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2017. 11. 07  
自分でもよくまとまらないままに、言葉をつむいでみます。一つの、言葉にならぬ祈りのようなものとして、お付き合いください。

昨日、会議の休憩時間に、「北朝鮮の拉致被害者の横田めぐみさんのお父さんが、洗礼をお受けになったそうだ」と、先輩牧師から聞きました。

お母さんの横田早起江さんがクリスチャンであることはよく知られていますが、お父さんも信仰を起こされたということでしょう。

神に対する深い畏れ(恐れ)を、覚えさせられました。

この世の不条理ということに、一番苦しんでこられた人たちの一人でありましょう。散々に神をうらんでこられたことでしょう。

どのような心の動きがあったのか、知る由もありませんし、想像するのは失礼です。分かるのは、主なる神が、横田さんの魂を大切にお取扱いくださったということだけです。

私たちの社会の深い暗闇について考えさせられる、この数日でもあります。

座間で起きていた異常な連続殺人と、その背景にあった自殺願望者たちのネットワークに、やりきれないむなしさを覚えさせられます。

アメリカでは、キリスト教会の礼拝中に銃が乱射され、27人が死亡したとされます。

こんなことばかりが起きています。怒りを覚えます。ため息ばかりが出ます。

不条理です。あまりにも不条理。地上のすべてが不条理です・・。

当事者ではない自分が、こんな遠いところから、偉そうに事件をながめて、不条理だなどと話しているのも、申し訳ないし、むなしくなります。

どのように言えばいいのか分かりませんが、「神も仏もいやしない」と言いたくなる気持ちはよく分かる。

もし自分が被害者やその家族であるならば・・・、加害者の罪を「赦す」などということを、考えることができるだろうか。

・・・そんなことをあれこれと考えながら、「主の祈り」の「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りを祈っていました。

少なくとも私は、「我らの罪をも赦したまえ」という祈りが、自分の祈りとしてぴったりくるように、今、思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、わが神よ、「わたしはある」と言ってくださったあなたが、今日も生きておられることを信じます。主よ、今日も、私たちの罪を赦してください。この悲惨に満ちた罪の世界を、赦してください。なおしてください。助けてください。私が祈りに覚えるすべての人たちを、大切にお取扱いください。
2017. 11. 01  
「主の祈り」の「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りについて、最後に覚えたいのは感謝ということです。

この祈りを教えられた当時のユダヤ人と、現代の私たちとでは、生活の危機感がまったく違います。

イエス様の前に集まってきた群衆の多くは、その日暮しでせいいっぱいでした。

わたしたちは、毎日ごはんが食べられるということが、どれほどの恵みであるのかということを覚えていたいと思います。

我が家では子どもたちに、「ごはんだけは大事に食べなさい」と教えてきました。

それは一般的なしつけではなく、そのことを通して、日々の生活における神の恵みへの感謝を覚えてほしいと願ってきたからです。

神への感謝がなければ、人への感謝もないことでしょう。

逆もしかりですね。ごはんを作ってくれた人や、生産者への感謝を知らない人は、神への感謝も知らないでしょう。

恵みを感謝するということを覚えると、小さなことにも、感動するようになります。

感動するから、唇からは賛美がこぼれだします。それは、喜びの日々です。

「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソ5:18-20)」


共に祈りましょう。

父なる神よ、主イエスの救いのゆえに、あなたの尽きせぬ恵みにあずかるわたしたちの幸いを感謝します。主よ、今日も必要なすべてを与えてください。与えられるすべてのものに感動していたいのです。

2017. 10. 31  
「主の祈り」を分ち合っています。「我らの日用の糧を今日も与え給え」との祈りは、考えるべきことの多い祈りです。

今日注目したいのは「我ら」という視点です。

「私に必要な糧」ではなくて「私たちに必要な糧」を求めなさいと、主は教えてくださいました。

「私たち」という以上、私ではない他者の存在が視野に入ります。

私の家族、友人は当然でしょう。特に今、現実的経済的に困窮している兄弟姉妹がいれば、その方々のことを覚えながら、その方々と共に祈るという思いを持つことは大切です。

もっと視野を広くすれば、十分な食糧を得ることができない、世界中のすべての飢える人々とともに祈ることへと私たちは招かれているのだと思います。

神の憐れみを受けるべき、世界中のすべての飢える者と共に、「私たちに必要な糧を今日与えてください」と祈るのです。

私だけの必要だけを考えるならば、むしろダイエットのために今日の糧を少なくしてくださいとさえ願いかねない・・・。

そうではなく「私たち」の必要が満たされるように・・・。


共に祈りましょう。

主よ、先の日曜日にはこひつじカフェを行うこともでき、カンボジアの兄弟たちへの献金をささげることがゆるされ、ありがとうございます。今日のごはんを食べることのできない方々が、私たちの国にもたくさん存在しています。どうか、我らの日用の糧を与えてください。
2017. 10. 27  
「主の祈り」の続きです。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」。

箴言の中にこんな言葉があります。

「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」箴言30:7~9

貧しくもせず、金持ちにもしないでください。

たくさんあると傲慢になり、神をかえりみようとしなくなる。

お金に縛られ、欲望の赴くままに振舞ってしまって、神の道を踏み外してしまいかねない。

かといって、少なければ、悪しき心の奴隷となってしまう。

罪の赴くままに、ひがんでしまう。ねたんでしまう。そして隣人のものを欲しがり、盗みを働いてしまう。
 
神が私のために、ちょうどいい分だけ定めてくださっているものを、感謝して受け取らせていただきたい・・・。


魂の自由のために、多すぎても少なすぎても駄目なんですね。ちょうどいいだけ与えてもらうのがいい。

そんな風に、今日必要な分を、今日ふさわしく与えてください。それが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りの含蓄です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も必要なすべてを備えてください。そして、すべてを感謝し、喜ぶことのできる心を備えてください。あなたの独り子の命によってあがなわれたこの魂を、豊かに、すこやかに保つことができますように。
2017. 10. 25  
「主の祈り」の学びも後半に入ります。今週は「我らの日用の糧を我らに与えたまえ」という祈りに深まりましょう。

「日用」というのは、日常用いるということですね。「糧」とは、朝昼晩の食事、のみならず生活に必要な一切です。

ルーテル教会などでは「日ごとの糧」として、その日その日と一日ごとに必要な今日の糧、と理解します。

違いを厳密に考えるのもおもしろいですが、私はむしろ、総合的に考えればいいと思っています。

大事なことは、この祈りは「今日わたしたちに必要な分を、今日必要なだけ与えてください」という祈りだということです。


出エジプト記にはイスラエルの荒れ野の40年の旅路が記されていますが、その旅路においてはマナという不思議な食べ物がいつも与えられて、飢えをしのぐことができたというのが印象的です。

そのマナは、いつも今日必要な分だけ与えられるのですね(出エジプト16章)。

それは翌朝まで残しておくことはできない。欲を出してたくさんとってきたとしても、残しておくと虫がついてくさくなってしまう。

主は毎日、ちょうどいいだけ与えてくださるということが、象徴的に示されている故事です。

今日も、主に信頼して生きていきたいですね。きっと今日も、わたしたちに必要な分だけ、必ず備えていてくださいます。


共に祈りましょう。

愛する主よ、おいしいごはんも、衣服も、あたたかい布団も、今日も豊かな糧を与えてくださり、本当に感謝します。しかし、今、わたしに与えられているものが与えられていない方々のことを覚えます。どうぞ主よ、彼らに必要なものを備えてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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