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2020. 04. 16  
この配信を新しく受け取るようになられた方が伝えてくださいました。

「主日の礼拝説教を喜んで聞いても、二日もすれば忘れてしまいます。だから、こうして確認・復習ができてありがたいです。」

私自身も、自分で語っていながらすぐに忘れてしまうものです。本当に、忘れてしまうのは悩ましいことですね。

でも、主日の御言葉は、今週の私たちのために神がオーダーメードしてくださった、特別な命です。

だから、魂に刻み込むようにして、生活の中で日々思い出し、味わい尽くしたい。そのための、この配信です。

私の研究課題でもあるのですが、礼拝説教の良し悪しというのは、9割がたは聞き手次第です。

皆さんには、御言葉の命をあますところなく受け取ることができる、プロの聴き手になっていただきたいと願っています。

私は、あますところなく伝えることができる、プロの語り手であるべく努力と修練を重ねます。

だから、説教者のためにいつも祈ってください。

皆さんの祈りを、私は必要としています。準備を祈りで支えてください。私も、皆さんのために祈り続けています。


改めて、今週の私たちに与えられた御言葉を、みんなで短く確認しましょう。

ヨハネ20:23「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

この御言葉は、こういう風に読みましょうとお伝えしました。「この世は罪の世だ、ダメな世界だ、絶望しかないと決め込むなら、あきらめるなら、この世は罪にとどまったままになってしまう。」

今、終末的な絶望感さえ漂う私たちの世界です。罪人の積み重ねてきた歴史の挫折といっていいでしょう。

でも、この試練が、世界や教会を悔い改めさせ、新しくするのかもしれません。

だから私たちは、復活の主イエスを信じ、すべてを刷新してくださる聖霊の風が、それぞれの大切な人たちがいる場所に吹き渡るのを祈り求めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も聖霊の導きによって、私たちが御言葉の命にとどまることができますように。いや、私たちの生活の中で、いよいよ豊かに御言葉が思い出され、励ましと慰めをいただいて、霊の喜びが増し加えられますように。今日私たちが遣わされていく、すべての場所に、聖霊の風を吹き渡らせてください。そして、私と私の周りの人たちに、今まで知らなかったような喜びの世界を見させてください。


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2020. 04. 15  
あの日、鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちと同じように、それぞれの自宅に閉じこもって礼拝を守った私たちでした。

今、恐れと不安がまったくないという人はいないと思います。

どうしても沸き起こってくるものを、無理に抑え込む必要はありません。素直に「怖いです、不安です」と言えばいい。

でも、私たちはクリスチャンです。復活の主を信じる、希望の人です。

怖くて不安でも、私たちは、生きておられる主に希望を置きます。

たとえこの命が失われようとも、地上の命よりもはるかに大きな永遠の命の喜びが、いつも私たちの歩みを照らしてくれます。

あの日、主は弟子たちを訪れてくださったように、私たち一人一人の自宅を訪れて、「シャローム、平安あれ」と、命を吹き込んでくださいました。

礼拝の最後に、私は皆さんのために祈りをもって、このように祝福を宣言しました。

「安心して行きなさい。強く雄々しくありなさい。恐れることはない。私たちの神である主が、いつも共におられます。」

私の口を通して、主イエスが「シャローム、安心して行きなさい」と言ってくださった・・・。私は強くそう感じました。

祝福の宣言は、派遣の宣言でもあります。

主は、私たちそれぞれの自宅に訪れてくださって、その場において、私たちを派遣してくださったのです。

「聖霊を受けなさい。わたしはあなたがたを遣わす。今、あなたの家族や友人たちの間にあって、あなたの職場にあって、地域社会にあって、イエス・キリストの命に結ばれた希望の人として、愛の人として、いつでも光を見失わないで歩みなさい」と、派遣してくださいました。


共に祈りましょう。

主よ、今、私たちの周囲にも、感染に苦しむ方、その対応のために疲れ果てている方、生活に困窮を覚えている方がいるかもしれません。感染のリスクを負いながら、今日も店頭に立ってレジを打つ方や、電車に乗って通勤する方々のことも憐れんでください。学校が始まらない子どもたちの心に、ほがらかさを与えてください。主よ、私たちは弱いです。でも、あなたを信じることができる、それが私の喜びです。
2020. 04. 14  
今日から「日々の祈り」を再開します。毎週火曜日から金曜日に、主日の御言葉を中心にした祈りの生活を共にしていきましょう。

