迷い、それぞれ自分の道に向かったが、主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。」


特に印象的だったのは、最後の「主はわたしたちみなの悪を」彼に負わせられたというところです。

新共同訳では「わたしたちの罪をすべて」です。他にも「咎」「過ち」という訳もされますが、「わたしたちの悪」と言われた時に、ドキッとしました。

私たちの日常に繰り返してしまっている、悪意ある言動のひとつひとつが思い出されます。

しかも「わたしたちみなの悪」と言われました。この「みな」の中には、まだ神を知らないで背きと滅びの道を進んでいくすべての人々が入ると思います。

毎日の新聞やニュースに伝えられる悪事。いや、もっと深刻なのは、伝えられていないような闇の社会の「悪」や、戦争という「悪」でしょう。

あるいは、もはやニュースにもならないような私たちの日常に蔓延する不正やいじめや差別という「悪」こそ、おぞましいものです。

そういう「悪」をも、主イエスは負ってくださったのです。

それを感謝し、悔い改めて主に従うかどうかは、その人次第です。でも、神のほうでは、「みなの悪」を、主イエスに負わせられたのです。

そして主は十字架の上で祈られました。「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです・・・。」

「悪」に染まりきってしまって、自分が「悪」をなしていることさえ知らないでいるような、そういう罪人のために主は祈っておられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、この心から、「悪」を除いてください。悪に悪をもって対抗するよりないと思ってしまっている、この不自由な心を解放してください。


2019. 04. 09  
皆様お変わりなくお過ごしですか。私はまだしばらく時間的余裕がないのですが、日々の配信の習慣をやめてしまうと、霊的枯渇がひどいことに気づきました。

ローマ書の分かち合いはしばらくお休みしますが、皆さんと共に御言葉をいただくことを再開したいと思います。

今は、主イエスの十字架への足取りをたどらせていただく、特別な受難節の季節です。

その十字架の死を預言した、イザヤ書53章の「苦難のしもべの歌」を、諸翻訳で見比べていきましょう。

今日はイザヤ52:13-15です。

フランシスコ会訳「見よ、わたしの僕は栄え、高められ、上げられ、大いに高揚される。多くの者がお前の前で感嘆したように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の風貌もない。そのように彼は多くの国を驚かせる。王たちは彼の前で口を閉じる。彼らは自分たちに語られなかったことを見、聞かされなかったことを悟るからだ。」

聖書協会共同訳「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。多くの人が彼のことで驚いたように、その姿は損なわれ、人のようではなく、姿形は人の子らとは違っていた。そうして、彼は多くの国民を驚かせる。王たちは彼について口を閉ざす。彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見、聞いていなかったことを悟るからだ。」

新改訳2017「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。多くの者があなたを見て驚き畏れたように、その顔立ちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていなかったことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。」


下2つは新しい翻訳ですが、それぞれずいぶん違っていますね。理解の深まりが与えられます。

十字架の救い主の異様な姿は、正視に耐えないものです。神の子が、そのような姿になって私たちの罪を背負ってくださいました。

しかし、その十字架の道の向こうに、復活の命が与えられ、彼は「栄える」のです。それは、この地上の誰も考えたことがなかった救いの道でした。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主よ、どこまでも父なる神を信頼し、神のご計画が成ることを願って、神のしもべとして歩みぬかれたあなたの足跡を、私たちにもたどらせてください。十字架の苦しみは、必ず復活の命の栄光に通じることを、今、信じます。

今日は、久しぶりに埼玉のK姉をおたずねする予定にもしています。主よ、恵みと祝福を満たしてください。
2018. 03. 23  
今はレント、受難節を過ごしています。キリストの十字架の死の意味を、特別に想い起しながら、説教準備を進めています。

その過程で、イザヤ書43:24-25の御言葉を示され、考えさせられました。

神は言われます。あなたは、わたしを少しも喜ばせようとしない。

「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた(煩わせた)」と。

神が苦しんでおられる、と言われています。これは、ショックです。

あなたの罪のために、わたしは苦しんでいる。耐え難い重荷を負わされている、とおっしゃるのです。

それは、悲しみのゆえ、また怒りのゆえでしょう。

神を見失ったわたしたちの織り成す、罪の悲惨に満ちた現実が、神を思い煩わせているのです。



わたしたちは、自分が神を思い煩わせていると、真剣に考えたことがあったでしょうか。



かつて、私の師に教えていただいたことを思い出しました。

もう18年も前、9・11アメリカ同時多発テロの時、まだ20代だった私は師に問いました。「どうしてこんなことが起こるのですか。神は何を考えておられるのですか。」

師は答えてくれました。「・・・このような時には、神の御心を問う前に、人間の罪の闇の深さについて、まず考えなさい。

このようなことが起こる時に、一番悲しんでおられるのは神ご自身です。神が、この罪の悲惨をごらんになって、苦悩しておられるのです。」



神はこの思い煩いを解決なさるために、どうなさったでしょうか。

イザヤ書の続きには、驚くべきことが書いてあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」

神は、もうまっぴらだと、罪深い人間を見捨て、消すという手段を、もはやお選びになりません。

その罪をぬぐい、もうあなたの罪を思い出さないと言われます。それは、この煩わしい私たちという存在を、まるごと引き受け、愛し抜くと、言っていただいているに等しい。

そのために、キリストの十字架が必要だったのです。


共に祈りましょう。

主よ、私自身の思い煩いばかりが、私の心にありました。あなたがそれに応えてくださらない、どうしてか・・・、そんな思いもありました。しかしあなたが、私の罪の日々を、悲しみ、思い煩っておられたことを知りませんでした。主よ、ごめんなさい。赦してください。

2018. 03. 09  
本日、午後1時より東京基督教大学の卒業式があり、修士号をいただきます。これまでの皆さんのお祈りに、心から感謝を申し上げます。

*************
先の日曜日に分かち合ったイザヤ書35:8の御言葉です。

「そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主ご自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。」


この「大路」とは、高速道路のような道です。バビロンからエルサレムへと、荒れ野を貫いて一直線に開通するハイウェイのイメージ。

このハイウェイは、罪人が神のもとへと帰るために、キリストによって用意された救いの道でもあります。

その道は「聖なる道」であり、「汚れた者」は通ることはできません。

そう言われると、つらいものです。

聖なる神様と、真剣にお付き合いをしようと考えるなら、必ずわたしたちは、自分が「汚れた者」であることに気付きます。

適当な距離感で、信仰ごっこをしている間は、それほど「汚れ」を意識することもないでしょう。

「汚れ」を覚えさせられるのは、つらいことです。

でも、そういう者が、ただ神の恵みと憐れみによってきよめられ、「聖なる道」を通らせていただくのです。


「愚か者がそこに迷い入ることはない」というのは、違う翻訳も可能です。

「愚か者でも、もはや迷うことはない」。このように訳すと、これもまた慰め深い約束です。

私たちは「汚れた者」「愚か者」ですが、羊飼いである主イエスが間違いなく先導してくださるから、迷うことなく、救いのハイウェイを歩ませていただくのです。



共に祈りましょう。

主よ、目を開き、耳を開き、あなたとの距離を縮めてください。自分の汚れに気付かせてください。そして、その汚れをきよめてください。今日も少しずつ、わたしを作り変えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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