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2017. 02. 01  
昨晩は深夜に帰宅しましたので、また寝坊してしまって、十分な準備ができません。おゆるしください。

東京の御茶ノ水に、「御茶ノ水クリスチャンセンター(通称OCC)」というビルがあります。

その中にはキリスト教書店もありますし、いろんな講演やイベントも開催されますから、ぜひ一度のぞいてみてください。

そのOCCで行われている、「OCC神学研究会」という集まりに招いていただいて、教派を超えて、有志の仲間で研鑽を積んでいます。

牧師のほかに出版社の編集者もいらっしゃったり、いずれも各教派・団体で大活躍しておられる方々で刺激的です。

今は、朝岡勝という同盟教団の先生が執筆しようとしている「教会に生きる喜び-教会論入門-」という本のために、できあがってきた原稿をもとに学ばせていただくとともに、より豊かな内容になることを願って、みんなで様々な角度からコメントさせていただいたりしています。

それぞれに時間のない中、このような共同研究によって励まし合い、学び合い、夜遅くまで語らうことができるのは幸せなことです。

昨日は、「主の道を伝え、主の道に生きる:伝道」というテーマでした。

いただいた原稿の中から、一部だけお分かちさせていただきます。



「私たちが伝え、生きる道。それは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)」と言われた主イエスご自身です。

・・・「わたしが道なのだ」との主イエスの言葉には、私たちを引き受ける責任の響きがあります。

「道」はただ眺めているだけでは意味がありません。いくら地図を広げて道を調べて、その道筋を頭の中で思い巡らしても、実際にその道に立って、自分の足で一歩を踏み出す決断をし、そして実際にその一歩を歩み出さなければ、その道を通って救いに至ることはないのです。」


共に祈りましょう。

主よ、イエス・キリストという道を教えてくださって、ありがとうございます。イエスを信じ、イエスに従い、イエスと共に、イエスの愛の中で、永遠の命へといたる真理の道を、喜び歩むことができますように。

2017. 01. 31  
すみませんが、今日は朝寝坊してしまいました。

昨日、DVDで「風に立つライオン」という映画を観ました。さだまさしさんの同名の歌・小説をもとにした映画です。

アフリカの地で、スーダンの内戦で傷ついた兵士たちの治療をし、心身の傷ついた少年兵たちに寄り添い続ける、日本人の医師の物語でした。

素直に、とてもいい映画でした。おすすめします。

内容を話してしまうといけませんが、いくつかの聖句を想い起しながら、映画に見入っていました。

ヨハネ福音書8章の「姦通の女」の場面。イエス様によって、罪をゆるされ、存在をいやされた女性。

彼女に対してイエス様は言われました。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

イエス様は、彼女の「これから」の時間をひらいてくださった。新しい生をひらいてくださった・・。

あるいは、ヨハネ福音書12:24「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

これは、イエス様ご自身の十字架の死によって、たくさんの人が救われるという救いを示して言葉ですが、そのようなイエスの献身にならう者たちの献身が、次の実を、また次の実を生み出すのです。


こんな御言葉を心にとどめながら、ぜひご覧になってください。分かち合うことができればうれしいです。

ちなみに、主人公は幼い頃に、シュバイツァーに憧れて医者になりました。

シュバイツァーは、アフリカに赴いた医師であり、偉大な音楽家であり、そして優れた聖書学者でありました。20世紀を代表する、キリスト者の偉人です。


共に祈りましょう。

天にまします、我らの父よ。あなたの愛と平和と正義が、あまねくこの世界に満ち、大地をいやしますように。人々の益のために奉仕するすべての者たちに、上よりの慰めと励ましがありますように。

2016. 12. 13  
昨日、私が学んでいます東京基督教大学で、神学生のための講演会がありました。私たちの教会にも来てくださった朝岡勝先生がお話してくださいました。

<あの日>以後を生きる―震災から5年9か月、というタイトルですが、語られたのは説教論と説教者論です。

あの「未曾有の出来事」とさえ言われた大震災という「苦難」を経験した後で、どんな言葉を語ることができるのか・・・と、悩み、祈り、苦闘し続けてこられた、ご自身の歩みを証しするようにお話くださいました。

その歩みは、より本質的に、「苦難」の中に置かれている聴衆のお一人お一人に、神の慰めを“本当に”届けるということが、どうすればできるのだろうかという悩むことでもあります。

そしてそれは、わたし自身が毎日考え続けていることでもありました。


皆さんと分かち合いたいことはいっぱいあるのですが、あまり難しくなってもいけません。分ち合いやすいことだけ、紹介しますね。

あの震災から二回目の日曜日の3月20日。朝岡先生は牧師になって初めて、原稿なしのメモ書きだけで説教をしました。十分な準備をすることができる時間がなかったからです。

教団の復興支援本部の事務局長として、物資の手配に明け暮れておられました。一週間の睡眠時間は平均3,4時間。ろくに食事もとっていない。一週間で4キロやせ、耳鳴りがするようになる・・・。

そんな状態のまま土曜日になり、その日も日中は震災の対応に追われて、説教準備のために机に座ったのは夜11時近く。

今からでは、いつものような準備をする気力も体力も残っておらず、「主よ、おゆるしください。どうしたらよいでしょうか」と泣き言のような祈りをささげてから、とにかく聖書を開く。

