FC2ブログ
2019. 02. 26  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:13です。

<私訳>「というのは、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられた約束は、律法に基くのではないのです。そうではなく、彼が世界の相続人になるというのは、信仰による義に基いています。」

アブラハムとその子孫に与えられた「約束」とは、「世界の相続人になる」ことです。

といいましても、旧約聖書には、そういうはっきりとした言葉で約束がされているわけではありません。

アブラハムとその子孫が、祝福の源となって、彼らを通して世界のもろもろの民が祝福を受けるという約束があります(創世記12:2、18:18、22:18)。

あるいは、「約束の地カナン」を受け継ぐという約束もあります(創世記13:15-17、15:18-21)。

これらの約束を総合して「世界の相続人になる」ということだと理解されているのでしょう。

そして、ここで言われている「アブラハムの子孫」の中に、霊的な子孫である私たちクリスチャンも入るのです。

キリストの福音を広げていく私たちの存在が、今や、祝福の源です。

そして私たちには、やがてもたらされる新しい天と地、完全な平和と慰めに満ちた神の国の「相続人になる」ことが約束されています。

そういう約束は、「信仰による義」に基づくのであって、「律法」に基づくのではないというのも鍵ですが、これはまた明日、14節を読みながら考えましょう。


共に祈りましょう。

主よ、世界の相続人になるとは、あまりにスケールが大きすぎて、私たちは呆気に取られてしまいます。主よ願わくは、私たちの信仰のスケールを大きくしてください。約束の喜びに満たしてください。
2019. 02. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。もう一度だけ4:9-12から考えます。

「割礼」があることが救いを保証するわけではない。信仰がはじまりなのだ。

アブラハムも、まず「信じた」ということが先であった。

まったく先が見えない中で、ただ神の約束を信じることによって、神との深いお付き合いの関係(=契約)へと入らせていただき、遥かな旅路をはじめたアブラハム。

そういう彼のことを、神は「義」とみなしてくださいました。

そして、その十数年後に、アブラハムは「割礼」を受けました。それは、救いに入るためではなく、もう救われているということを保証されるためでした。


こういう「割礼」の話は私たちには縁遠く思いますが、「洗礼」のことを考えるとよく分かると思います。

「洗礼」は、心の包皮を切り捨てる「キリスト教的割礼」という理解ができます。

洗礼入会式は非常に大切で不可欠ですが、それは救いに入るための手段・方法ではなく、すでに「信仰によって義とみなされている」人に、救いを保証するものです。

いうなれば、太鼓判を押していただくということです。「義」印のハンコが押されるのです。

中身が醤油であることを証明するために、醤油というラベルを貼るということだとおっしゃる先生もいました。

大事なのは中身であって、中身がソースに変わってしまうのなら、偽り者になってしまいます。ラベルが絶対的ではありません。

しかしこのハンコを押していただくことで、私たちは、自分が「義とされた神の子なのだ」と何度でも確認し、信仰の歩みを励まされます。

実に「洗礼」は、わたしたちの弱さを励ますために、主が与えてくださったしるしなのです。

「お前は救われた神の子だ。新しく生きよ」との、神からの後押しなのです。


共に祈りましょう。

主よ、キリストを信じることへと招かれたことを感謝します。あなたを知り、あなたと共に生きる喜びへと招かれたことを感謝します。義としていただいたことを感謝します。義とされた者として、新しく生きようとするすべての者たちを、励まし祝福してください。



2019. 02. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日から、4:9-12に取り組んでいます。

(<私訳>は繰り返しませんので、昨日の配信をご確認ください。)