先の主日は、それぞれの教会で大変印象深い、忘れがたいイースターになったのではないかと思います。

湘南恩寵教会では、牧師と長老以外は自宅待機でしたが、インターネットを通してたくさんの方がライブでつながり、総勢29名の参加でした。いつもよりも多いくらいです。

分かち合ったのは、ヨハネ福音書20:19-23です。

ユダヤ人を恐れて、鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの姿が、今の私たちに重なります。

ご自宅で待機せざるをえなかった皆さんにとっては、なおさら、この弟子たちの姿が自分にダブったかもしれません。

このテキストを選んだのはひと月前ですから、こんな状況は想像していませんでしたが、主の導きによってふさわしい御言葉が備えられました。

まことに私たちは、恐れと不安にとらわれつつ、無力さや惨めさ、またどこか後ろめたさのようなものを抱えながら、礼拝に臨んだかもしれません。

でも、あの日、弟子たちのところに来てくださった主イエスが、わたしたちのところにも来てくださいました。

鍵をかけて閉じこもっていたそれぞれの家の、その真ん中に立ってくださったのだと思います。

主はわたしたちに言ってくださいました。「シャローム、大丈夫だ。安心しなさい。しっかりしなさい。私があなたがたと共にいる。あなたがたのすべては、私が受け止める。」

十字架の傷のついた大きな手を広げて、そう言ってくださったのです。


共に祈りましょう。

復活の主よ、あなたが生きておられるから、この小さな心は大きくなります。今日もひとりひとりの霊肉に平安を与えてください。疲れを覚える者、不安に暗くなっている者を憐れんでください。この世界にかかる暗い雲を、聖霊の風によって吹き払ってください。とりわけ、奮闘する医療従事者の方々などに、あなたの励ましと支えがありますように。
2019. 12. 25  
クリスマスは、「神の言」が肉をまとって、人間としてわたしたちのところに来てくださった時なのだと、ヨハネ福音書は示します。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)」

考えてみれば、神が人間の言葉を語って、ご自分のことを知らせて下さるというのは、大変なへりくだりです。

小学生にでも分かる言葉で、自分の研究の要点を話してみなさい・・・こう言われると、ほとんどの学者は困ってしまうでしょう。

神の言葉は、本来、神様にしか分からない、聖なる、超越した言葉です。

でも神は、アダムの時より、私たち人間に深く関わり続けることを望んでくださって、人間に分かる言葉で語りかけてきてくださいました。これがすでに、大いなる恵みです。

そうして、モーセや預言者らを通して、神はメッセージを送り続けてくださったのです。

それらは、いと高きところにおられる神からの愛の伝言でした。

でもそれは、不完全で過ち多い人間の器を用いてのものでしたから、十分ではありませんでした。

だから三位一体の神は、ついに自ら人間となって、私たちのところに来てくださいました。

メールやラインが発達した今でも、コミュニケーションは難しいです。会って話すことに優るものはない。

いや、話さずとも、その人がそこにいるだけで安心する・・・、そういう時があることを私たちは知っています。

イエス・キリストは、まさにそのように、そこにいるだけで、神の思いのすべてを伝えてくださった方でした。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)」

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:1)」


クリスマスの時、イエス様のご生涯そのものを通して伝えられる、神の救いのメッセージを、しっかりと聴き取りたいと願います。

共に祈りましょう。

主よ、あなたはそこまでして、私を救おうとしてくださるのですか。わたしに語りかけようとしてくださるのですか。主よ、私たちのかたくなさを砕いてくださって、あなたの言がよく聞こえるようにしてください。
2019. 07. 02  
先の主日は、使徒言行録8:26-40のフィリポとエチオピアの高官の出会いの物語を分かち合いました。

それは、「寂しい道(8:26)」を行く寂しい罪人に与えられた、信仰の友との出会いでありました。

フィリポのように、聖書の理解をたすけてイエス・キリストのもとへと導いてくれる友が、私にもおりました。

皆さんにもそれぞれ、信仰の歩みのはじめに、あるいはその後も、伴走してくれる信仰の友との出会いがあったことと思います。

人間はみんな、神からはぐれ、人からはぐれた罪人だから、本質的に寂しさを抱えている存在なのだと思います。

みんな、よく分かっているのです。人はそれぞれ、自分のことで忙しいと。

自分のことしか考えられない。それこそ、罪の本質でもありますから。

夫婦であっても他人です。親子であっても、血がつながっているだけで、本質的には「他者」です。

「他者」と完全には分かりあうことはできません。そして誰もが、「他者」よりも自分が大切です。

みんな分かっている。そういう人間の本質を分かっている。

でも、だからこそ、友がほしい。

そのように切実に祈り求めるのもまた、人間です。


だから神は、イエス・キリストという、まことの友を与えてくださいました。

このキリストのもとで、キリストを見上げる者たちが、信仰の友情を育み合うことを、主は願っておられます。

そのような友情を、祝福として与えてくださいます。

イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ15:12-15)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私たちの信仰の生涯に与えてくださる、数々の信仰の友との出会いを、心から、心から感謝します。我らともに主を見上げ、愛し合い、励まし合い、キリストの愛を証しするこの一日でありますように。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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