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2018. 11. 07  
宗教改革記念日を覚えて、今日で最後です。

昨日は、宗教改革における「万人祭司性の原理」の再発見について確認しました。

私たちはみな、神を見失ったこの世界にあって特別に選ばれ、神にお仕えする存在として聖別された「祭司」です。

その祭司としての務めの本質は、「犠牲をささげる」ことだとカルヴァンは理解していました。

それは旧約時代の神殿でのいけにえのことではなく、「感謝と賛美のいけにえ(ヘブライ13章15節)」であり、「霊的ないけにえ(Ⅰペトロ2章5節)」です。

それは一言でいえば、まったき献身の人生ということです。

祈り、礼拝、伝道、愛と慈善の義務・・その他一切のことを含めて、我々の身と魂のすべてをささげる。

全的献身の生涯に生きることです。

主イエスがその命のすべてをささげてくださいました。そのまったき愛と献身に答えて、わたしもまた主のためにおのれをささげる。

主は言われました、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(ヨハネ17章19節)」



ローマ12章1節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

共に祈りましょう。

主よ、ひとりひとりが今日も、あなたに与えられた一日に取り組もうとしています。この一日を、あなたにおささげします。どうか喜んで受け取ってくださり、大いなる天の祝福を満たしてください。
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2018. 11. 06  
宗教改革記念日を覚えて、あと2回です。

宗教改革は、本質的に教会改革でありました。

ルターが最初期の書物において強調しているのは、信仰における神の前での「身分の平等」です。

中世においては「聖なる教会」と「汚れた世俗」の差は根本的なものとみなされました。

しかしルターは、腐敗したローマ教会の聖職者位階制度に対する激しい批判を込めて、いわゆる聖職者と世俗人との間には、一切の身分上の差別は存在しないと主張しました。

聖書によれば、われわれはみな一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰をもつ同じキリスト者であり、すべての者が聖別された「祭司」として、神に仕える存在とされていると再発見したのです。

ルターは、「みなが教皇なのだ」とさえ言いました。

これを「万人祭司性の原理」と言います。


教会は一部の聖職者のものではなく、みんなのものです。

互いに罪を告白し、執り成し合い、キリストの赦しを語り合う「聖徒の交わり」であり、神の家族、神の民です。

それぞれに委ねられる働きには違いがあっても、そこにはお客さんは一人もいません。

それぞれが神様から与えられている務めと賜物があるのです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(Ⅰペトロ2:9)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も世俗の社会に生きる私たちすべてのキリスト者を用いて、あなたの御業をすすめてください。あなたの御栄光が、わたしたちの家で、学校で、職場で、また教会で、ゆたかにあらわされますように。
2018. 11. 02  
宗教改革記念日を覚えてのシリーズ、今日はⅡペトロ1章20~21節から。

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基いて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」


日本キリスト改革派教会の伝統においては、聖書を順番に丁寧に読み解いていく「連続講解説教」が主流です。

これは、宗教改革者たちの実践を模範としたものです。

その背景には、「聖書全体が神の言葉で成り立っている」という確信があります。

聖書全体は、同一著者なる聖霊による一貫性をもち、どの書物も、どの章も、どの節においても信仰者たちへのメッセージをもっています。

私たちに求められるのは、自分の言葉を捨てて、その神の言葉のすべてに聴き従うということです。


連続講解説教というスタイルが絶対的なわけではなく、大事なのは、与えられる御言葉をひれ伏し聴くという姿勢です。

時代や流行に合わせるのではなく、聖書の視点から、時代や流行を解釈するのです。

自分の手の中に聖書を置くのではなく、聖書の中に、また聖書の下に自分を置くという姿勢です。

連続講解説教を聞き続ける中で、「こんな御言葉が今日与えられるなんて・・」と、意外な喜び、驚き、あるいは戸惑いを覚えることは、誰もが経験することです。

私以上に私を知っておられる神は、私の思いを超えて、私の聞くべき言葉を与えてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉を与えてください。私の思いを超えて、あなたの御言葉によって、教え、戒め、励まし、慰めを与えてください。
2018. 11. 01  
宗教改革記念日を覚えて。今日は、聖書の大切さを思い出しましょう。

申命記5章24-25節「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。」


宗教改革者たちは、ひたすらに聖書を読んだ人たちでした。

当時の教会の教えに縛られることなく、聖書を原語で読み、新鮮な福音の再発見に身を躍らせました。

それを人々に身近な言葉に訳して提供したので、誰もが神の言葉に触れることができるようになりました。

あの時代、人々は「神からの語りかけ」を聞く喜びに満たされていました。


以前に、預言書の難解な言葉を前にして聖書の通読に挫折しそうになった方が、「聖書は神からの語りかけを記した書物です」という言葉を聞いて、すーっと力が抜けて、全然違った思いで読めるようになったと証しを伝えてくださいました。

生ける神である主は、聖書を通して、私たちに語りかけてこられます。偶像は、物言わぬ死んだ神です。


今日の申命記の言葉にあるように、神から直接語りかけられるというのは、本来恐るべきことです。

そういう御声を、神は聖書に封じてくださり、私たちが触れることができるようにしてくださいました。

今や私たちは、本としての聖書があまりにも身近すぎて、そのおそれや驚き、そして喜びが見えにくい世代かもしれません。

聖書を通して、今日も神が語りかけてくださいます。


共に祈りましょう。

「主よ、お話ください。僕は聞いております。(サムエル記上3章10節)」今日も聖書を通して、私たちが聞くべき言葉を語ってください。それを聞き分けることができるように、耳を、心を、開いてください。
2018. 10. 31  
今日が宗教改革記念日です。1517年の今日、ルターが95か条の提題を貼り出しました。

主教改革を覚えてのシリーズ、今日はエフェソ2章4~6節から。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」


「罪のために死んでいた」、激しい言葉遣いです。

でも、こういう言葉で自分の過去を振り返ることができる人は幸いです。

神の恵みによって、自分の過ちに気付かせていただいた人です。

そして今は、「キリストと共に生きる」喜びを知っている人です。


宗教改革者カルヴァンは、その代表作であるキリスト教綱要の冒頭に、自分自身の罪と悲惨をはっきりと認識する必要を教え、「自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできない」と言います。

不快感という言葉がおもしろいです。それほどの、徹底した自己否定が必要と言う。

いやむしろ、聖なる神の御前に立つということを真剣に考えるなら、そうならざるを得ないのです。

カルヴァンという人は、神の御前での自分の罪深さに対して絶望しきっていた人でした。


私たちはまさしく「死んでいた」不良品でした。

しかし、そのような者を、憐れみ豊かな神がこの上なく愛して下さった。この愛から、すべてが始まりました。

「お前を棄てたくない、再生させる」と、神が望んでくださったのです。


共に祈りましょう。

憐れみ深い主よ、あなたを知らなければ、自分自身の罪深さに気付くこともありませんでした。あなたを悲しませ、周囲の人々を無自覚に傷つけてきた私を、ゆるしてください。どうぞ、キリストと共に生きる者として、いよいよ整えていってください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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