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2019. 12. 25  
クリスマスは、「神の言」が肉をまとって、人間としてわたしたちのところに来てくださった時なのだと、ヨハネ福音書は示します。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)」

考えてみれば、神が人間の言葉を語って、ご自分のことを知らせて下さるというのは、大変なへりくだりです。

小学生にでも分かる言葉で、自分の研究の要点を話してみなさい・・・こう言われると、ほとんどの学者は困ってしまうでしょう。

神の言葉は、本来、神様にしか分からない、聖なる、超越した言葉です。

でも神は、アダムの時より、私たち人間に深く関わり続けることを望んでくださって、人間に分かる言葉で語りかけてきてくださいました。これがすでに、大いなる恵みです。

そうして、モーセや預言者らを通して、神はメッセージを送り続けてくださったのです。

それらは、いと高きところにおられる神からの愛の伝言でした。

でもそれは、不完全で過ち多い人間の器を用いてのものでしたから、十分ではありませんでした。

だから三位一体の神は、ついに自ら人間となって、私たちのところに来てくださいました。

メールやラインが発達した今でも、コミュニケーションは難しいです。会って話すことに優るものはない。

いや、話さずとも、その人がそこにいるだけで安心する・・・、そういう時があることを私たちは知っています。

イエス・キリストは、まさにそのように、そこにいるだけで、神の思いのすべてを伝えてくださった方でした。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)」

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:1)」


クリスマスの時、イエス様のご生涯そのものを通して伝えられる、神の救いのメッセージを、しっかりと聴き取りたいと願います。

共に祈りましょう。

主よ、あなたはそこまでして、私を救おうとしてくださるのですか。わたしに語りかけようとしてくださるのですか。主よ、私たちのかたくなさを砕いてくださって、あなたの言がよく聞こえるようにしてください。
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2019. 07. 02  
先の主日は、使徒言行録8:26-40のフィリポとエチオピアの高官の出会いの物語を分かち合いました。

それは、「寂しい道(8:26)」を行く寂しい罪人に与えられた、信仰の友との出会いでありました。

フィリポのように、聖書の理解をたすけてイエス・キリストのもとへと導いてくれる友が、私にもおりました。

皆さんにもそれぞれ、信仰の歩みのはじめに、あるいはその後も、伴走してくれる信仰の友との出会いがあったことと思います。

人間はみんな、神からはぐれ、人からはぐれた罪人だから、本質的に寂しさを抱えている存在なのだと思います。

みんな、よく分かっているのです。人はそれぞれ、自分のことで忙しいと。

自分のことしか考えられない。それこそ、罪の本質でもありますから。

夫婦であっても他人です。親子であっても、血がつながっているだけで、本質的には「他者」です。

「他者」と完全には分かりあうことはできません。そして誰もが、「他者」よりも自分が大切です。

みんな分かっている。そういう人間の本質を分かっている。

でも、だからこそ、友がほしい。

そのように切実に祈り求めるのもまた、人間です。


だから神は、イエス・キリストという、まことの友を与えてくださいました。

このキリストのもとで、キリストを見上げる者たちが、信仰の友情を育み合うことを、主は願っておられます。

そのような友情を、祝福として与えてくださいます。

イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ15:12-15)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私たちの信仰の生涯に与えてくださる、数々の信仰の友との出会いを、心から、心から感謝します。我らともに主を見上げ、愛し合い、励まし合い、キリストの愛を証しするこの一日でありますように。
2019. 05. 29  
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」という御言葉を与えられているこの一週間です。

先週、神戸改革派神学校のリトリートで奉仕をしましたが、その際にうかがった新入生の証しを紹介させていただきます。

彼の家は先祖伝来の仏教徒の家で、おじさんがお寺の住職だそうです。

そういう中で、お母さんが最初の実りとして洗礼に導かれ、続いてお父さんや子どもたちもクリスチャンになりました。

しかし、父方の祖父母がそれをよしとしませんでした。

とりわけ、嫁であるお母さんへの迫害は激しいものでした。この家に悪しきものを持ち込んだ悪魔のような扱いをされたそうです。

お母さんがおばあさんにぶたれながら泣いている姿が、強烈に記憶に残っているそうです。

主日礼拝に出かけようとする時に、毎週ホースで水をかけられたそうです。

それでもお母さんやお父さんの信仰は萎えることなく、むしろ、苦しみを味わうほどにキリストと強く結ばれ、喜びを深めておられたそうです。

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それはキリストの栄光が現れる時にも喜びに満ちあふれるためです(Ⅰペトロ4:13)」を思い出します。