予告されていたテキストは、ヨハネ福音書6:1-15.主イエスが、5000人に食べ物を与えるという、奇跡がしるされた記事でした。

一度、二度と読むうちに、ぽろぽろと涙があふれてきて止まらない。みことばが心の中に一言一言染み込んでくる。

疲れて渇いた心のひび割れに、みことばがしみわたってきて、だんだんと命が潤い、内側から魂が活性化して力があふれて来るのを感じた。

この一週間、物資手配という慣れない働きの中で、たくさんの問い合わせや苦情にも疲れ果て・・・、その自分の一週間が、5000人を前に途方に暮れつつ、人々の腹を満たそうと悩んだ弟子たちと重なった。

そして深く教えられた。ぼくたちが人々の必要を満たすのではない。満たしてくださる方は、主イエス・キリストご自身なのだという確信であった。

・・・・このようにして、だれより説教者自身が、「みことば体験」をしたのです。

説教とは、説教者が作り出すものではなく、やはり本質的に、主から与えられて語るものなのですね。


共に祈りましょう。

主よ、今日もそれぞれの苦しみや悲しみを負って生きておられる、愛するお一人お一人に、どうか上よりの慰めと祝福がありますように。すべてを満たしてくださる、あなたにおゆだねいたします。
2016. 04. 27  
日曜日の礼拝ではマタイ福音書をずっと読んできましたが、今はついに十字架の場面です。

十字架から復活へ・・ここに福音書のクライマックスがあります。礼拝から離れておられる方々も、ぜひお集まりください。お聞き逃しなく。

先の日曜日には、十字架から決して降りようとされなかったイエス様のお姿を見ました。

人々は「十字架から降りられない者など信じられるか」とののしります。でもイエス様は降りられないのではなく、降りないのです。

もしイエス様が、十字架から降りてしまわれたらどうなったのでしょう?

こういう黙想を深めて、イタリアの修道士が小説を書きました。そしてマーティン・スコセッシ監督により「最後の誘惑」という映画になりました。

カトリックでは上映禁止とされるほどのスキャンダラスな映画でしたが、私自身は、まだ洗礼を受けるずいぶん前に鑑賞し、イエス・キリストという方への思いを高められた映画でした。

今考えると、聖書の教えと異なる危ういところのたくさんある映画でしたが・・。

その映画の中では、イエス様は十字架を降りてしまわれます。

十字架の上のイエス様に、サタンは天使の姿で近づき、「もうあなたは十分苦しんだ。残りの生涯は自分のために過ごしなさい」と誘惑します。

十字架から降りたイエス様は、マルタとマリアを妻とし、数人の子が生まれ、幸せな日々の後に死を迎えようとされます。

でも、時はユダヤ戦争の始まり。エルサレムに火が放たれ、絶望が訪れようとしていました。

そんな中で、安らかに息を引き取ろうとするイエス様のところに、イスカリオテのユダが飛び込んできます。そして「おれはお前が十字架にかかる手伝いをするために裏切り者となったのだ。お前が十字架から降りてしまったら、一体、イスラエルの救いはどこにあるのか!!」と訴えます。

その叫びによって、イエス様は我に返ると、そこは十字架の上でした。

そうしてイエス様は、サタンによる最後の誘惑に勝たれて、「成し遂げられた(ヨハネ19:30)」と叫ぶのでした。

これは映画のフィクションに過ぎません。でも、十字架から降りようとされなかったイエス様の決意を、深く思い巡らすきっかけになればと思います。


共に祈りましょう。

我が救いのために十字架の苦しみを受けきってくださった主イエスよ、あなたの愛に満たしてください。私もまた、誘惑に打ち勝つ者となるために。神の御旨に生きる者となるために。
2016. 02. 04  
今週は、マタイ25:14-30の「タラントンのたとえ話」に関連して、御言葉を分かち合っています。

「怠け者の悪い僕」の最大の問題は、主人のことを間違って理解してしまったことでした。

強欲で、理不尽な主人で、損失を出せばどんな罰が与えられるか分からないと恐れたから、彼は間違った態度と行動をとりました。

これは私たちに大きな教訓を与えてくれます。

私たちも、主である神様・イエス様に対する間違った理解をしてしまうことで、人生における態度や行動に大きな間違いが出てしまいます。

「真に神を知ることなくして、人は人生の意義、目的を正しく知ることはできない。(田中剛二)」

失敗を罰する恐怖の神しか知らないならば、人生は恐れと不安に満たされてしまいます。

あるいは、自分は理不尽な神に振り回されてばかりで、人と比べてつまらない人生しか用意されていないとひがみながら、ねたみながら歩むことしか知らないならば、そのような人生になってしまうのでしょう。

そうじゃないのです。私たちと主との関係は、愛と信頼の関係であるはずです。

イエス様が、私たちにくださった言葉を思い返して、今日の日を過ごしましょう。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ15:15)」


共に祈りましょう。

主よ、悩むことが多くて、自分はあなたに愛されていないと不平を言ってしまう者をゆるしてください。主よ、今なによりもまず私自身が、あなたとの愛と信頼の関係に生きることができますように。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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