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2019. 04. 19  
受難週の金曜日です。主が十字架にかけられたのは、金曜日の昼でした。

イザヤ書の「苦難のしもべの歌」をずっと分かち合ってきましたが、今日で最後です。

イザヤ53:12です。今日は、聖書協会共同訳で分かち合いましょう。

「それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え、彼は強い者たちを戦利品として分け与える。

彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し、背く者の一人に数えられたからだ。

多くの人の罪を担い、背く者のために執り成しをしたのは、この人であった。」


この人とは、まぎれもなく、主イエス・キリストのことです。

「彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し」という翻訳に、魂を撃ち抜かれる思いがしました。

十字架で流された、注ぎ出された血を思い出しました。そして、聖餐のワインを思い出しました。

明後日の主日礼拝では、勝田台教会をはじめとして、多くの教会で聖餐式がなされることと思います。

そこで差し出されるぶどう酒は、主イエスの命が注ぎ出されたものです。

これをいただくことで、私たちには命が与えられます。不滅の希望に輝く命が・・。

主が、御自身の命を注ぎ出し、「命を受けよ」と招いておられます。


まだ信仰告白しておられない方は、明後日の聖餐を受けることはできないでしょう。

ぜひ、信仰告白なさってください。この命を受けていただきたいのです。私はこの命をいただいたから、あなたにも受けてほしい。

どうか、キリストに代ってお願いします。どうか、この命を受け取らせていただいてください。

そこに、あなたの命が輝きだすから・・。主があなたの罪をもう全部担ってくださいましたから。ですから、どうか・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの死によって、私たちには命が与えられました。私に与えられている永遠の命を、もっと深く喜ばせてください。私たちのすべての憂いが消え去るほどに、みずみずしいあなたの命の喜びで満たしてください。そして、その喜びが、どうか私の愛する方々に広がっていきますように。







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2019. 04. 18  
今日はイザヤ書53:11です。今日もフランシスコ会訳が、ベターだと思いました。

「彼は自らの辛苦を脱け出て、光を見、その悟りによって満足する。

わたしの正しい僕は、多くの者を正しい者とする。彼らの悪を、彼が背負った。」


この言葉は、ローマ5:18,19を思い出させてくれます。アダムとキリストが対比されるところです。

始祖アダムの一人の罪によって、全人類に有罪の判決が下されました。それが、人類の歴史の最初に起こったことです。

それ以来、すべての人は「生まれながらにして神の怒りを受けるべき者たち(エフェソ2:3)」となってしまいました。

しかし、その逆転もまた、一人の人によってもたらされます。新しいアダムであるイエス・キリストです。

その一人の方の正しい行為によって、すべての人が義とされ、命を得ることになったのです。

「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマ5:19)」


イエス様は、私たちの悪・過ちというマイナスを帳消しにしてくださったのみならず、私たちがこなさねばならない「神への従順」というノルマも、ひとりで背負ってくださいました。

そこまでしていただかねば、私たちは「正しい者」とされることはありません。

それは、実に虫がいい話です。図々しすぎると思われるかもしれません。でも、おかしなもので、このイエスの思いをよく理解し受け止めた者たちは、みなことごとく、生き方を変えられていくのです。

もはや「正しい者」として扱っていただいているから、それにふさわしく生きたいと願い始めるのです。



共に祈りましょう。

主よ、我らをきよめてください。正しい者として身も心も魂も、いよいよ主イエスに似る者として整えていってください。主がこの貧しい私の内に生きていてくださること、私の内に、新しい心が創造され、新しい人が確かに生まれていることを、私は喜びます。大切にいたします。
2019. 04. 17  
受難週を「苦難のしもべの歌」と共に過ごしています。今日はイザヤ53:10です。フランシスコ会訳でお届けします。

「主は彼を病苦で打ち砕こうと望まれた。もし彼が、自らを賠償の献げ物とするなら、彼は末永く子孫を見るだろう。主の望みは、彼の手によって成し遂げられる。」


「賠償の献げ物」とは、レビ記5:14-19(旧約p168)に詳しく記載されています。

「過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合には、それを知らなくとも責めを負い、罰を負う」という厳しい法があります。