この話には続きがあります。

そのようにして激しい迫害を続けた父方の祖父母ですが、まずおじいさんが最晩年に至って、自分からお父さんに求めはじめ、亡くなる前にキリストを受け入れるに至ったそうです。

そしておばあさんは、お母さんが介護をしながら、示されたところあって福音を伝えると、これまでとは全然違うよい反応が与えられたとのことでした。

それがつい先々週のことだと、伺いました。

主イエスはすでに世に勝っておられます。このキリストにしっかり結ばれて、勇気をいただきたいと願います。


共に祈りましょう。

主よ、今日も世の中で生きていきます。必要な力と知恵を、勇気を、希望を与えてください。粘り強く、あなたの勝利を信じる信仰をください。

昨日は川崎市で大変悲しい事件がありました。神様、あなたが誰よりも一番悲しんでおられるでしょう・・。今、不安にかき乱されている者がいましたら、どうか主イエスにあって平安がありますように。主よ、どうかこの罪の世界からあらゆる悲惨をぬぐってください。
2019. 05. 28  
先の主日は、ヨハネ16:29-33より、特に33節のこの御言葉にみなで聴き入りました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

この言葉は、14章からはじまるイエス様の「告別説教」と言われる長い長い教えの、しめくくりに与えられたものです。

まもなく十字架と復活を経て天へと上っていかれる。弟子たちとは、地上の別れとなります。

しかし、イエス様と彼に選び分かたれた者たちとは、深く結ばれてどこまでも一体であるということを、主は繰り返し教えてくださいます。


私の最愛の讃美歌のひとつ、358番の4節はこういう歌詞です。

「世のちからせまれども、 死に勝ちし主によれば、 やすらけきよろこびは  わがむねにみちあふる。」

これはヨハネ16:33をそのまま歌にしたものでしょう。

私たちは、イエスに深く結ばれているがゆえに、イエスと同じように世に憎まれ、さまざまな苦難にさらされます。

だれもが、自分の十字架を負わねばならない。

しかし私たちは、イエスに深く結ばれているゆえに、その復活の勝利と栄光にも結ばれて、決して世に負けることがありません。


イエス様は、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」に、このことを伝えるのだと言われました。

「わたしによって」=「わたしにしっかり結びついて」ということです。

「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」という、素朴な讃美歌もあります。

主は言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(ヨハネ15:4)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私のそばで、勇気を出しなさいと励まし続けてください。わたしの内にあなたが生きてくださり、あなたの内にわたしを生かし守って下さい。今、暗いトンネルを行くような思いでいる方も、主に結ばれて平安であることができますように。
2018. 11. 23  

先日、うれしい語らいの時が与えられ、互いの魂の平安のために祈りました。

昔は見えていなかったものが、よく見えるようになってきたと証しをしてくださいました。

イエス・キリストの恵みということが、実に、言葉にできないような深さ、広さ、高さ、大きさをもっているということも、分かってきたとおっしゃる。

ですから私も申し上げました。

人間の言葉にはどうにも言語化し得ないからこそ、神は人となって来てくださったのでしょう。

イエス・キリストは、「神の言」すなわち「神の思いのすべて」であると、ヨハネ福音書に言われています。

その思いのすべてを届けるようにして、受肉して、わたしたちのところに来てくださいました。


ヨハネ福音書1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

キリストが来てくださった。もう、これでいいのです。そこにすべてがあります。

次の主日に分かち合う、黙示録の最後のところ。

聖書66巻の最後の最後は、こういう祈りと祝福で締めくくられています。

「主イエスの恵みが、すべての者と共にありますように。」


共に祈りましょう。

主よ、主イエス・キリストの恵みで、わたしたちの小さな魂をいっぱいに満たしてください。恐れや不安の入り込む余地のないくらいに。そして、その祝福があふれだして、わたしたちの周りにまで及ぶほどに。



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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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