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2017. 11. 15  
「主の祈り」の「我らの罪を赦してください。我らも自分に罪を犯した者を赦します」という祈りに、考えさせられています。

思い出す聖句があります。ルカ6:37から「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」

「裁くな」、また「罪人だと決めるな」と言われています。

これは、あいつには永遠の滅びが値するなどと、あなたが決めようとするなということであろうと私は解釈します。

最終的な判断を下そうとするな、ということです。

それは一方では、そんなことまでする資格はあなたにはないという、お叱りの言葉でありましょう。

でも他方でそれは、あなたがそんなことまで背負わなくてよいのだ、考えなくてよいのだという、主のもっとも深いところでの憐れみを覚えさせられます。

あなたは、復讐の炎に飲み込まれてはならない、と。

私たちは、だれかを滅ぼそうとするならば、自分もまた滅びの道を行くよりないものです。

神の道をはずれ、御心から遠く離れて、醜い化け物のように、顔も心も変わっていってしまう。

イエス様は、それを望んでおられません。


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちに、悪しき力が臨み、傷つけられることのないように、どうかお守りください。私たちが、誰かを憎むことなく暮らせるように、どうか平和をお与えください。もしもそのようなことが今日与えられても、その時に、どうか、憎しみの炎を制御することができる強さを、私たちに与えてください。
2017. 11. 14  
おはようございます。今日はちょっと寝坊してしまいました・・。

「主の祈り」の「我らの罪をゆるしてください。我らも、他者の罪を赦します」という祈りについて考えています。

この祈りは、祈るたびに、「赦す」ということと向き合わされる祈りだと、確認してきました。

罪の赦しということを考える時に、いつも思い出すのは、ウエストミンスター信仰告白第15章4節の言葉です。

「永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない。」


つまり、どんな小さな罪も、神の正義の前では永久刑罰に価する。

でも同時に、どんな大きな罪でも、真に悔い改める者は赦される・・・、ということです。


それは、神様のなさる人知を超えた御業です。どんな大きな罪も・・・、私たちには到底赦しがたい犯罪者もです。

そして、だれが「真に悔い改める者」となるかは、私たちには分かりません。

主なる神が、本気を出されるときは、驚くべきことが起こります。人の心が変えられます。

だからこそ私たちは、人間の判断で、「あの人は永遠の滅びに価する」などと、勝手に決めることはできません。

「大きな罪」は決して赦されないけど、私たちは「小さな罪」だから赦される、ということではないのです。



共に祈りましょう。

主よ、私たちもまた、いつでも大きな罪を犯してしまう、悪魔を内に宿しているような存在であることを覚えます。どうか今日、私たちが罪を犯すことから守って下さい。分かっていながらもなお、小さな罪を繰り返し続ける者ですが、どうか主よ、赦してください。そして、今日もきよめてください。

2017. 11. 10  
「主の祈り」の、「我らの罪を赦してください。我らも、我らに罪を犯した者を赦します」との祈りを考えています。

この祈りは、やはりただごとではない祈りです。主が教えてくださった、おそるべき祈り。

私たちの心にかかるのは、「私たちも赦します」とあることです。あるいは、「赦すことができるようにしてください」という祈りだと考えてもいいでしょう。

いずれにしろ、「赦される」だけではなく、「赦す」ということを考えざるを得ない。

イエス様は、いつでも私たちに「赦す」ということを覚えさせ、また「赦せるように」と祈らせるために、この祈りを教えてくださいました。


私たちには、赦されることも、赦すことも、両方ともが絶対に必要であることを主は知っておられます。

そこに私たちの魂の救いがあるのです。

だから、「赦されて赦す」という一つの救いの流れの中に、自分も入ることができるように、祈りなさいと主は言われます。この祈りから逃げてはいけない、と。

もちろん、このような祈りを教えてくださったのは、私たちにとって「赦す」ということが本当に難しいことであると、主はよく知っていてくださるからです。

また来週、そのことを考えていきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、この罪の悲惨の世界にあって、私たちはどうしても傷つけあってしまうし、人間がこわくなります。もう二度と会いたくない人が私にもいます・・。今日も、誰かへの憎しみに身を焦がす人がいるかもしれません。どうか、その人を憐れんでくださり、その困難な人間関係に助けを与えてください。そして主よ、私たちが健やかな心で過ごせますように。
2017. 11. 09  
「主の祈り」を考えています。「私たちの罪を赦してください。私たちもまた、私たちに罪を犯した者を赦します」と、このように祈りなさいと教えられています。

「神様から赦される」ということと、「私たちが誰かを赦す」ということは、分かちがたく一つに結びついています。

マタイ18:21からの仲間をゆるさない家来のたとえを思い出しましょう。

「兄弟が私に対して罪を犯したのなら、何回赦すべきでしょうか」というペトロに問いが最初にありました。

その答えとして「七の七十倍までゆるしなさい」とイエス様は言われ、その補足解説として、たとえ話がされています。

1万タラントンという多大な借金(日本円で数千億円くらい、とても返せない金額)をしていた家来がいました。

しかし彼は、王様のまったくの憐れみで借金をチャラにしてもらう。まさに「罪=負い目を赦してください」との願いが聞かれたわけです。

でもそうして赦された人が、仲間を赦さないのですね。

自分に対して百デナリオンというわずかな負債のある仲間を、赦さないで牢屋に入れてしまう。

それを耳にした王が心を痛められて、あれだけの大きな負債を赦されたのに、そんなわずかなことを赦さないとは何事だと怒ってしまう。

ここに示されているのが、赦されることと赦すことの一体的関係です。

本当に赦された者ならば、赦された喜びをよく知っている者ならば、必ず赦すことへと向かうのだ。

これがイエス様の確信であり、また私たちに対する願いです。

またそれがきっと、私たちの魂にとって、自由で幸いな道なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに出会って、はじめて「赦し」ということを考えさせられています。どうか私たちに、「罪の赦し」の喜びを、もっと深く、ゆたかに教えてください。きっとまだ私たちは、赦されるということの意味を、まだ十分に知らないのです。
2017. 11. 08  
「主の祈り」の続き、今日からは「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」を分かち合いましょう。

マタイ福音書6:12では、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあります。

これが、この祈りの原型といえます。

今日は、「負い目」という言葉を考えておきましょう。これは元来、「負債、借金」ということです。

神様に対する私たちの「罪」ということは、このようにして「負い目、負債、借金」という言葉で表すと、また理解が深まるかもしれない。


さらにおもしろい表現として、「神様に貸しをつくる」という言葉があるのはご存知ですか。

旧約聖書の箴言19:17 「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」

神の御心にかなう善行は、主に貸しを作る行為だとの大胆な言葉です。でも、確かにそうやって貸しを作ることもできるのかもしれないが、残念ながら私たちは、神様に対して借金ばかりなのだというのが、聖書の示す人間観ですね。

少しくらいの貸しよりも、圧倒的な負債です。しかもそれは、雪だるま式に膨れていく。

年とともに、人間としての経験をつめばつむほどに。悪に悪をかさね、どんどんかたくなになっていく。

そういう私たちの膨れ上がった負債を、すべて無しにしていただく、それが神による「罪の赦し」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、思い返せば、本当にたくさんの人生の負い目があります。あの時に戻れたら、ちゃんとやりなおしたい、謝りたい・・・、そんな風に思います。そして私たちは今日も、間違いだらけの一日を生きていきます。主よ、どうか私たちの罪を赦してください。正しく導いて下さい。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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