ここで問題になっているのは、「割礼」ということです。

「割礼」は男性性器の包皮を切り取る儀式で、成人になる通過儀礼として、古代オリエント世界で広く行われていました。ですから、ユダヤ人だけの独自の慣習ではありません。

しかしユダヤ人の場合は、「主なる神様との契約を結んだということのしるし」として、割礼を理解している点が独特です。

割礼を受けた者は、神との契約に入った神の民であり、「義とみなされる」と考えていたのです。

女性は割礼を受けることができませんが、家長である男性のゆえに契約に入れていただくという理解です。

女性はまるで付属物のような扱いです。こういうことからも、いかに男性中心の社会であったかということが分かります。

今日の私たちにとって、それは決して正しいあり方ではないでしょう。

話は戻りますが、そういう「割礼」というしるしを、ユダヤ人たちは非常に大切にしていました。

たとえはよくないですが、任侠の世界で、体に墨を入れることによって自分を異質な者として誇るように、ユダヤ人たちも、異教社会でつっぱって生きる神の民としての自らのオリジナリティーを、割礼というしるしで確認しました。

でも本当に、割礼を受けたユダヤ人でなければ、「義とみなされる」ことはないのかと、パウロは問うています。

一番ルーツに戻ってみて、アブラハムの場合はどうだったか?

アブラハムが割礼を受けたのは99歳の時で(創世記17章)、神様の約束を信じて旅をはじめてから、ずいぶん後のことでした。

だから、大事なのは「信仰」、より正確には、救い主イエス・キリストを信じて受け入れることなのだと、言っているのです。

私たちには誇るべきなにものもないのです。信じさせていただくだけです。


共に祈りましょう。

主よ、何も持たないものが、義とされ、神の子、神の民としていただいたことを感謝します。外見ではなく、私たちの中身が変えられて、神の民としての証しがなされますように。




2019. 02. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:9-12を一気に読みます。

今日は、翻訳だけしてみて、明日また味わい直してみましょう。

<私訳>「では、その『幸いだ』という祝福は、割礼を受けたユダヤ人だけに向けられているのでしょうか。それとも、割礼のないすべての人にも向けられているのでしょうか。

私は繰り返して言いますが、『アブラハムに対しては、彼の信仰が義とみなされた』のです。

それではどんな状況の時に、そのようにみなされたのでしょうか。すでに割礼を受けた後でしょうか。それとも、割礼を受ける前でしょうか。

割礼を受けた後ではないですね。まだ割礼を受ける前だったじゃないですか。

まだ割礼は無くともすでに「信仰によって義とされている」ということの、認め印のようなものとして、後から、割礼という象徴的なしるしをいただいたのです。

こうしてアブラハムは、割礼は無くとも信仰をもっているすべての人々の父となったのです。それは、そういう人たちもまた義とみなされるようになるためです。

同時に彼は、まことの割礼のある者たちの父でもあります。

すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、私たちの父アブラハムがまだ割礼を受けていなかった時からの、信仰の足跡に従って歩もうとする者たちにとって、彼は父なのです。」


共に祈りましょう。

あなたによって義としていただいて、愛され、子とされて生きるこの身の幸いを感謝します。今日も、義とされた私たちが、平安と喜びに生かされ、互いに愛し合うことができますように。悲しみや痛みを覚える方々に、イエス・キリストの憐れみがありますように。
2019. 02. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日に続いて4:6-8です。

<私訳>「ダビデもまた、行いと無関係に義とみなされる人の幸いについて、こう言っている通りです。『幸いだ、その不法を赦され、罪を覆われた人々は。幸いだ、その罪を、主から罪とみなされない人は。』」

最後の「幸いだ、その罪を、主から罪と見なされない人は」。

原文は、「幸いだ、主が、罪を、けっして勘定に入れ給わないところの、人は」という感じです。

あくまでも主体は「主なる神」のほうにあって、「人」のほうにはありません。

「人」のほうでは、罪のおのれをさらけ出すしかないのですが、「主」が、それを「勘定に入れない」でいてくださる。

すなわち、「罪があるのに、罪だと見なさない」でいてくださる、ということです。

また、「けっして!!」と強調しました。文法的に、ここには「未来への強い否定」が込められているようです(参考書の受け売りです)。

私たちは、そういう「主」の側の、強い決意によって、ようやく救っていただけるような者たちです。


共に祈りましょう。

主よ、行いと無関係に義としていただく私たちですから、今、感謝とおそれをもって、自らの行いをもきよめたいと願います。また主よ、罪の深い自覚こそ、なによりも罪人にとって困難なことですから、それぞれにふさわしい聖霊の導きがありますように。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR