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2019. 05. 29  
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」という御言葉を与えられているこの一週間です。

先週、神戸改革派神学校のリトリートで奉仕をしましたが、その際にうかがった新入生の証しを紹介させていただきます。

彼の家は先祖伝来の仏教徒の家で、おじさんがお寺の住職だそうです。

そういう中で、お母さんが最初の実りとして洗礼に導かれ、続いてお父さんや子どもたちもクリスチャンになりました。

しかし、父方の祖父母がそれをよしとしませんでした。

とりわけ、嫁であるお母さんへの迫害は激しいものでした。この家に悪しきものを持ち込んだ悪魔のような扱いをされたそうです。

お母さんがおばあさんにぶたれながら泣いている姿が、強烈に記憶に残っているそうです。

主日礼拝に出かけようとする時に、毎週ホースで水をかけられたそうです。

それでもお母さんやお父さんの信仰は萎えることなく、むしろ、苦しみを味わうほどにキリストと強く結ばれ、喜びを深めておられたそうです。

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それはキリストの栄光が現れる時にも喜びに満ちあふれるためです(Ⅰペトロ4:13)」を思い出します。


この話には続きがあります。

そのようにして激しい迫害を続けた父方の祖父母ですが、まずおじいさんが最晩年に至って、自分からお父さんに求めはじめ、亡くなる前にキリストを受け入れるに至ったそうです。

そしておばあさんは、お母さんが介護をしながら、示されたところあって福音を伝えると、これまでとは全然違うよい反応が与えられたとのことでした。

それがつい先々週のことだと、伺いました。

主イエスはすでに世に勝っておられます。このキリストにしっかり結ばれて、勇気をいただきたいと願います。


共に祈りましょう。

主よ、今日も世の中で生きていきます。必要な力と知恵を、勇気を、希望を与えてください。粘り強く、あなたの勝利を信じる信仰をください。

昨日は川崎市で大変悲しい事件がありました。神様、あなたが誰よりも一番悲しんでおられるでしょう・・。今、不安にかき乱されている者がいましたら、どうか主イエスにあって平安がありますように。主よ、どうかこの罪の世界からあらゆる悲惨をぬぐってください。
2019. 05. 28  
先の主日は、ヨハネ16:29-33より、特に33節のこの御言葉にみなで聴き入りました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

この言葉は、14章からはじまるイエス様の「告別説教」と言われる長い長い教えの、しめくくりに与えられたものです。

まもなく十字架と復活を経て天へと上っていかれる。弟子たちとは、地上の別れとなります。

しかし、イエス様と彼に選び分かたれた者たちとは、深く結ばれてどこまでも一体であるということを、主は繰り返し教えてくださいます。


私の最愛の讃美歌のひとつ、358番の4節はこういう歌詞です。

「世のちからせまれども、 死に勝ちし主によれば、 やすらけきよろこびは  わがむねにみちあふる。」

これはヨハネ16:33をそのまま歌にしたものでしょう。

私たちは、イエスに深く結ばれているがゆえに、イエスと同じように世に憎まれ、さまざまな苦難にさらされます。

だれもが、自分の十字架を負わねばならない。

しかし私たちは、イエスに深く結ばれているゆえに、その復活の勝利と栄光にも結ばれて、決して世に負けることがありません。


イエス様は、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」に、このことを伝えるのだと言われました。

「わたしによって」=「わたしにしっかり結びついて」ということです。

「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」という、素朴な讃美歌もあります。

主は言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(ヨハネ15:4)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私のそばで、勇気を出しなさいと励まし続けてください。わたしの内にあなたが生きてくださり、あなたの内にわたしを生かし守って下さい。今、暗いトンネルを行くような思いでいる方も、主に結ばれて平安であることができますように。
2018. 11. 23  