その刑罰を逃れるための賠償として、「相当額の無傷の雄羊」を神殿にいる祭司のところに連れて行き、「賠償の献げ物」とする必要がありました。

そうして祭司がそれを屠(ほふ)って、その人が過って犯した過失を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦され、神様に対して賠償が済んだと見なされたのです。

こういう神殿祭儀が、イエス・キリストの十字架の贖いの背景にあります。

羊を殺すなんて、そんなかわいそうなことを・・・とおっしゃる方もいます。

ドクドクと血を流しながら絶命していく羊を想像するのは、あまりに痛ましいです。

でも、私たちが神に対して犯している過失を償うには、そのような「命」をもっての賠償が必要でした。

それは本来、私たち自身の「命」で賠償するべきなのでした。でもその身代わりに、羊に死んでもらったということです。

今はもう、そういう羊の犠牲は必要ありません。

イエス・キリストの「命」による賠償によって、完全に最終的に、罪の償いがなされたからです。そうして私たちに、赦しが与えられたのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちを愛してくださって、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて、永遠より選んでくださいました。そのように、あなたが望んでくださったことを感謝します。

どうぞあなたの御心に従って、今日の私たちの生活を罪からきよめ、神の子として整えてください。


2019. 04. 16  
主イエスの十字架の御苦しみを覚えて、受難週を過ごしています。

イザヤ53:7-9を分かち合いましょう。新改訳2017で引用します。

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。

屠(ほふ)り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口にあざむきはなかったが。」


主日礼拝ではルカ福音書の受難物語を分ち合ってきましたが、十字架刑を決する裁判の席において、一言も発せられないイエス様のお姿が印象的でした。

それは、このイザヤ書の預言のとおりです。

神殿礼拝では、人間の罪を償ういけにえとして、羊が屠(ほふ)られました。羊たちは、そのさだめも知らず、抵抗もできず、当然声を発することもできませんでした。

イエス様は、御自身の犠牲の死をもって、その神殿祭儀をおしまいにされました。

この方こそ、私たちの罪の赦しのためにささげられる「神の小羊(ヨハネ1:29)」であって、最後の、完全なるいけにえです。

イエス様は、羊たちと違って、御自身のさだめを知っておられました。抵抗もできました。言葉を発することもできました。

でも、あえてそれをしないで、自らの明確な意志において、十字架にかかってくださったのです。

それは、私たちの神への「背き」のゆえでした。


共に祈りましょう。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。主よ、あなたに死んでいただかねばならなかった、私たちの背きを思います。今週の歩みの中で、いよいよ深く自らの罪を知り、赦されて生きることの意味を知ることができますように。
2019. 04. 10  
イザヤ53:1-3を分かち合います。昨日のように翻訳を見比べると、長くなってしまいますのでやめましょう。

新改訳2017が印象的だったので紹介します。

「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」


苦難のしもべイエスには、「私たちが慕うような見栄え」がないと言われます。

「望ましい容姿もない」とも訳されます。今でいえば、イケメンじゃないということでしょうか。イケメンというだけで人気が出るのは、古今東西共通の人間の悲しさです。

あるいは「わたしたちが欲する威容もなかった」とも訳されます。強く威厳ある政治家を求める声は、今、世界中で高まっています。そのニーズには応えられない方なのです。


「悲しみの人で、病を知っていた」とあります。

「痛みの人」、「苦しみの人」とも訳されます。馴染みの新共同訳では「多くの痛みを負い、病を知っていた」とされています。

昨日、落語家がテレビで話していましたが、長く真打にあがれなかった時に覚えた悔しさや痛みが、自分の落語に深みを与えてくれた。

滑稽な登場人物たちのおかしみの裏にある、悲しみ、痛み、苦しみが理解できるようになった、ということだそうです。

十字架のイエス様は、地上に生きた誰よりも、悲しみの人であり、痛みの人、苦しみの人でありました。

そういう人として、私たちと共に生きることを選んでくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、我らの悲しみの時、あなたがそこに共にいてくださることを感謝します。あなたの知らない悲しみは無く、あなたの知らない痛みは無いことを感謝します。主よ、見栄えなきあなたを尊ぼうとしない、私たちの愚かさを砕いてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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