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2016. 03. 26  
「苦難の僕の歌」も今日で最後です。受難週も今日で終わりです。

イザヤ53:12「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」


「自らをなげうつ」、この動詞は「かめの水をすっからかんにする」という時にも使われています。

そのようにイエス様も、自分の命をすっからかんにするまでに使い切ってしまわれたということです。

それほどに、私たちのために身をささげてくださいました。

私というこの罪深い者が、神の前で「正しい者」とされるために、それほどのイエス様の献身が必要でした。


「キリストの犠牲愛は、新たに献身の物語を作り出す、不思議な力を秘めている」と言った人がいました。

まさにそのように、この「苦難の僕の歌」は私たちを駆り立てて、献身を促さずにはおかない不思議な力を持っていると思います。

明日のイースターというのは、神と隣人とに誠実に仕える「僕」として、私たちが新たに生れる日でもあるかもしれません。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのために命を使い果たしてくださったあなたの愛に、ただ感謝をいたします。それほどにしていただいた私という存在の重さを、わたし自身が大切にすることができますように。そして主よ、どうかこの私を、あなたの御用のために用いてください。
2016. 03. 25  
教会の暦では、今日は聖金曜日。キリストが十字架におかかりになられた日です。

すでに500年前に十字架のイエス様を指し示していた、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」。今日は11節です。

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」


ここは実は難解なところで、新共同訳とはニュアンスの違う翻訳もあります。

口語訳では「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」とあります。

いずれにしろ、「彼」は、自分の存在をかけた十字架の労苦が、骨折り損ではなかったことを知って満足する、ということが言われています。

一人の人が救いに入れられる時に、天には大きな喜びがあるとイエス様は教えてくださいました。

一匹の迷える羊を探し出して、大喜びして抱きかかえて帰ってくる羊飼いのたとえもありました。

私たちが、神の前で「正しい者」とされて、永遠の「光」の中に入れられることを、一番喜んで、満足していてくださるのはイエス様です。

十字架の上で憔悴しきったお顔で、救われた私たちを見て喜んでいてくださる主イエスを想像しましたら、どうにも胸が熱くなりました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの苦しみによって、永遠の光の中へと連れ戻していただいた私です。赦された者として、私も赦しに生きることができますように。愛された者として、私も愛に生きることができますように。主イエスに深く喜んでいただくことができますように。
2016. 03. 24  
キリストの十字架の御苦しみを覚える受難週に、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。

53:10「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」


ヨハネ福音書においては、十字架の主イエスは、「成し遂げられた」と言い残して絶命されます。

主の死によって成し遂げられたのは、わたしたちのために用意された、父なる神の深遠な救いのご計画でした。

お手元に聖書のある方は、エフェソ1:3-14をご覧になってください。

天地創造の前より定められていたという、神の壮大な救いのドラマに思いを馳せましょう。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。・・・」


共に祈りましょう。

永遠の主よ、あなたのスケールをとらえる言葉を、私は知りません。その大いなるあなたの目に、今日の私のこの小さな存在が、いとおしい者としてとらえられているとは、なんとうれしいことでしょう。

私たちのための救いの計画を成し遂げるために、十字架にかかってくださった主への感謝によって、今日の一日が励まされますように。
2016. 03. 23  
イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。

53:8-9「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」

ペトロの手紙Ⅰの2:22からには、この預言が引用されています。

「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義に生きるようになるためです。」


そして、ペトロの手紙においては、このようなキリストの忍耐の姿が、私たちの「模範」であって、その「足跡に続く」ようにと励まされています。

「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心にかなうことです。(Ⅰペトロ2:20)」

キリスト者として、「義に生きる」ことを本気で求め始めれば、この世にあってつらいことも多いでしょうが、その歩みを通して、キリストをいよいよ近く覚えさせられ、霊の喜びが満たされることでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、主イエスに従って愛と義に生きようと願うすべての者たちに、今日も憐れみと励ましを豊かにお与えください。この世の罪深さにやりきれない思いを抱える時にも、粘り強く、十字架の主を想い起しつつ、善を行うことができますように。
2016. 03. 22  
イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。神ご自身が、十字架の意味を教えてくれている言葉です。

53:7「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」


苦難の僕であるイエス・キリストは、ユダヤの指導者たちによる裁判で、不当な裁きを受けて死刑とされます。しかし、それを黙って受け入れられました。

「イエスは黙り続けておられた(マタイ26:63)」と書いてあります。

総督ピラトの下での裁判でも、どんな不利な証言にも黙っておられるので、「総督は非常に不思議に思った(マタイ27:14)」とあります。

その後も、人々に愚弄されても、なぶられても、口を開かず、黙って十字架へ向かう「小羊」イエスの沈黙を、福音書は記します。

私は、このような主イエスの沈黙を考える時に、いつも思い出す御言葉があります。

エゼキエル書16:63です。「こうしてお前がおこなったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」

今は、黙り続けるイエス様の前に、罪人は言いたい放題です。

でも、苦難の僕イエスは、その罪人たちの愚かさをすべて背負って、それが赦されるようにと、十字架で死んでくださいます。

その十字架の真実を悟るときには、もはや誰一人として、「二度と口を開けなく」なります。

自分の愚かさを恥じるがゆえに。そして、その自分を覆いつくす、圧倒的な十字架の愛に打ちのめされて、もう何も言えなくなるのです。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の御苦しみを覚えるこの受難週。どうか私たち一人一人が、その十字架の真実をもっと深く悟ることができますように。そして、私たちの人格に変化が与えられますように。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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