先日、うれしい語らいの時が与えられ、互いの魂の平安のために祈りました。

昔は見えていなかったものが、よく見えるようになってきたと証しをしてくださいました。

イエス・キリストの恵みということが、実に、言葉にできないような深さ、広さ、高さ、大きさをもっているということも、分かってきたとおっしゃる。

ですから私も申し上げました。

人間の言葉にはどうにも言語化し得ないからこそ、神は人となって来てくださったのでしょう。

イエス・キリストは、「神の言」すなわち「神の思いのすべて」であると、ヨハネ福音書に言われています。

その思いのすべてを届けるようにして、受肉して、わたしたちのところに来てくださいました。


ヨハネ福音書1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

キリストが来てくださった。もう、これでいいのです。そこにすべてがあります。

次の主日に分かち合う、黙示録の最後のところ。

聖書66巻の最後の最後は、こういう祈りと祝福で締めくくられています。

「主イエスの恵みが、すべての者と共にありますように。」


共に祈りましょう。

主よ、主イエス・キリストの恵みで、わたしたちの小さな魂をいっぱいに満たしてください。恐れや不安の入り込む余地のないくらいに。そして、その祝福があふれだして、わたしたちの周りにまで及ぶほどに。



2018. 03. 21  
昨日からカンボジアへのミッショントリップが始まっています。勝田台教会からの献金をホザナスクールに届けてくださいます。覚えてお祈りください。

今日は、先週の全国学生会の講演で、ハッとさせられたことを分かち合います。

神戸改革派神学校校長の吉田隆先生を講師にお招きし、「善き生活」について教えていただきました。

その中で、改めて考えさせられたのは「Life」という言葉です。

Christian Life という風に言いますね。このLifeという言葉は、面白い言葉です。

「命」であり、「人生」であり、「生活」です。日本語では訳し分けますが、Lifeだとすべてをまとめてとらえることができます。

聖書で言うところの「命」とは、まさにこの「Life」ということを指します。

そして、「永遠の命」とは、言うなれば、「高次のLife」です。

永遠の命とは、唯一のまことの神である主と、その御子であるイエス・キリストを「知る」ことだと言われています(ヨハネ17:3)。

「知る」とは、深く結び合い、愛し合うことをも含みます。

神を知らなかった人間が、神を「知る」ようになる。神に愛され、神を愛するということを「知る」。

そのとき、その人のうちにはじまる、決定的に新しい「Life」、それこそ「永遠の命」です。

それは、その人本来の尊厳が輝きだす「人生」の始まりであり、まったく違う価値観に基づく「生活」の始まりなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちに新しいLifeの喜びを増し加えてください。信仰と希望と愛をゆたかに与えてください。いつも喜んでいることができますように。感謝する心を与えてください。賛美の歌を、この口に与えてください。恐れも不安も、すべてをあなたが受け止めてください。
2017. 02. 16  
この毎朝の配信は、私の様な能力の低い牧師にとっては、毎朝の産みの苦しみです。

聖書と、ニュースと、お一人お一人(自分も含めて)の現実・生活とを思い巡らしながら、私は何を取り次ぐべきかと、神に祈り求める日々です。

何をお届けすればいいのかが全く見えないまま、悩みながら前日の眠りにつくこともしばしばです。

だからでしょうか。時々、夢の中で、まるでお告げを受けたように、言葉が与えられます。

今朝は、「正しい者としてではなく、ただ、人間の罪を知っている者として!!」という言葉で目が覚めました。


実はこのことは、ここのところいつも考えさせられていることです。

昨日、最後の審判の話をしましたが、私たちは「正しい者」の立場で、そのことを考えることはできないものです。

「正しい者はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」とあるように、クリスチャンといえども、完全無欠ではなく「罪」を抱えています。

そういう者が、イエス・キリストの救いによって、ただ神の恵みによって「義=合格」としていただいて、永遠の滅びを免れさせていただくに過ぎません。

だから、「正しい者」として、まるで神になりかわって審判者のようにふるまうことは、決してゆるされません。


まことの神様を知り、神の道に生き始めると、地上の腐敗した世界が放ついやなにおいに気付いて、吐き気さえ催すようになるものです。

人間の傲慢が見えてきます。快楽主義、自己主義が見えてきます。不正義が見えてきます。

しかし、私もまた、その地上の一員です。いやなにおいを放つ者の一人です。

ただ、何かが違うとすれば、神の恵みによって、まことの神様を知ることがゆるされたということだけです。

そして、神の目に映る自分の、罪深い姿を知ったということ。しかも、そういう者が、なお愛されていると知ったということだけです。

そういう真理を知っている者として、私たちは、この地上世界に、イエス様から遣わされているのです。

イエスはこう祈ってくださいました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(ヨハネ17:17-19)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたの前で、すべての罪人が悔い砕け、あなたを仰ぎ見ることができますように。あなたの愛と義と平和が、この地に満ちますように。わたしたちの心に満ちますように。


プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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