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2017. 12. 02  
昨日に続いて「アーメン」という祈りを覚えて、「主の祈り」の学びをおしまいにしましょう。

「アーメン」とは、「まことにその通りです」という感じの言葉です。

それを祈りの最後につけることで、「たしかにこれは私の祈りです」と確認し、神様に「だから、受け取ってください」と差し出すのです。

同時に、「アーメン」と唱えるときに私たちが心に思うのは、「たしかに、神はこの祈りを聞いておられる」という確認です。


ハイデルベルク信仰問答の129問に、「アーメン」の解説があり、このように言われます。

「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。

なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、

わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。


思い出すのは、イザヤ65:24の御言葉です。

「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。」

私たちが祈る前から、私たちの祈りを全部知っていてくださる神様です。

私たちには、自分の周辺のことばかりの貧しい祈りしかできませんが、そういう小さい思いをこえて、私たちが祈っていなかったようなことまで考えていてくださる神様です。


そういう神様に、確実にこの祈りは聞かれている。

そういう確認をもって、「アーメン」と言うのです。


共に祈りましょう。

主よ、今週の歩みも今日までたくさんの恵みをありがとうございます。すべての祈りを聞いていてくださるあなたに信頼します。アーメン主よ、あなたは生きておられます。

※ 今日は子どもたちのクリスマス会があります。お祈りください。
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2017. 12. 01  
「主の祈り」の学びの最後、今日は「アーメン」という言葉のすばらしさを覚えましょう。

これは、イエス様たちが使っておられたユダヤの言葉で、「真実であり確実です」という意味です。

もともとは「アマン=信じる」という言葉から生まれてきた言葉。

これは神様に応答するときの決まり文句として、旧約聖書の時代からずっと用いられてきたものです。 

例えばネヘミヤ書8:5-6に、バビロン捕囚から帰還後、復興した神殿での礼拝において、 こういう風に描かれます。

「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」

新約聖書にも何度も「アーメン」は出て来ます。

イエス様も、口癖のようにいつもアーメンと言っておられました。

福音書を読んでいると、イエス様の不思議な独特な言い回しに気付きませんか。「はっきり言っておく」という言い方です。

これは原語では、「アーメンアーメン、私は言うよ」という言葉です。

これは本当だよ。わたしがこれからいう事は真実だから、よく聞きなさい、と言っておられるのです。


そういうわけで、「アーメン」とは、真実ということを大切にしてきた信仰者たちが使ってきた、不思議な決まり文句です。

長くなってしまったので、明日もう一回、「アーメン」を分ち合って終わりましょう。



共に祈りましょう。

主よ、今やポストトゥルースとも言われ、真実を見失ってしまった私たちの世代です。それゆえにまた、真実なことを、切実に求めている私たちです。イエス・キリストの十字架において示された、あなたの真実な愛に、私はよりたのみます。アーメン主よ、今日もあなたが生きておられる。
2017. 11. 30  
「主の祈り」を長く学んできました。あと2回で終わりにしましょう。

「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり」と締めくくられます。

「国」とあるのは、英語ではKingdom。そこに含意されているのは、「私たちを支配しているのは、地上の王様ではない。国家権力でもない。天におられるわれらの父だ!!」という信仰告白です。

国も力も栄光も、「神様あなたは、すべてを持っておられる」と、信仰を表しているのです。

神は、すべてを持っておられる。そしてその神が、わたしのお父さんでいてくださり、必要なすべてを与えてくださいます。

だからこそ、私たちは、この「天にまします我らの父」に祈るのです。祈っていいのです。祈りが無駄にならないのです。

つまり、この締めくくりの言葉が教えているのは、神への信頼ということなのです。


共に祈りましょう。

愛する父よ、あなたを信頼いたします。私の胸の内にある思い煩いなど、あなたはすべてご存知なのですね。すべてを知っておられ、すべてを持っておられるあなたが、私が心配しているすべての愛する者たちのことも、守り導いてください。

2017. 11. 22  
「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」を解説するハイデルベルク信仰問答の127問がよいです。

「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんのひととき立っていることさえできません。

その上わたしたちの恐ろしい敵である、悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。

ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください。」


こういう具合に、「霊の戦い」という視点を明確にして解説をしてくれています。

「悪」というのが、「悪魔やこの世、また自分自身の肉」という風に解説されています。

恐るべき「悪魔」からの攻撃。そして悪魔によってひきいられた、「この世」の様々な力。また同時に、その悪魔と響きあう自分自身の内なる「肉=罪深い性質」。

これらに対して、わたしたちは「あまりに弱い」・・・。

この「弱さ」をしっかり見つめるのです。ほんのひととき立っていることさえできない。そういう自分を、よく気を付けてケアしてあげてください。

そして、弱いからこそ、祈るのです。


共に祈りましょう。

主よ、私は自分がこんなに弱いと、あなたに出会うまでは知りませんでした。キリストの道を知り、あこがれるほどに、おそれの弱さを覚えさせられています。主よ、今日も助けてください。信仰と希望と愛を失うことのないように。あなたの力によって、今日一日、すがすがしい信仰の歩みをなさせてください。
2017. 11. 21  
「主の祈り」の学びも終わりが近づいてきました。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」。

これは、「わたしたちを誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」という祈りです。

「誘惑」と聞きますと、お金の誘惑、美女の誘惑、甘いケーキの誘惑・・・そういう具合に、わたしたちを堕落へと誘い込む甘い罠というイメージがあると思います。

ここで使われているギリシャ語は、ペイラスモスという言葉で、ほかのギリシャ文学ではほとんど用いられない聖書の専門用語であると言われます。

それはすなわち、ギリシア思想と比較したキリスト教信仰の特徴的な思想がここに見出せるとも言えるわけです。

そういうペイラスモスという言葉は、新共同訳では「誘惑」と同時に「試練」とも訳されています。

その場合、私たちの魂を動揺させるような災いや苦難、迫害のことをも含みます。

例えば、ルカ8:13、有名な種まきのたとえ、「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練にあうと身を引いてしまう人たちのことである。」

また、Ⅰペトロ4:12「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」

こんな具合に、ペイラスモスという言葉は、甘い誘惑であると同時に、厳しい試練でもあります。

そのようなペイラスモスによって、悪魔に揺さぶられてしまうことがありませんようにと祈るのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの信仰は実にガラスのようにもろいものです。自分でも、この弱さがいやになります。主よ、私たちが耐えられないペイラスモスにあわせず、それに打ち勝つ力を今日も与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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