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2016. 07. 12  
詩編10:14の御言葉を、今朝皆さんに贈ります。

「あなたは必ずご覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。」

この詩編10篇は、「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか(1節)」という嘆きから始まります。

神を恐れぬ者たちが繁栄するのを、いつまでそのままにしておかれるのかと、いらだちをぶつけているのです。

それはまた同時に、神をしたう者たちが「不運な(=不幸な)」ままでいるのを、どうしてそのままにしておかれるのかとの、いらだちでもあります。

しかし、神もまた、確かにこの不条理な現実を見つめておられるのです。

私のつたない翻訳ですと、14節はこうなります。

「あなたは、まことにあなたは御覧になる、
その災いと悲しみの深さを。
その手にとって、見つめてくださる。」

「手にとる」とは、「我がこととして引き受ける」ことともいえます。

まさにそのようにして、寄る辺なき者たちの「災いと悲しみの深さ」を我がこととして引き受け、じっと見つめておられる神がいらっしゃいます。

「あなたは、まことにあなたは御覧になる、
その災いと悲しみの深さを。
その手にとって、見つめてくださる。」


共に祈りましょう。

主よ、無力感、敗北感におおわれている者がいましたら憐れんでください。労苦と悩みに疲れ果てている者がいましたら憐れんでください。今日も、私たちの歩みをご覧になってくださって、必要なすべてを備えて下さい。     
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2016. 06. 24  
旧約聖書のエレミヤ17:7にこういう言葉があります。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」

主がその人のよりどころとなられる・・・。とてもいい翻訳だなあと思います。

もう他の何かをよりどころとしなくていいよ。何も持っていなくてもいいよ。わたしがあなたのよりどころとなるから・・。わたしによりかかりなさい。わたしが背負っていこうと、主なる神が招いていてくださるようです。

今、自分で自分のことを一生懸命支えようとしておられる方がいるかもしれません。

かくいう私自身も、そういうところがあるかもしれない。なんとか「自信」をつけたくて、毎日必死でがんばっているというところがある。

「自信」とは、自分を信じるということですね。

それは、決して悪いことではない。必要なことです。「自信」を得るために努力することは、とても大切なことだと思う。

でも、忘れてはいけないと自分に言い聞かせていることがあります。それは、そういう「自信」を私に与えて下さるのも、主なる神様だということです。

主が、私のすべてを見守り支えていてくださいます。がんばる力を与えて下さるのも主です。

何度悔し涙を流しても、立ち上がる力を与えて下さるのは主です。

私の「自信」など、やすやすと揺らぎます。でも、その揺らいでしまう私までも、まるごと抱きとめていてくださる神が、私にはいます。

この方が、私のよりどころとなってくださったのです。私は、この方に生かされている・・。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」


共に祈りましょう。

主よ、私のよりどころよ。今日も、この小さな私の小さな一日ですが、あなたの恵みと憐れみによって彩ってくださって、楽しみで満たしてください。喜びも悲しみも、突然の試練をも、あなたが用意してくださるすべてのものを感謝して受け取ることができますように、主よ、私の今日の日を支えて下さい。

2016. 06. 23  
これまでも何度か紹介しましたが、Ⅰコリント15章3節からには、「最も大切なこと」として伝えたのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」だと言います。

これが「最も大切なこと」なのです。他のどんな宝よりも、私たちにとって大切な、永遠の運命を決する福音です。

そしてこういう永遠の真理である「福音」が、毎日の「生活のよりどころ」であると言われています。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(Ⅰコリント15:1)」

「生活のよりどころとしている」、これは違う翻訳では、「それによって立ってきた」ということです。

この福音がなければ、もう日々生活していくのに何の望みもない・・、それほどに初期教会のキリスト者たちの生活は悲惨でした。

今の私たちは、大変生活が豊かになりました。昔の人からすれば、まるでパラダイスです。

しかし、そのことによって、この「生活のよりどころ」としての福音の輝きを見失ってしまうなら、実に、残念なことです。残念すぎることです。

私たちは、何を基盤として、今日の生活をしていくのでしょうか・・・?


共に祈りましょう。

主よ、最も大切なこととしてあなたが伝えて下さった、キリストの十字架と復活の救いの福音を、もっと深く、私たちの生活の礎として打ち込んでください。私たちが、どこまでも雄々しくあることができるように。望みを失わないように。そしてどんな時も、感謝と賛美に生きることができるように。
2016. 06. 22  
洗礼を受けて新しい歩みを始めた姉妹が、確かな信仰の基礎を固めることができますようにと祈ってやみません。

これからしばらく、「よりどころ」ということを考えていきましょう。

洗礼を願われる方に、いつも命じますのが、ハイデルベルク信仰問答問1の暗誦です。ここに、信仰者がいつもどんな時も覚えておかねばならない大切なことが書かれています。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問われます。

オランダでは、人が間もなく天に召されようとする時に、牧師がその枕もとで、この問答を確認するのだと聞いたことがあります。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と、牧師が問うのです。

信仰者は答えます。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」

まもなく自分は死ぬのだということをはっきり意識しながら、そのように答えるのですね。

牧師はそれを受け止めて、「そうです。安心して、主におゆだねしなさい」と伝え、その人の体と魂とを神のもとへと送り出すのです。

私たちが平安のうちに生涯を全うし、死んでいくことのできる、ただ一つの慰めというものがあるのです。

そしてこの「慰め」という言葉は、「よりどころ」と訳すこともできます。本来そのほうが適切だとも言われます。

こういう「よりどころ」を得て生きる人は、幸いだと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、まだ歩み始めたばかりの幼い信仰者に、確かなよりどころを得させてください。今日もすべての事柄に、あなたの息吹を感じ、あなたに感謝し、心を高く上げて歩むことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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