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2019. 03. 08  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。4:16-17を読んでいます。

私たちは皆、ただ神からの恵みの約束を信じて生きている、その一点において、アブラハムに連なる「子孫」なのだと確認しました。

ちょうど次の主日に分かち合うルカ13:10-17のところに、「アブラハムの子」と出て来ます。

18年間苦しんだ病を癒された女性のことを指して、「この人は、アブラハムの娘なのだ」とイエス様は言われました。

すなわち、神様からの約束をいただいている者なのだ、ということです。

だから、その約束を果たすために私が来て、苦しみから解き放つのだ、というわけです。


ローマ書に戻りますと、4:17には、私たちの信じる神はどういう方かが示されていました。

「死んでいる者をも生かしてくださる方、まだ存在しないものを呼び出して、存在するものとなさる方である神」とありました。

アブラハムは、神を、このような方と信じました。私たちもそうでしょう。

ここには難しいことは何もありません。ただ、信じるか否かです。

何も無いところに、天地を創造なさった神。イエス・キリストをよみがえらせたもうた神。

この神が、「愛する子よ、お前を永遠に祝福する」と約束してくださったのです。

私たちもまた、「アブラハムの子」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの全能の御手にすべてをおゆだねいたします。今日、心に重荷を抱えている者、疲れや苦悩で腰が曲がってしまっている者、呼吸が浅くなってしまっている者・・・、すべて苦しみの中にあるアブラハムの子たちを、どうか約束にしたがって、憐れみ、助け、その口にあなたへの賛美を回復して下さい。


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2019. 03. 07  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日分かち合った16-17節には、アブラハムが「私たちすべての者の父である」とありました。

新約聖書におけるイエス様とユダヤ人たちのやりとりを見ていますと、「我々はアブラハムの子だ!!」と激高している場面がよくあります。

あるいは、あのザアカイの物語において、イエス様はザアカイのことを「この人もアブラハムの子なのだから」と言われました。

「アブラハムの子(子孫)」であるということが、ユダヤの人たちの大切なアイデンティティーであったことが分かります。

それはすなわち、神に選ばれ、神と共に生きてきた「神の民」であるということでした。

そういう「アブラハムの子」に、血統の上では何のつながりもない日本人である私たちも、連なることがゆるされています。

(※ もちろん、すべての人間はアダムにつながるという意味では、血もつながっているでしょうが・・・)

このつながりは、ただ信仰によって生かされているという、一点でのつながりです。

何の値打ちもないものが、神からの恵みの約束を、ただ信じさせていただいて、神の民としていただきます。

ただその一点において、血統も、民族も、国境も超えて、世界中の人たちが、「アブラハムの子」として神の約束にあずかるのです。


共に祈りましょう。


主よ、アブラハムの信仰に連なるすべての神の民に、今日も恵みと祝福がありますように。迫害に苦しむ中国やインドやイスラム圏の兄弟たちに、恵みと祝福がありますように。この日本という特殊な国で、アブラハムの子とされたユニークな人たちを、天からの光で照らしてください。

2019. 03. 06  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:16-17。長いですので、今日は私訳だけ。かなり自由に訳してます。

<私訳>「このようなわけで、すべては信仰によるのです。

それは恵みによるのであって、あの約束は、すべての子孫に対して保証されるのです。

ここでいう子孫とは、律法によって生きてきたユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰にならって生きる異邦人も含みます。すべての子孫に保証されるのです。

アブラハムは、私たちすべての者の父なのです。

「わたしはあなたを多くの国民の父と定めた」と書いてあるとおりです。

このことは、彼が信じた神の御前においてです。

すなわち、死んでいる者をも生かしてくださる方、まだ存在しないものを呼び出して、存在するものとなさる方である神の御前に、そうなのです。」


共に祈りましょう。

主よ、すべてはあなたのものです。あなたには不可能はありません。私たちの父祖アブラハムに与えてくださったように、私たちにも、信仰を与えてください。信仰において、疲れを覚える者を励まし、永遠の希望を見上げさせてください。そして、今日の旅路の足取りを軽くさせてください。

