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2016. 01. 23  
今年の年間目標の「聖徒の交わりを深める」にまつわる御言葉を、分かち合ってきました。

まだ分かち合いたい御言葉はたくさんありますが、一応今日で、このシリーズは終わります。最後に読みたいのは、この御言葉です。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3:16)」

教会の交わりは、愛を学び、実践する学校です。そして、愛とは、兄弟のために命を捨てることと教えられています。

兄弟のために命を捨てる・・・。古代のクリスチャンは、これを本気で受け止めました。

疫病に感染するのも承知で看病したり、迫害の際に命を張って兄弟を逃がしたり。

平均寿命が40歳にも満たない時代の彼らには、地上の「命」への執着も私たちより薄かったのかもしれません。

現代に生きる私たちには想像を超えることであり、どうすればいいのかと立ちすくむ思いもします。

でも、まず大切なのは、普段の生活からいろいろなかたちで、兄弟姉妹のために自分の賜物や時間を用いることを意識していくことではないでしょうか。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはそれぞれに自分の「命」が大切で、兄弟のために命を捨てるということに、大きな壁を覚えます。主よ、どうか私たちの限界を打ち破ってくださって、真実の愛の交わりを実現させてくださいますように。
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2016. 01. 22  
「神の家族」の交わりということを考える時、いつも思い出すのはこの聖句です。

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントⅠ12:26)」

家族というのは、他人じゃない。身内です。身内だからこそ、だれかが苦しめばみんな苦しい。だれかが喜べば、それは自分のことのようにうれしい。みんながうれしい。

だから、みんなで大切にしあうのです。そして、だれかのことを、我がこととして祈るのです。

教会というのは、だれかがだれかのために、いつも必ず祈っているところです。

自分のために、自分の知らないところで、どれほどの祈りが重ねられてきたかということを、いつも考えていたいと思います。

どうか皆さん。自分のことなどだれも考えてやしないなどと、どうか決して思わないでください。

あなたの苦しみは、わたしたちの苦しみです。あなたの喜びのために、みんなで祈りたいのです。


共に祈りましょう。

私たちを家族にしてくださった主イエス・キリストに感謝します。主よ今日も、私のために祈ってくれている方々に、あなたの平安がありますように。私の愛する兄弟姉妹に、苦しみが遠ざけられ、喜びが満たされますように。
2016. 01. 21  
聖書の中で「神の家族」という表現が出てくるのは、実は多くはありません。エフェソ書の言葉くらいです。

「従って、あなたがたはもはや・・聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。(エフェソ2:19)」

でも、言葉は出てこなくても、そういう考えはずっと前提としてあるのです。

「神の家族」は、神様をお父様とし、イエス様を長男のお兄さんとする家族です。私たちはみな養子です。たとえるなら、イエス様によって孤児院から引き取られ、「神の家族」へと迎え入れていただいて、兄弟姉妹とされたのです。

「信仰」によってつながる兄弟姉妹であって、血のつながりによる絆ではありません。でもそれは、血の絆よりも深いのではないでしょうか。



「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:10)」

神の子としていただいた者として、たゆまず善を行いましょう。御父は、私たちの行いを、いつも厳しくやさしく見守っておられます。

「特に信仰によって家族になった人々」を、互いに大切にしあいましょう。神様の家族として迎え入れていただいたのですから。

私たちが祈りあい、励まし合い、助け合うのを、御父は、いつも厳しくやさしく見守っておられます。


共に祈りましょう。

天のお父様、今日も私の兄弟姉妹が、あなたの永遠の守りの中で、安心して過ごせますように。今、病んでいる者たち、傷んでいる者たち、疲れている者たちが力を得ますように。罪に沈んでいる者たちが、悔い改めを与えられますように。
2016. 01. 20  
クリスチャンは兄弟姉妹と呼び合います。それは、「神の家族」にされたと信じているからです。

思えば、聖書というのは、アブラハムから始まる、いやもっと根源的にはアダムから始まる、ひとつの「家族」の物語です。

この「家族」の最初の歩みから、兄弟ゲンカは絶えることがありません。

カインはアベルを殺してしまいました。イシュマエルとイサクはかみあわず、ヤコブはエサウをだましました。

「家族」の中でこそ、人間の罪深さがあざやかにあらわれる・・。これが聖書の示す、冷徹な人間理解でもあります。

教会という「神の家族」であっても、この罪深さから自由ではありません。ささいなことから不信感が募ってののしりあったり、正しさを主張しあって分裂したり・・。

でも、そういう現実を「仕方ない」と開き直るのならば、キリストの救いによって「神の家族」にしていただいた甲斐がありません。


エフェソ書を締めくくる、祝福の祈りをもって、共に祈りましょう。

「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。

恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソ6:23-24)」
2016. 01. 19  
「聖徒の交わりを深める」というテーマで、もう少しだけ分かち合いましょう。

今年私たちは、「聖徒の交わり」の水平的な側面、すなわち信仰を同じくする兄弟姉妹との交流が深まるようにも努めたいのです。

思えば、兄弟姉妹という言い方は、とても奇妙です。私は初めて教会に来た時に、「兄弟」と呼びかける姿を拝見して、「・・・ヤクザみたいだな」と思ってしまいました。

そういう意味では、大変奇妙な習慣なのですが、教会はその歴史のはじめから、お互いを「兄弟(姉妹)」と呼びあって来たようです。

新約聖書の手紙を読んでいますと、「兄弟たち」との呼びかけが数えきれないほど出てきます。

今日はテサロニケ人への手紙第一の、冒頭のあいさつを分かち合って、共に祈りましょう。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。(Ⅰテサロニケ1:1-4)」


主よ、私たちの父よ、あなたに愛されている兄弟たちに、今日も平安がありますように。信仰が育まれますように。愛が豊かにされますように。そして、どんな時もあなたに希望をおいて、しっかり立つことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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