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2018. 12. 05  
クリスチャンに独特の言葉づかいを天国人のボキャブラリーとして紹介しておりますが、今日は「アーメン」について考えます。

クリスチャンがお祈りをする時には、最後にアーメンと言って締めくくることは有名だと思います。

これは「真実です」という意味でして、このお祈りが真実に確実に神様に聴かれているとの確信をもって、アーメンと言うわけです。

でもお祈りの時以外にも、アーメンと思わず言ってしまうような時があります。

例えば先日、ある方と話していて大変に励まされたことがありました。

その方は、試練を味わってしばらく苦しい日々が続いていたけれど、「神は愛する子を鍛錬なさるのだ(ヘブライ12章)」という御言葉が与えられて、前向きな気持ちになることができたと教えてくださいました。

そして自分自身に与えられた神様からの役割に励んでいきたい、先生、主の御用のためにいっしょに歩んでいきましょうと、力強く呼びかけてくださいました。

私は思わずアーメンと言っておりました。

「アーメン、確かに神は生きておられます、あなたの言うとおりだ、それは真実だ」という思いを込めて、「アーメン」と叫んだのです。

そんな風にして神は、私たちの日常のいろんな場面で喜びや励ましを与えてくださって、私たちにアーメンと叫ばせてくださるのです。


共に祈りましょう。

アーメン、主イエスよ、あなたは生きておられます。今日も私たちを強く導いてくださって、光ある方へと進み行かせてください。
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2018. 12. 04  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、前回に続いて「自由」という言葉を考えます。

聖書の示す「自由」とは、私たちの真の支配者である神様以外の何者にも縛られない、支配されない、従わないということだと言ってもいいと思います。

使徒言行録の5章29節には「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」という御言葉があります。

たとえ親や教師、また会社の上司であれども、地域の実力者、国家権力であれども、あるいは相手が牧師であれども同じです。

自分は神様以外の何者にも支配されないという魂の自由が問題です。

聖書の教えに従って平和主義を貫いて兵役拒否をした信仰者の話を聞いたことがあります。

そのためにしばらく牢につながれることになりましたが、魂はどこまでも平安で、これまでに味わったことのない自由の喜びを覚えたということでした。

あるいはまた魂の自由という時には、わたしたちの心を縛ろうとしているこの世の力や世俗主義への抵抗ということも考える必要があります。

私たちの魂は無色透明ではありえませんで、世間の常識とされる価値観に知らず知らずに縛られていて、かなり不自由になっています。

そういう「自分の不自由さ」への気付きこそが重要です。

「今はみんなこういう考えで生きている。これを知らないと流行おくれ、非常識・・・。」

そういう価値観の押し付けに対して、私には関係ないと、ひとりでキリストの道を行く、そういう自由があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、ひとりひとりが厳しい現実の中を生きていて、思うに任せぬ人間関係もあることでしょう。窮屈に心を封じられて、苦悩している人もいるかもしれません。どうか主よ、私たちに、キリストの道をひとりで歩む勇気を与えてください。
2018. 11. 30  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「自由」という言葉を考えてみましょう。

自由という言葉は魅力的な言葉ですね。一般的な日本語としてもよく用いられますし、その使い方は実に多様です。

日本国憲法で保障されている信教の自由や表現の自由といったことから、学校の自由時間とか自由研究といったことまで。

自由とは何かということは学問的にも大きなテーマですから、とても一口では言えないでしょうが、一般的な辞書的意味では、「心のままにふるまうこと、何者にも束縛されず自分自身の本性に従うこと」という風にとらえられているようです。

しかしそうなってきますと、教会で言われているところの自由ということとは、だいぶ意味合いが変わってくるのです。

キリスト教の教えでも、よく自由、自由と言われます。

でも、「全然自由じゃないじゃないか、日曜日には毎週礼拝するし、神様以外は信じちゃいけないっていうし、制約のほうが多いじゃないか・・」と、私ははじめのころ思っていました。

それは聖書の言葉遣いにおける自由というニュアンスが分かっていなかったからです。

イエス様の教えるところによれば、私たちが心のおもむくままに振る舞うことは、よくないことです。

なぜなら、私の心は罪に汚染されているからです。

むしろ、そういう罪深い思いに縛られてきた、古い自我を脱ぎ捨てて、新しくキリストと共に生き始めること。

それすなわち「罪からの自由」ということ。これが聖書における「自由」という言葉です。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたと共に歩ませてください。あなたが共にいてくださるから、私たちもあなたに従っていきたいのです。今日、様々な場面で、いろんな判断を迫られるとき、願わくは、あなたが私たちを導いてくださって、あなたが喜んでくださる判断ができるようにしてください。
2018. 11. 29  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「幼子のような信仰」という言葉を紹介します。

これは信仰のひとつの理想形としてあるものですが、先日ある映画を見ていて、「幼子のような信仰」とはこういうことかと考えさせられました。

「グッドライ いちばん優しい嘘」という実話に基づく映画です。

アフリカのスーダン南部で、牛を飼って生活しているような素朴な村の人たちが、内戦によって襲撃されて、子どもたちだけが生き延びます。

彼らは難民となって、1000キロ以上の道を徒歩で旅してケニアを目指します。

余りにも過酷な状況です。でも自暴自棄になることなく、ただ生きたいと願って歩み続けます。

彼らはダニエル、あるいはポールすなわちパウロなどと名付けられたクリスチャンです。

主なる神に信頼し、助けを得れば感謝をしながら、聖書を大事に抱えて歩んでいきます。

途中、傷ついて死を待つ人と出会います。

彼らはその人を粗末にはせず、わずかな水と食料を分け与えます。

ほとんど何も持っていないのに、分け与えるのです。

「受けるより与えるほうが幸いである(20:35)」とのイエス様の教えが素直に心に響いてきます。

映画はその後もずっと、彼らの幼子のような素朴さを描き出し、あまりにも感動的なラストへと向かいます。

私もまた、このように生きることができたならいいのにと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちをまっすぐな者に創ってくださったのに、私たちは罪の世界の複雑さの中ですっかり心ねじけてしまって、傷つき、迷い出てしまいました。主よ、あなたを信じる一筋の心を、与えてください。幼子のように、すなおな心を。
2018. 11. 28  
天国人のボキャブラリーシリーズ、昨日に続いて「御心」について考えます。

最近私は「神様の御心とわたしの心を一つにしてください」という祈りを繰り返していますが、この場合の「御心」というのは、ローマ12章2節にあるのと同じです。

こういう風に言われています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

このように言ったあとで、愛をもって互いに尊敬すること、あるいは、悪に悪を返さず善をもって悪に対抗することといった、キリスト教的な生活の教えが続くのがローマ書の12章です。

そこに神の御心があるということです。

これは、私たちに対する神様からの期待と言い換えてもいいかもしれない。

私たちは本来そういう風に生きる者として創造されたのです。

そういう人間本来の尊厳を回復して下さるのがイエス様の救いですし、そうやって神の御心にぴったり沿って生きていくときに、私たちは生き生きと輝きだします。

しかし悲しいかな、私たちの罪は根深くて、神様にいつまでも背き続けてしまうねじけた心を持っています。

だからこそ、神の御心と自分の心がひとつになるようにと、祈り続けていきたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたと共に生きる一日を感謝します。あなたの御心を教えてください。あなたの御心の通りに生きることができれば、どれほど私たちは自由でしょうか。それをさまたげる内外のつまずきを遠ざけてくださって、あなたの御心とわたしの心がひとつになるようにしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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