2019. 02. 28  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:15です。

<私訳>「というのは、律法は怒りを引き起こすものであり、律法のないところには、違反もありません。」


ここで言うところの「律法」とは、神様とのあいだでの「法的・条件的取り決め」という意味合いです。

神様からの「約束」は、まったくのご好意によるもので、そういう「取り決め」に基づくのではないということを昨日確認しました。

というのは、もしそういう「取り決め」であるならば、とてもじゃないですが、私たちはそれを満たせないからです。

神様の求められる敬虔のレベル、ないし道徳レベルは、だれひとり満たすことはできず、むしろ神様をいらだたせ、「怒り」を引き起こしてしまうのが関の山です。

私たちは、そういう意味で、自分自身を「義とする」ことが完全に不可能なのです。

自分で自分を救えない。その無力を認めることが、「罪人としての自覚」の鍵です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを怒らせ、悲しませている私たちの毎日を、御子の十字架のあがないゆえにお赦しください。私たちはあなたを満たすことはできませんが、どうか私たちの貧しい心をあなたの御心で満たしてくださって、あなた御自身の喜びとしてください。

2019. 02. 27  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:14です。

アブラハムとその子孫に与えられた「約束」とは、「世界の相続人になる」ことです。

その約束は、「信仰による義」に基づくのであって、「律法」に基づくのではないと、昨日確認しました。

今日はその続きです。<私訳>「もし律法によって生きる者が相続人になるのであれば、信仰は虚しくされてしまい、あの約束は破棄されたことになってしまいます。」


「律法によって生きる」というのは、難しい言葉です。

律法に「立つ、頼る、行う、よりどころにする」など、色んな翻訳ができます。英語のfromのような前置詞が、ひとつ付いてるだけの言葉です。

手段・条件として、「律法によって生きる」とも考えられます。

よって立つ根本原理、生活原理という意味で、「律法によって生きる」でもいい。

そもそも、「律法」とは何でしょう?

この場合は、神様との法的・条件的な取り決め、というニュアンスが強いと思います。


榊原康夫先生の説教の中で、おもしろいたとえがされていたので、そのまま紹介しますね。

その当時ブーツが流行していたそうで、娘さんに「買ってあげる」と約束したそうです。

しかしお忙しいものですから、それきりになってしまってまだ約束が果たせない。

奥様もあきれてしまって、「パパはいつもいいことだけ言って守ってくれないから、もう娘はとっくにあきらめてるか、忘れていますよ」と言われてしまう。

でも、ご本人は全然そんな気はなくて「いや、約束したのだから、いつか買ってやるつもりだ」と考えている。

これが「約束」ということです。

もしも、そうではなくて、先生と娘さんとのあいだでアルバイトの協定を結びまして、何かお手伝いをしたらブーツを買ってやると条件を付けましたら、娘さんは黙っていないでしょう。

どんなに先生が忙しかろうと、法的取り決めに従って、断固要求するはずですね。

しかし、このブーツの件は、そういう取り決めではありませんでしたから、パパを信じて、黙って待つしかない・・。

「律法によって」ではなく「信仰によって、神からの約束に生きる」というのは、そういうことなんだと言われます。

神様の側から、思いもよらぬ、まったくの恵みの、ご好意のプレゼントが約束された。

それは、こちら側のいかなる条件にもよらないものです。

お手伝いをしたからもらえるでもなし、逆に、さぼったからもらえないでもない。

まったくの恵みで約束してもらったことを、ただ信じて、待っていればいいのです。

しかも神様は、榊原先生のようないい加減なパパではなく、必ず約束を実現してくださる頼もしい父ですから、信じるに値するのです。


共に祈りましょう。

天の父よ、私のことを、まさしく無条件で愛して下さるあなたのご好意に、改めて感謝をします。御子をくださったあなたが、その他のすべてのこともくださるに違いありません。今日もあなたの恵みを信じています。


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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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